[文言追加 12.25]
先回まで、「私の世界」、すなわち「自分が思うがままに振舞える世界」が、どのように獲得されてゆくか、簡単な例で説明してきました。
このシリーズの第2回(下記)で「・・・うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。ただ用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。・・・」という道元の言葉を紹介しました。
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/33a09f3a4a0c35a53734ccdb48a370c8
人は常に「空間に在る」のであって、
「人」が一方に在り、他方に「空間」が在る、と考え、その二者の関係を云々するという見かた・考えかたを採ると(これが一般的な近・現代のものの見かた・考えかた)、
出るに出られない落し穴に陥る。
私たちそれぞれの「世界の広さ」は、
一に、「空間に在る私たち」それぞれの「用」「要」に拠って決まる「空間の大きさ・広さ」である、ということです。
私たちが、ある「地域」に詳しくなる、自由に歩き回れるようになるのは、その「地域」が、私たちの「用」「要」と係わりがあるからなのです。
もちろん、その「用」「要」は、暮し・生活にとって不可欠、「それがなければ生きてゆけない」、という局面の場合もありますし、単に「遊興」のための場合もあるでしょう(ただ、「遊興」の場面は、「それがなければ生きてゆけない」という状況が満たされていなければ存在し得ません(「遊興」が先行する、あるいはそれだけしかない《暮し》は、存在しないということです)。
それゆえ、第4回(下記)で紹介した諏訪の宿屋の番頭の「姿」、すなわち、
「見えているからといって知る必要はない、知る必要のあるもの・ことを知ればよいではないか」という生き方の姿が、元来の私たち人間の姿であった、と考えてよいのではないでしょうか。
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/bc31d7679162a2ee5a49f2d7e27fa02b
ある頃から、「見えるもの・こと」を「知る」こと、そしてその「量」が、
その人の「知性」であるかのように見なされるようになってしまったのです。
サン・テグジュペリの言葉を借りれば
「・・・おまえが私に示す人間が、なにを知っていようが、
それが私にとってなんの意味があろう?それなら辞書と同じである。」(「城砦」より)
そしてまた、第5回(下記)では、私たちが新たな世界を「獲得する」場面では、自分の「既知の世界」から「未知の世界」に向け、いくつかの「前進基地」を築きながら行動する、ということを、これも簡単な例で見てきました。
では、いかなる「もの・こと」が「前進基地」になるのか、
そして、もしも「前進基地」を築くことができない場合には、
私たちは常に「既知の世界」へと戻らなければならない、そこから出直さなければならない、ということについても簡単に触れました。
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/419bda1f19b90b3fa13f19d175f38811
けれども、「既知の世界」もまた、かつては「未知の世界」であったはずです。
先験的に「既知の世界」が私たちに備わっているのではありません。それはあくまでも、私たちそれぞれが、自ら「獲得」したもの。
しかし、時折り、この厳然たる事実を忘れがちになります。
「自らで獲得する過程」を省き、「既存の《知識》」を鵜呑みにし、
それでよし、としてしまうのです。
もちろん、「その過程のすべて」を体験することなどできません。
それは、人の歴史のすべてを辿る、経験することに他ならないからです。
どの時代に生きた人も同じだったはずです。
それを補ったのが、私たちそれぞれの「感性」による「想像」です。
今は、「想像」さえ働かすことをしなくなっている、そのように私には思えるのです。
むしろ、「そんな勝手な想像をするな」、
「偉い人の言うことに従え」「偉い人に従っていればいいのだ」、そんな気配さえ感じます。
