建物をつくるとはどういうことか-9・・・・続・「世界」の広がり方

2010-12-06 22:55:53 | 建物をつくるとは、どういうことか
[文言追加 7日8.27][文言追加 8日 9.10][文言追加・改訂 8日 10.18][註記追加 8日 10.35]

先回まで、集落誕生の始原の状態、すなわち、土地との密接なつながりゆえに生まれる「ある場所に定着する」姿について触れました。当然ですが、「農業者」たちの集落です。そして、そのとき、そこには、まず「非農業者」はいません。始原の状態では、集落は「第一次産業」従事者によってつくられるのです。

ところで、「ある場所に定着した」ということは、当たり前ですが、天から舞い降りてきたわけではなく、自らの足で、「どこ」からか「そこ」へ「たどり着いた」ことになります。では、どういう「ところ」をたどってたどり着いたのか。

定着が進行する以前に、すでに、人びとが行動する「ルート」はできていたものと考えられます。つまり、いろいろと歩き回っていた。しかし、そのつど、勝手気ままに歩き回ったわけではない。
たとえば森林・樹林あるいは山の中へ採集に向う場面でも、そのつど新たな「ルート」を開いたのではなく、自ずとでき上がっていた「ルート」を使ったに違いありません。いつの間にか「前進基地」がつくられていたのです。

   もちろん、彼らには、今のような「地図」はありません。
   あるのは、「頭の中に描かれた地図」だけ。

しかし、「ルート」や「前進基地」は、無差別に、どこでも構わず設定されたわけではありません。それらは、ある「原理・原則」の下で設定されていた。
この点については、第5回で、現在の事例で簡単に触れました(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/419bda1f19b90b3fa13f19d175f38811)。

また、人びとが「道」をつくりだす「原理・原則」については、かなり前に、「清水寺の参詣道」を例に触れています(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/262176cccda7b41acd735a3d8f2732ac)。

   たとえば広大な欧亜大陸に生まれた通称シルクロード。
   交易等に使われた場面で取り上げられることが多いのですが、これも「交易者」たちがつくりだしたというより、
   それ以前から、一帯で暮していた人びとによって「開拓」されていた「道」が複合したものと考えられます。
   これは、日本の古代の「官道」に於いても同様で、古代日本の最も重要な「道」であった「東山道」は、
   各地域に暮す人びとによって、すでにつくられていた「道」を「つなげた」もの。

   だから、先回例に挙げた私の暮している集落の周辺にも、集落が生まれる以前に、いくつかの「ルート」があり、
   そういったところを歩き回っているうちに、例の「潜み」を知ったに違いありません。
   いわば、人のつくる「けものみち」。「けものみち」にも、一定の「原理・原則」があるようです。

   先に挙げた参考図書(?)「十五少年漂流記」にも、「定住地」の確保に至るまでの「過程」が描かれています。
   注目すべきは、漂流しなければ、彼らは、「非農業者」であり続け、
   農耕を視野に入れて「定住地」を探すような状況には、決してならなかった・・・。


では、「土地」との直接的な係りを必要としない「非農業者」たちの「世界」はどのようになっているのでしょうか。
「非農業者」ですから、農耕の視点で土地を選択、探す必要はない。

「非農業者」たちの土地の選定の要件は、当然ですが、「非農業」が、どのような内容であるかによって決まります。

「集落」が安定してくると、各「集落」間に「交流」の機会が訪れます。
それを積極的に進める、それに専念する人たちも出てきます。その人たちが、集落の人びとに代って「交流」の代役をつとめる。当初は、農耕のかたわら、歩き回ったものと思われます。
これが「交易」の原点。「商い」の原点。集落の主である農業者たち:「第一次産業」者にとって不可欠な存在。だからこそ「『第二次』産業」者と呼ばれる。

   現在、「商業」をして「第二次産業」と呼ぶことがなくなったようです。
   それは、現在の「商」「商い」が、始原的な意味での「商い」ではなくなったからでしょう。
   だから、始原的な「商い」「交易」をして、現在の《商売》《ビジネス》の目で見てしまうと誤解を生みます。
   以前に紹介した「近江商人」たちの「商い」は、
   ずっとずっと、この始原的な「商い」の姿に近いのです(参照記事:後掲)。
   同じ「商」の字があるからといって、現在の「商」と同一に見るわけにはゆかない。
   現在の「商」に係る人たちは、「商」の始原について、
   思いを馳せたことがあるのだろうか、ときどき、考えてしまいます。
   「商い」とは、ただ「金儲け」に「いそしむ」ことなのか?

