glimi

生きること:過去と未来とエスペラントと

ノルウェー 2 コングスべルグ

2005-06-30 13:16:17 | Weblog
 ベルゲンからコングスべルグへオラフと彼の女友達のドーリーと一緒に汽車で移動しました。ドーリーはもう65才を過ぎていました。エスペラント歴2年。エスペラントの語彙はまだ豊富でありません。込み入ったことはノルウェー語とスェーデン語を混ぜて話していました。かれらはその言葉をノルスヴェンスクと名づけていました。

 オラフは小柄160cmくらい、ドーリーは大柄で180cm以上あるでしょう。凄いスウェーデン訛りのエスペラントを話す心優しい女性でした。汽車には日本人など滅多に乗りません。彼女は私に注目する人たちに、私を紹介してはエスペラントの説明をし続けていました。私はまさに動く宣伝塔でした。

 オラフは一人暮らしと言っていたのに駅には娘の夫が出迎えてくれ、娘夫婦は同じ家の2階に住んでいました。娘さんが、今自分の娘の一人が留守だからと3階の部屋を提供してくれたので、シャワーも自由に使える快適な4泊を過ごしました。

 一日は知的障害者の通所施設へ遊びに行きました。障害程度は様々で、近くの学校で郵便の仕分けをして各教室に届ける仕事をするグループ。職員と外で働くグループ。食堂で働くグループ。職員と散歩をしたり、遊んだりを仕事としているグループと個人、等々。
 外で働くグループは一般家庭の庭の手入れなどもしており、冬になるとみんなで機織りをすると言うことで織り機の並んだ工房もありました。

 近くにアパートの建設が始められていました。彼等の中の幾人かがこのアパートに入り自立した生活を送る予定でした。

 驚いた事に自閉的な子どもや寝たきりの子どもにはその子だけの場所あり、一人でカセットを聞いたり、好きなおもちゃを上から吊るしたりして、一人遊びができる空間と時間が確保されていることでした。

 当時の日本におけるデイケアのように参加するならすべて集団行動ということはないのでした。

 また、ビデオ室があり、障害の重い子どもを散歩につれてゆく時は、ビデオを撮り、心理の専門家を含めた職員達がそのビデオを見てチェックし、変化が認められた時には意見を交わして次ぎの働きかけを決定し、職員全体で子どもの発達を援助しているのでした。
 日本で公的施設において指導会議なるものはあるでしょうが、そこまで行われているのでしょうか。ましてや親達が主になって作った地域作業所においてはこのような客観的指導は行うことは難しいでしょう。私の付き合っていた親達はただただ我が子が可愛い、可哀相なのでした。
 作業所に来ているのだから給料を与えて欲しい。それでは指導員も一緒に外で働くことを考えましょうか。市役所に交渉して公園の清掃とか・・・。外で働かせるのは可哀相。人目につくのは可哀相。家でしていないことをさせるのは可哀相。
 それでいて親が居なくなったらどうしようなのです。自立の道があるかどうか試みもせずにかと私は愚痴りたくなります。

 ≪千里の道も一歩から≫

 利用者と折り紙をしながらおしゃべりをしました。みんな屈託がなく明るい。彼等の作ったパンでお茶も頂きました。
 その間も外で働いた通所者達が帰って来て指導員に自分のした仕事について報告していました。自分は自分の意志で働いていると言う感じがしました。

 コングスべルグでの生活はゆったりしていました。午前中織物、ノッテイング(じゅうたんのように織る)、模様織りなど。
 オラフは模様織りの綜こうの説明書にエスペラント訳をつけてプレゼントしてくれました。
昼食後4時までお昼ね。散歩とカルタ遊び。庭での食事など。老人達(?若くない人達)が疲れると私はひとりで本を読んでいました。

  ドーリーは最後の日に大きなケーキを焼いてくれました。上には≪ al amiko ≫(友だちへ)と書いてありました。

次はスウェーデンで訪ねたグループホームなどについて書きたいと思っています。

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ノルウェーへ 1

2005-06-28 07:41:23 | Weblog
 1991年、ノルウェーのベルゲンで行われたエスぺラントの世界大会参加を利用して初めて一人旅をしました。
 当時、指導員として知的障害者の地域作業所の設立に携わっていたのですが、親の思いと自分の考えがどうしても一致しないジレンマに悩んでいました。福祉先進国スウェーデンに行こうと計画を立てたのですが、できることならノルウェーも旅をしたいと思いました。
 当時作業所では工場の受注の仕事をしていましたが、時には途絶えます。そんな時のために織物を導入しました。ノルウェーでの世話人を捜そうと織物をしている老人に便りをだすとぜひ来なさい、家の近くに作業所もあるし、織物を始めたばかりなりなら、私が教えてやると招待してくれました。これがコングスブルグに住むオラフでした。

 老人とはいえ一人暮らしの男性の家に転がり込むのもどうかと迷ったいましたが、オラフが言うにはスウェーデンから女友達を呼ぶから大丈夫ということでしたので手はずをお願いしました。

 コングスベルグはオスロが首都と決る前に首都の役割を担っていた町で、7~800メートルぐらいの可愛らしい旧市街地などもありましましたが、私の目を引いたのは広く深い静かな川でした。ノルウェーが木材を輸出していた頃はこの川は貯蔵場であり、木材で埋め尽くされていたそうです。