これまでは、「未知の世界」へ向う場面について考えてきましたが、この現在の「既知の世界」ができあがるまでの過程を逆にたどるとどうなるか。
そこには、これまでの拠りどころとなった多数の「前進基地」が現われ、終には、それ以上逆にたどれない地点に至りつくはずです。
いわば、自らの世界を獲得するための「始源的な拠点、原点」にたどりつく。そこから先には、もう戻るところがない。それゆえに、「始原的」なのです。[文言追加 12.25]
そして、この「始源的な拠点・原点」こそ、人にとっての「住まい」に他ならない、と私は考えています。
このことをきわめて明瞭に示しているのが下の図です。
これは、大分昔に読んだ福井勝義著「焼畑のむら」(朝日新聞社)に載っていた図で、ある山村の土地の呼び名、そのように呼ばれる土地がどのあたりに在るのかを示した「土地利用の模式図」です。
この図の「屋敷」とは、つまるところ「住まい」です。
かなり前に、「建屋」だけを「住まい」と見なすのは誤解を招く、建屋を含む「屋敷」が「住まい」なのだ、と書きました(下記)。
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/96fa99810f1b340e57b5b01db1b38e7b
つまり、「屋敷」とは、そこで人は「まったく自由である」と「思える」一帯・場所のこと。それがすなわち「住まい」。
「屋敷」を中心にした同心円は、「屋敷」:「住まい」からの相対的な遠近:距離を表しているとみてよいでしょう。
この図で、色を着けたところはいわば「未知」の、この場合は「未開」の世界、やや薄い色をかけた場所は、既知ではあるが、あるいは既知になりかけているが、未利用の場所。
この模式図を説明する恰好な一文がありますので、引用します。
・・・・・
農民と土地との関係は、具体的には「地片」の利用の仕方を通して表現される。
土地のもつ形状・地勢・陽の当たり具合・土壌の厚さ・自然の植生といった
土地そのものの自然条件にうまく適合しながら、
住居との距離、家族の労働能力、素質、作目配分などを考えて決まってくるのが 「地片」の利用であり、
土地利用とはそれらの「地片」利用の総括に他ならない。
・・・・・
(安達生恒著「むらの再生」より)
註 ここで定義されている「土地利用」とは、
人びとの、その「在る空間」の認識のしかたに他ならないでしょう。
「自然」もまた「在る空間」の「一側面の状況」なのです。
「自然」のない(欠いた)「在る空間」は存在しない、ということです。
また、ここでいう「土地利用」は、
現在の建築や都市計画の「専門」の方がたが唱える《土地利用》とは、まったく意味が違います。
安達氏は、ここでは、「農民と土地との関係」に限定して述べています。
しかし私は、この「関係」は、
農民に限らず、「人と土地との関係」の「原理」として、一般化してよいのではないか、と考えます。
現在の建築や都市計画の方がたの《土地利用計画》には、
このような意味、
すなわち「土地そのものの自然条件との適合」は視野にありません。
現代の《科学・技術》をもってするならば、そんなことは視野に入れる必要はない、と《信じている》からです。
そして、そのような「土地そのものの自然条件との適合」が視野にない《計画》こそが、
多くの大きな災害の因となっている、と私には思えるからです。
当然、このような「土地利用」に当たっては、最初に、どこに「屋敷」を構えるべきか、考えられているはずです。
もちろん、人は突然、ある場所に天から降ってくるわけではありません。
その「ある場所」に辿りつくまでの過程は深遠です。それゆえ、ここで人類発祥まで遡る気はありません。せいぜい、あるところに人びとが住み着いた、そのあたりから後の話にします。実際、そのあたりからでなければ、私には分りません。
そのあたりについて、昔読んだ書物を挙げます。いずれも、いわば入門書。それぞれには、原本になった学術書があります。なかには絶版もあり、そして今は、さらに深化した書物が出ていると思います。
和辻哲郎著「風土」(岩波書店):これはある意味で古典
玉城哲、旗手勲著「風土・大地と人間の歴史」(平凡社選書):これはすでに紹介