この「第二次産業」者たちは、「第一次産業」者とは別な土地に住み着きます。

下の地図は、以前に載せた地図の再掲です。
今から30~40年前の筑波山麓の一帯。



この地図の左端に、Dと符合をつけたところがあります。「洞下(ほらげ)」と呼ぶ集落で、かつては、この地域の商業の中心の一つでした。

現在は(この地図でも)主要な道は、図の中央、水田の真ん中を南北に通っていますが、往時は、水田を挟む東西の微高地に2本ありました。
東側は山の麓を等高線に沿う道、したがって曲りが多い。西側は南北に長く続く低い丘陵の尾根筋の道、真っ直ぐに走っています。ともに「道の原理・原則」通りの道です。
この東西の山・丘陵の形は、中央を流れる川:「桜川」がつくりだしたもの。
この内の西側ルートは、この一帯の南北にある他地域:南は「谷田部」から「取手」、北は「真壁」:を結ぶには近くてきわめて至便。つまり、古くからの南北を結ぶ主な街道筋。

一方で、この地域を東西に結ぶ古くからの「道」もあった。西は「下妻」「下館」、東は「土浦」「石岡」へと至ります。
この南北と東西の道が交叉する場所、それが「洞下」なのです。それゆえ、往時はこの地域の「物流拠点」。
おそらく、人びとが定着する以前には、「市」が立ったものと考えられます。そして「専業者」は徐々にこの地に定着した。今はもう「商い」はしていませんが、道に面して商いをし、奥では小さな畑をつくって暮していたのです。畑は残っています。

もう一箇所、この地域の南部にあった「第二次産業」者の定着地を紹介。
筑波研究学園都市の「開発」によって、その地位が大きく損なわれた例。

下は、現在筑波研究学園都市の中心部になっている一帯の1970年(昭和45年)当時の国土地理院地形図を基に編集した図です。まだ、「開発」が初期の頃の姿。点線で示したのが、「筑波研究学園都市開発」の計画主要道路。左が北になるように編集してあります。
なお、この地図は、ほぼ今回と同じことを書いた
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/a23a9e9e6fc0cd0a949482ccca728a3aで掲載したものと同じです。[文言追加 7日8.27]



下は、この地域を含んだ航空写真。1945年(昭和20年)の米軍が撮影したもの。これは、下記の記事で一度載せたことがあります。

   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/0fe1c2bafa47b7e3f4e9849d845e85f1
   なお、ここでは、今継続している長々しい話のいわば「結論」を、要約の形でまとめています。
   今回のシリーズは、なぜ私がそういう「結論」に至ったかを、要約ではなく「くどく」書いているわけ。



上の地図と写真で赤い線で囲んだのは「刈間(かりま)」という集落で、先の「洞下」と同じ程度の「第二次産業」者の定着集落。
ここは、先の「洞下」からも続く南北の道と、東は「土浦」、西は「谷田部」「石下」へと至る東西の道の交叉点。

1970~80年の頃、ここをよく通りましたが、なかなかいい雰囲気の場所でした。そのまま姿を維持していたら、つまり、開発から「取り残されていた」ならば、数十年後、伝統的街並として保存が叫ばれたかもしれない!しかし、その雰囲気は、開発により消し去られました。

   伝統的街並保存とは何か、考えるには恰好の事例です。
   つまり、新たな「開発」が、従前の「街並が持っていた雰囲気」をつくり出せないがゆえに、
   振り返ってみたら、開発から「取り残された街」の素晴らしさに気がついた、だから「大事に」しよう、ということ。
   けれども、残念ながら、それを「観光《資源》」として扱い、何がそういう結果を生んだのか、
   いったい何をしなければならないのか、考える人が少ない。

   このところ盛んに読まれている以前に書いた記事「遠野・千葉家の外観」で私が「遠野」について書いた感想も、
   同じく「大内宿」について書いたことも、(下記)
   つまるところ、それ。皆、目先の《商売》に気をとられている・・・、という思い。
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/5a75fa6c161af6de05771cbf2dbc088c
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/ad84f2c5e8cd2729e059fd68ad355a6e
   「復刻:遠野:千葉家の外観」もご覧ください。[追加 10月4日]
   