上山春平著「照葉樹林文化」(中公新書)
中尾佐助著「栽培植物と農耕の起源」(岩波新書)
谷泰著「牧夫フランチェスコの一日・イタリア山村生活誌」(NHKブックス)
などなど
「聚落」という語があります。今は「集落」と書くのが普通です。
「聚」「集」は、ともに「集まる」という意味です。
「新漢和辞典」(大修館)によれば
「聚」は、①あつまる(寄りあう、むらがる、ひとつになる、つみかなる )②あつめる(あわせる、そろえる、たくわえる) ③あつまり(つみかさなり、集まった多くの人、なかま) ④たくわえ ⑤むら、さと、多人数集まって住むところ、村落
「集」は、①あつまる、つどう ②あつまり、つどい ③詩文などをあつめたもの ④市場 ⑤とりで ⑥まじる ⑦ととのう ⑧なる(就)、なしとげる ⑨いたる(至) ⑩とまる、とどこおる ⑪やすらか ⑫やわらぐ・・・・
「落」は、①おちる(枯れおちる、高所から低所に急にさがる、おちいる、ぬけおちる、おちぶれる、おとろえる、へる、しずまる、手にはいる、おちつく) ②おとす ③死ぬ ④おちているもの ⑤はじめ ⑥建造物が完成したときこれを祭ること ⑦まがき ⑧さと、むらざと・・・
白川静著「字統」によれば、
「聚」は、元は「(人が)会する意」、この字一字でも「村落」の意となる。
「集」は、元をたどると「鳥が木に群れている形」、そこから「集まる」という意
「落」は、「元の姿を失うこと」「建造物や器物ができ上がったとき、血で清める儀礼」
あるいは「落成」、あるいはまた「旧を捨て新たにする」という意。
これらの語彙の解釈から、「聚落」「集落」とは、
「居所を定めず暮していた人びとが、一定の場所に定着した、落ち着いた、そういう所」
という意味がある、と考えてよいと思います。簡単に言えば「定住」です。
その結果として「聚」「落」の語が、一字だけでも「むら」「さと」の意になった、のではないでしょうか。
英語の「聚落」「集落」に相当する語は settlement です。
この語は、settle の派生語ですが、settle の語の意味を「研究社 新英和中辞典」で調べてみると、どちらかというと「落」の意に近いようです。
そして settlement の語義は、①解決、決定 ②清算、決算 ③植民、移民、開拓 ④定住・・・とあります。この③と④が「聚落」「集落」に対応していることになります。
つまり、人びとの暮しかたの様相は、洋の東西を問わず、同じように捉えられていた、と言ってよいでしょう。
この場合、集まった「人びと」が、どういう人びとか。
「任意に」集まった人びとではありません。「暮しを共にすることに意義を認めている人びと」のはずです。
ですから、通常、「聚落」「集落」という語ではなく、「村」「町」・・という語が用いられますが、本来の意味で言うと、現在の都会の「町」をも「聚落」「集落」という概念に位置付けるのには躊躇いがあります。
では、なぜ人びとは「定住」するようになったか。
言うまでもなく、食物を「栽培」することと関係しています。農耕を発明することで、暮しの安定を図った、と言えばよいのでしょう。
「遊牧」民は「放浪」「浮遊」しているように思われますが、実際は、年間の「行程」は決まっているのだそうです。
この人たちは、家畜たちと行動を共にしますから、一に家畜たちの食料の確保が生活を左右します。
家畜たちの食料、それは草原の草木が主体。
たとえばある場所で春先を過し、その場所の草を食べつくした頃には、次の「放牧地」を目指す・・・、
これを繰り返して春になると最初の場所へ戻ってくる。その頃には、その場所の草は繁っている・・・。
このように、一年を通しての「行程」は一定していると言います。
日本のような、すぐに草が生えてくる、そういう地域ではないところで暮すがゆえの生活スタイル。
言い方を変えれば、その「行程」そのものが彼らの「定住」地なのかもしれません。
しかし、不安定であることはたしか。オアシスへの「定住」が彼らの「願望」なのだそうです。
では、どういう場所が「定住地」:「聚落」「集落」の適地として選ばれるのか。
その「選定」の「原理」は、先に紹介した安達氏の一文と同じと言ってよいでしょう。
ただ、そこに示されているのは、いわば「必要条件」。
私は、そのとき、人びとは、自らの「感性」に基づいた判断も加えているはずだ、と考えます(このことについては、下記で書きました)。
つまり、「必要条件」を充たしたところなら、どこでも「定住地」にした、ということはない、ということです。
毎日気分よく過したいはずだから、気分の悪くなる場所は、できることなら選ばないはずなのです。「毎日気分よく過したい」条件、それを「十分条件」と言いました。
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/31a97d11acdc29d010ec4d548e7df7b5
けれども、ある場所に長く暮している人びとが、なぜここに住んでいるのか、不可思議に思うときがあってもおかしくはありません。その場所に何代も暮していれば、当然、始原のことは分らなくなる、忘れられます。
そして、それを知りたくなるときが来る。「歴史」への関心です。そうなるときが必ずある。そして、考えてみればみるほど、まさに不思議。だからこそ、天孫降臨説が生まれてもおかしくはないのです。
このような「歴史への関心」は、これも人の「定位」の作業の一と言えるのではないでしょうか。
さて、そうして選定された「定住地」で、人びとは個々の「住まい」を設けることになります。
それは、その定住地を拠点に暮す個々の人びとの「拠点」です。
その一例が、先の「ある山村の土地利用模式図」の中心に構えられた「屋敷」なのです。
しかし、「屋敷」が現われるまでには、特に日本の場合は、時間がかかります。
なぜなら日本は雨が多い。乾燥地域なら、とりあえずは「囲い」さえあればよく、強いて「屋根」はなくてもよい。そしてその「囲い」が「住まい」であり、日本で言えば「屋敷」。日本では、先ず、「囲い」には屋根が必要。「屋根を持った囲い」、それが「家屋」=「住まい」と理解された。
このことについて触れたのが、先の中国西域の住まいを例にして書いたこと(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/96fa99810f1b340e57b5b01db1b38e7b)。
このことは、「屋敷」という語に端的に示されているのではないでしょうか。
「屋」とは古では「屋根」のこと。「屋」を並べることのできる一帯=「屋敷」。当然、自分の「屋」を並べられるのは、自分に任されていると認められる、あるいは、思える、一帯。つまり、自分の「住まい」のこと。
そして、その「住まい」の始原的状態の姿、それが一つ屋根のワンルームだった、ということ、そして、人びとが自分の住まい以外につくる「空間」の姿も、それが原型であった、ということは下記で触れました。
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/4144be4e6c9410282a4cae463e3d42a3
またまた大分長くなってしまいました。
では、「定住地」の、どういうところに「住まい」を設けたのか、なぜワンルームなのか(そして今、なぜ基本がワンルーム、ということが忘れられたのか・・・)、どのように「つくった」のか・・・。これらの点について、次回以降、あらためて考えてみることにします。
今回の最後に、さきほど掲げた「山村の土地利用模式図」に似た図を紹介します。
これは、古代中国の「書経(しょきょう)」に載っているという「天下」の図です。
天下:世界を、自分を中心に、このように描いていた、あるいは、そのように描くのが「理想」であった、ということのようです。
もちろん、私は「書経」に触れたことはありません。
竹内実氏のエッセイ「茶館―中国の風土と世界像―」(大修館書店)に載っていた「五服九服対照図」を簡略化して描きあらためた図です。
この「方五千里」四方が「天下」。
色を着けた部分が「未知」「未開」の地域、薄い色の一帯は、少し「既知」になりかけている、あるいは取り込もうとしている一帯、と考えられます。
「畿」とは「城」のことですから、「王畿」とは「王城、直轄地」ということになります。
つまり、「住まい」とは、住まいの主の「畿」なのです。
註 「書経」は儒学が規範とする「五経:易経、詩経、書経、礼記、春秋」の一。
「経」とは、いわば「教本」。