これらの例を観ることから見えてくるのは、往時の「第二次産業」者の定住地の設定は、「第一次産業」者の存在なくしてあり得ない、という「当たり前の事実」です。
だから、別の言い方をすれば、彼らは「第一次産業者」の「世界」に通じていたのです。
これは、当たり前と言えば当たり前です。
なぜなら、彼らの暮しは、「第一次産業者」があってはじめて成り立っていた。そして、先ず第一、彼らも、元をただせば「第一次産業者」だったのです。
それゆえ、彼らの定着地での「住まい」のつくり方も「第一次産業者」のそれに倣ったものであり、その「世界」の「広がり方」の原理・原則も、「第一次産業者」のそれと変ることはなかったのです。[この段落 文言追加・改訂 8日 10.18]

しかし、その「世界」の広がり方は、「第一次産業者」のそれとは比べものにならないほど広く、大きかった。
そして、その「世界」で得た彼らの「知見」は、出し惜しみすることなく、「第一次産業者」にも伝えられたのです。それゆえ、想像の域ではあっても、「第一次産業者」の「世界」もまた広がった。
もちろん、「知見」は「他地域の人びと」へも伝えられました。それが、地域間の「交流」の原点です。
それを代表する好例が、各地域での「近江商人」の行動です。それについては下記で書いています。

   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/1797ceeaa88c6f3e3393dc4d6aa022d7

   なぜ「第二次」と呼ばれのか、その理由もそこにあります。
   「第一次」なくして「第二次」もない・・・。
   現在、こういう区分け方がされなくなったのは、
   互いに無関係、無縁の存在になってきたからではないでしょうか。
   

このように、往時の(始原的な状況下の)「第二次産業」者の土地選定にも、必然的な「要件」があった。

残るのは、それ以外の人びと、いわゆる「第三次産業」者の場合。
これを定義するのはきわめて難しいですが、あえて言えば、往時では、「第一次産業」者、「第二次産業」者たちを差配しようとした人たちがそれにあたると思います(そこには、いわゆる宗教者も含まれるでしょう。元はと言えば、集団を守る呪術者の一群)。それがどのように生まれてくるのか。

各集落で、集落を「統率する」者が必ず居たことは確かです。
しかし、彼もまた「集落定着者の一」にすぎない。いわゆる「豪族」と言えども、それには変りがない。「豪族」がなぜ豪族たり得たか、と言えば、それは、基盤である「集落」に通じていたから、信頼されていたからに他なりません。
つまり、往時の「第三次産業」者もまた、「第一次産業」者、「第二次産業」者の延長上にあった。
だから、彼らの定着地、その場合は居住地と言った方が適切なのでしょうが、その「選定・設定の原理・原則」は、「第一次産業」者、「第二次産業」者と変ることはなかったのです。
公家も武家も宗教者も、「第一次産業者の居住の原理・原則」からはずれることはなかったのです。
別の言い方をすれば、「人の感性は、皆同じであった」、ということです。
幾多の事例がそれを物語っています。


さて、厄介なのは、現代の「非農業者」。つまり、「土地」との係りに必然性がない(と思っている、そして、そう思われている)人たちの場合です。
別の言い方で言えば、「土地」を、あるいはすべてのものを、単に、その「呈する姿」の「付加価値」で「測ろう」とする時代に生きる人たちの場合。

その場合、往時の人たちの持っていた「感性」は、すでに通用しなくなってしまっているのでしょうか。
そうではないことは、すでに、このシリーズの初めの頃に、いくつかの事例で触れてきていることの中で示してはきました。

そこで、次回、あらためて考えてみることにします。

   最近、「里山を本来の姿に戻そう」という「運動」があるのを知りました。
   これなどは、「付加価値」で「土地」を判断する典型のように私には思えます。
   「本来の姿」とは何?
   それについての言及はない。
   「集落の人びとの暮しの必然」で生まれた樹林帯を、今の集落の人たちの暮しの様態を考えもせず、
   「求めよう」「再生しよう」・・・という。私には不遜に映る。[文言追加 8日 9.10]

   註 土浦の西郊で、この数十年にわたり、その地域にある丘陵の様態の維持に係っている方が居られます。
      この方の場合、その発端は、住宅公団が住宅用地として一帯を買上げようという動きを知ったことでした。
      以後、現在まで、営々としてそれに努めている。
      その間、何人もの方が賛同して現われ、そして消えていった。
      継続しているのは、この方とそのまわりの方がただけと言ってよいかもしれません。   
      この方は、この丘陵の近くに、そういう地を求めて移り住んだ方であったと思います。
      そして、「里山」ブーム?で、その地を見に来る人が増えている・・・。 これまた「観光」?
      この方は、それによって地域を《活性化》しよう、などとは考えてはいませんでした。
      たくさん人が訪れればよい、などとは考えてはいないのです。[註記追加 8日 10.35]

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