先回まで、「私の世界」、すなわち「自分が思うがままに振舞える世界」が、どのように獲得されてゆくか、簡単な例で説明してきました。
このシリーズの第2回(下記)で「・・・うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。ただ用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。・・・」という道元の言葉を紹介しました。
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/33a09f3a4a0c35a53734ccdb48a370c8
人は常に「空間に在る」のであって、
「人」が一方に在り、他方に「空間」が在る、と考え、その二者の関係を云々するという見かた・考えかたを採ると(これが一般的な近・現代のものの見かた・考えかた)、
出るに出られない落し穴に陥る。
私たちそれぞれの「世界の広さ」は、
一に、「空間に在る私たち」それぞれの「用」「要」に拠って決まる「空間の大きさ・広さ」である、ということです。
私たちが、ある「地域」に詳しくなる、自由に歩き回れるようになるのは、その「地域」が、私たちの「用」「要」と係わりがあるからなのです。
もちろん、その「用」「要」は、暮し・生活にとって不可欠、「それがなければ生きてゆけない」、という局面の場合もありますし、単に「遊興」のための場合もあるでしょう(ただ、「遊興」の場面は、「それがなければ生きてゆけない」という状況が満たされていなければ存在し得ません(「遊興」が先行する、あるいはそれだけしかない《暮し》は、存在しないということです)。
それゆえ、第4回(下記)で紹介した諏訪の宿屋の番頭の「姿」、すなわち、
「見えているからといって知る必要はない、知る必要のあるもの・ことを知ればよいではないか」という生き方の姿が、元来の私たち人間の姿であった、と考えてよいのではないでしょうか。
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/bc31d7679162a2ee5a49f2d7e27fa02b
ある頃から、「見えるもの・こと」を「知る」こと、そしてその「量」が、
その人の「知性」であるかのように見なされるようになってしまったのです。
サン・テグジュペリの言葉を借りれば
「・・・おまえが私に示す人間が、なにを知っていようが、
それが私にとってなんの意味があろう?それなら辞書と同じである。」(「城砦」より)
そしてまた、第5回(下記)では、私たちが新たな世界を「獲得する」場面では、自分の「既知の世界」から「未知の世界」に向け、いくつかの「前進基地」を築きながら行動する、ということを、これも簡単な例で見てきました。
では、いかなる「もの・こと」が「前進基地」になるのか、
そして、もしも「前進基地」を築くことができない場合には、
私たちは常に「既知の世界」へと戻らなければならない、そこから出直さなければならない、ということについても簡単に触れました。
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/419bda1f19b90b3fa13f19d175f38811
けれども、「既知の世界」もまた、かつては「未知の世界」であったはずです。
先験的に「既知の世界」が私たちに備わっているのではありません。それはあくまでも、私たちそれぞれが、自ら「獲得」したもの。
しかし、時折り、この厳然たる事実を忘れがちになります。
「自らで獲得する過程」を省き、「既存の《知識》」を鵜呑みにし、
それでよし、としてしまうのです。
もちろん、「その過程のすべて」を体験することなどできません。
それは、人の歴史のすべてを辿る、経験することに他ならないからです。
どの時代に生きた人も同じだったはずです。
それを補ったのが、私たちそれぞれの「感性」による「想像」です。
今は、「想像」さえ働かすことをしなくなっている、そのように私には思えるのです。
むしろ、「そんな勝手な想像をするな」、
「偉い人の言うことに従え」「偉い人に従っていればいいのだ」、そんな気配さえ感じます。
これまでは、「未知の世界」へ向う場面について考えてきましたが、この現在の「既知の世界」ができあがるまでの過程を逆にたどるとどうなるか。
そこには、これまでの拠りどころとなった多数の「前進基地」が現われ、終には、それ以上逆にたどれない地点に至りつくはずです。
いわば、自らの世界を獲得するための「始源的な拠点、原点」にたどりつく。そこから先には、もう戻るところがない。それゆえに、「始原的」なのです。[文言追加 12.25]
そして、この「始源的な拠点・原点」こそ、人にとっての「住まい」に他ならない、と私は考えています。
このことをきわめて明瞭に示しているのが下の図です。
これは、大分昔に読んだ福井勝義著「焼畑のむら」(朝日新聞社)に載っていた図で、ある山村の土地の呼び名、そのように呼ばれる土地がどのあたりに在るのかを示した「土地利用の模式図」です。
この図の「屋敷」とは、つまるところ「住まい」です。
かなり前に、「建屋」だけを「住まい」と見なすのは誤解を招く、建屋を含む「屋敷」が「住まい」なのだ、と書きました(下記)。
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/96fa99810f1b340e57b5b01db1b38e7b
つまり、「屋敷」とは、そこで人は「まったく自由である」と「思える」一帯・場所のこと。それがすなわち「住まい」。
「屋敷」を中心にした同心円は、「屋敷」:「住まい」からの相対的な遠近:距離を表しているとみてよいでしょう。
この図で、色を着けたところはいわば「未知」の、この場合は「未開」の世界、やや薄い色をかけた場所は、既知ではあるが、あるいは既知になりかけているが、未利用の場所。
この模式図を説明する恰好な一文がありますので、引用します。
・・・・・
農民と土地との関係は、具体的には「地片」の利用の仕方を通して表現される。
土地のもつ形状・地勢・陽の当たり具合・土壌の厚さ・自然の植生といった
土地そのものの自然条件にうまく適合しながら、
住居との距離、家族の労働能力、素質、作目配分などを考えて決まってくるのが 「地片」の利用であり、
土地利用とはそれらの「地片」利用の総括に他ならない。
・・・・・
(安達生恒著「むらの再生」より)
註 ここで定義されている「土地利用」とは、
人びとの、その「在る空間」の認識のしかたに他ならないでしょう。
「自然」もまた「在る空間」の「一側面の状況」なのです。
「自然」のない(欠いた)「在る空間」は存在しない、ということです。
また、ここでいう「土地利用」は、
現在の建築や都市計画の「専門」の方がたが唱える《土地利用》とは、まったく意味が違います。
安達氏は、ここでは、「農民と土地との関係」に限定して述べています。
しかし私は、この「関係」は、
農民に限らず、「人と土地との関係」の「原理」として、一般化してよいのではないか、と考えます。
現在の建築や都市計画の方がたの《土地利用計画》には、
このような意味、
すなわち「土地そのものの自然条件との適合」は視野にありません。
現代の《科学・技術》をもってするならば、そんなことは視野に入れる必要はない、と《信じている》からです。
そして、そのような「土地そのものの自然条件との適合」が視野にない《計画》こそが、
多くの大きな災害の因となっている、と私には思えるからです。
当然、このような「土地利用」に当たっては、最初に、どこに「屋敷」を構えるべきか、考えられているはずです。
もちろん、人は突然、ある場所に天から降ってくるわけではありません。
その「ある場所」に辿りつくまでの過程は深遠です。それゆえ、ここで人類発祥まで遡る気はありません。せいぜい、あるところに人びとが住み着いた、そのあたりから後の話にします。実際、そのあたりからでなければ、私には分りません。
そのあたりについて、昔読んだ書物を挙げます。いずれも、いわば入門書。それぞれには、原本になった学術書があります。なかには絶版もあり、そして今は、さらに深化した書物が出ていると思います。
和辻哲郎著「風土」(岩波書店):これはある意味で古典
玉城哲、旗手勲著「風土・大地と人間の歴史」(平凡社選書):これはすでに紹介
上山春平著「照葉樹林文化」(中公新書)
中尾佐助著「栽培植物と農耕の起源」(岩波新書)
谷泰著「牧夫フランチェスコの一日・イタリア山村生活誌」(NHKブックス)
などなど
「聚落」という語があります。今は「集落」と書くのが普通です。
「聚」「集」は、ともに「集まる」という意味です。
「新漢和辞典」(大修館)によれば
「聚」は、①あつまる(寄りあう、むらがる、ひとつになる、つみかなる )②あつめる(あわせる、そろえる、たくわえる) ③あつまり(つみかさなり、集まった多くの人、なかま) ④たくわえ ⑤むら、さと、多人数集まって住むところ、村落
「集」は、①あつまる、つどう ②あつまり、つどい ③詩文などをあつめたもの ④市場 ⑤とりで ⑥まじる ⑦ととのう ⑧なる(就)、なしとげる ⑨いたる(至) ⑩とまる、とどこおる ⑪やすらか ⑫やわらぐ・・・・
「落」は、①おちる(枯れおちる、高所から低所に急にさがる、おちいる、ぬけおちる、おちぶれる、おとろえる、へる、しずまる、手にはいる、おちつく) ②おとす ③死ぬ ④おちているもの ⑤はじめ ⑥建造物が完成したときこれを祭ること ⑦まがき ⑧さと、むらざと・・・
白川静著「字統」によれば、
「聚」は、元は「(人が)会する意」、この字一字でも「村落」の意となる。
「集」は、元をたどると「鳥が木に群れている形」、そこから「集まる」という意
「落」は、「元の姿を失うこと」「建造物や器物ができ上がったとき、血で清める儀礼」
あるいは「落成」、あるいはまた「旧を捨て新たにする」という意。
これらの語彙の解釈から、「聚落」「集落」とは、
「居所を定めず暮していた人びとが、一定の場所に定着した、落ち着いた、そういう所」
という意味がある、と考えてよいと思います。簡単に言えば「定住」です。
その結果として「聚」「落」の語が、一字だけでも「むら」「さと」の意になった、のではないでしょうか。
英語の「聚落」「集落」に相当する語は settlement です。
この語は、settle の派生語ですが、settle の語の意味を「研究社 新英和中辞典」で調べてみると、どちらかというと「落」の意に近いようです。
そして settlement の語義は、①解決、決定 ②清算、決算 ③植民、移民、開拓 ④定住・・・とあります。この③と④が「聚落」「集落」に対応していることになります。
つまり、人びとの暮しかたの様相は、洋の東西を問わず、同じように捉えられていた、と言ってよいでしょう。
この場合、集まった「人びと」が、どういう人びとか。
「任意に」集まった人びとではありません。「暮しを共にすることに意義を認めている人びと」のはずです。
ですから、通常、「聚落」「集落」という語ではなく、「村」「町」・・という語が用いられますが、本来の意味で言うと、現在の都会の「町」をも「聚落」「集落」という概念に位置付けるのには躊躇いがあります。
では、なぜ人びとは「定住」するようになったか。
言うまでもなく、食物を「栽培」することと関係しています。農耕を発明することで、暮しの安定を図った、と言えばよいのでしょう。
「遊牧」民は「放浪」「浮遊」しているように思われますが、実際は、年間の「行程」は決まっているのだそうです。
この人たちは、家畜たちと行動を共にしますから、一に家畜たちの食料の確保が生活を左右します。
家畜たちの食料、それは草原の草木が主体。
たとえばある場所で春先を過し、その場所の草を食べつくした頃には、次の「放牧地」を目指す・・・、
これを繰り返して春になると最初の場所へ戻ってくる。その頃には、その場所の草は繁っている・・・。
このように、一年を通しての「行程」は一定していると言います。
日本のような、すぐに草が生えてくる、そういう地域ではないところで暮すがゆえの生活スタイル。
言い方を変えれば、その「行程」そのものが彼らの「定住」地なのかもしれません。
しかし、不安定であることはたしか。オアシスへの「定住」が彼らの「願望」なのだそうです。
では、どういう場所が「定住地」:「聚落」「集落」の適地として選ばれるのか。
その「選定」の「原理」は、先に紹介した安達氏の一文と同じと言ってよいでしょう。
ただ、そこに示されているのは、いわば「必要条件」。
私は、そのとき、人びとは、自らの「感性」に基づいた判断も加えているはずだ、と考えます(このことについては、下記で書きました)。
つまり、「必要条件」を充たしたところなら、どこでも「定住地」にした、ということはない、ということです。
毎日気分よく過したいはずだから、気分の悪くなる場所は、できることなら選ばないはずなのです。「毎日気分よく過したい」条件、それを「十分条件」と言いました。
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/31a97d11acdc29d010ec4d548e7df7b5
けれども、ある場所に長く暮している人びとが、なぜここに住んでいるのか、不可思議に思うときがあってもおかしくはありません。その場所に何代も暮していれば、当然、始原のことは分らなくなる、忘れられます。
そして、それを知りたくなるときが来る。「歴史」への関心です。そうなるときが必ずある。そして、考えてみればみるほど、まさに不思議。だからこそ、天孫降臨説が生まれてもおかしくはないのです。
このような「歴史への関心」は、これも人の「定位」の作業の一と言えるのではないでしょうか。
さて、そうして選定された「定住地」で、人びとは個々の「住まい」を設けることになります。
それは、その定住地を拠点に暮す個々の人びとの「拠点」です。
その一例が、先の「ある山村の土地利用模式図」の中心に構えられた「屋敷」なのです。
しかし、「屋敷」が現われるまでには、特に日本の場合は、時間がかかります。
なぜなら日本は雨が多い。乾燥地域なら、とりあえずは「囲い」さえあればよく、強いて「屋根」はなくてもよい。そしてその「囲い」が「住まい」であり、日本で言えば「屋敷」。日本では、先ず、「囲い」には屋根が必要。「屋根を持った囲い」、それが「家屋」=「住まい」と理解された。
このことについて触れたのが、先の中国西域の住まいを例にして書いたこと(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/96fa99810f1b340e57b5b01db1b38e7b)。
このことは、「屋敷」という語に端的に示されているのではないでしょうか。
「屋」とは古では「屋根」のこと。「屋」を並べることのできる一帯=「屋敷」。当然、自分の「屋」を並べられるのは、自分に任されていると認められる、あるいは、思える、一帯。つまり、自分の「住まい」のこと。
そして、その「住まい」の始原的状態の姿、それが一つ屋根のワンルームだった、ということ、そして、人びとが自分の住まい以外につくる「空間」の姿も、それが原型であった、ということは下記で触れました。
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/4144be4e6c9410282a4cae463e3d42a3
またまた大分長くなってしまいました。
では、「定住地」の、どういうところに「住まい」を設けたのか、なぜワンルームなのか(そして今、なぜ基本がワンルーム、ということが忘れられたのか・・・)、どのように「つくった」のか・・・。これらの点について、次回以降、あらためて考えてみることにします。
今回の最後に、さきほど掲げた「山村の土地利用模式図」に似た図を紹介します。
これは、古代中国の「書経(しょきょう)」に載っているという「天下」の図です。
天下:世界を、自分を中心に、このように描いていた、あるいは、そのように描くのが「理想」であった、ということのようです。
もちろん、私は「書経」に触れたことはありません。
竹内実氏のエッセイ「茶館―中国の風土と世界像―」(大修館書店)に載っていた「五服九服対照図」を簡略化して描きあらためた図です。
この「方五千里」四方が「天下」。
色を着けた部分が「未知」「未開」の地域、薄い色の一帯は、少し「既知」になりかけている、あるいは取り込もうとしている一帯、と考えられます。
「畿」とは「城」のことですから、「王畿」とは「王城、直轄地」ということになります。
つまり、「住まい」とは、住まいの主の「畿」なのです。
註 「書経」は儒学が規範とする「五経:易経、詩経、書経、礼記、春秋」の一。
「経」とは、いわば「教本」。