 いろいろな織物を見るのが良いと彼が勧めるので、大会前にオスロへ行きました。ここで民族博物館を案内してくれたのがブッケパウルセンでした。もう80才を超えていましたが、そのエスペラントの流暢さに老いは感じられませんでした。また知識の豊富さ、例えば織物その他絵を見るとすぐにその説明を始めるのです。聖書が主題であるなら聖書のどの場面でどんな事が書かれているかとか澱みなく話すのです。エスペラントの流暢さもさることながら、自国の文化を深く理解している事に感銘を受けました。と同時に、私が日本文化を知らない事に気付かされました。
 彼女は大金持ちで、大戦前、日本の宮家のどなたかがノルウェーウェーを訪問した時、宮家の夫人を自宅に招待したとは聞いていたのですが、布袋をさげ、日本の老婦人なら普段着にしているようなワンピースで現れた彼女は、隣のおばあちゃんのような気さくな人でした。また、彼女は行動の人でもあったようです。彼女の弟は目が見えなかったのですが、その弟がスキーをしたといった時、すぐに視覚障害者のためのスキー学校を作ったそうです。今、日本でスキーをする視覚障害のある方はおられるのでしょうか。日本では障害者はその障害を理由として行動を制限されてきました。人の手助けを受けるのはまるで悪いことのように。

 後で辞典で調べると彼女は夫共々エスペランティストとして活躍した人だったのです。彼女の小学校以来の友人の孫というヘーゲルが移動の世話をしてくれました。

 私の話はいつもそれます。 
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手編みの帽子

2005-06-27 09:06:18 | Weblog
 暑い日が続いています。日差しも強いですね。帽子が欠かせません!

 困った事に私は帽子を落としてしまう習性があるのです。今、持っているのはシミのついた帽子一つ。なぜかこれだけはずっと手元にあります。新しいのを買うといつのまにか消えています。駅までの30分は歩く事にしています。電車に乗ると汗を拭くためにすぐ帽子を脱ぐ、これも習性!? そしていつのまにか消えてしまいます。

 中高生の頃、田舎で白い帽子をかぶって登校する生徒などほとんどいませんでした。ほとんどというのは例外として私がいたのです。母は髪は女性の命という人で、帽子を強要されました。私は帽子を被って行きたくないので、家を出るとすぐに脱ごうとします。 母も頑固でした。田舎の道はかなり見通しが良く、家の裏を流れる水路の土手に立つと1キロメートル以上見渡せるのです。母は日差しの強い日には、そこに立って見張っていました。
    

 いつのまにか夏には帽子を被るのが習性となっています。

  さて、この古い帽子を落としたら替りがありません。糸なら売れるほど持っています。 

 以前友人がランチョンマットを織りたいというので、太い糸を染めました。あれなら楽に編めるかも!?

 萩で染めた薄茶色の糸を選びましたが、巻き取るのも面倒です。枷繰り器にかけて編む分だけほどくことにしました。( うん我ながら冴えている!  )

 最近、韓国ドラマ『チャングム』にはまっています。これを見ながら帽子を編み始めました。金曜夜もテレビの前に座ったタダひたすら編んで真夜中に仕上がりました。水を通して出来上がりました。

  土曜日にはもう私の頭の上です。

 似合うかどうかは二の次にして、これが結構涼しいのです。細編みで編んでいたのですが途中で指が痛くなくりました。細編みを節約しようと、つばの手前に三段長編みと鎖で模様(? タダ四角い穴)を入れました。そこから涼しい風を感じるのです。

 大きさ? 勿論ぴったりですよ! なにしろ数段編んでは頭に載せて実寸で編んだのですから。

 もう一つ予備を編もうかなと考えております。 




 
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俳句は世界中の人のもの!! parto 3-2

2005-06-25 09:38:56 | エスペラント
一生懸命書き込んだら長すぎるとブログが続けさせてくれません。やむなく二つに分けました。エスペラントの俳句を読もうと思ってくださる方はごく少数と思いますがフランス人の作ったものものせたかったのです。

Iver Brusq (フランス)

Kio estas hajko?
C^u la inversa florbildo 
en la klara akvo de l’ lageto?

キーオ エスタス ハイコ ?
チュ ラ インヴェルサ フロルビルド
エン ラ クラーラ アクヴォ デ ル’ ラゲート
俳句って何? 澄んだ池の水に映った花の姿?

Neg^o sur la ter’ 
en la sen folia arb’ 
silentas la bird’.
ネージョ スル ラ テール’ エン ラ セン フォリア アルブ’ シレンタス ラ ビルドゥ’
地上に雪 葉の無い木で 鳥は沈黙している

Skuita mia pord’ 
de l’ freneza vintra vent’ 
”Kiel bone c^e la fajr'.

スクイータ ミーア ポルドゥ’
デ ル’ フレネーザ ヴィントゥラ ヴェントゥ’
“ キーエル ボーネ チェ ラ ファーィル’
たけり狂う冬の風が扉を揺する “火の側はとても心地よい
 
Lun’ amikino mia! 
Vartu miajn sekretojn、 
de la vent’.

ルーヌ’ アミキーノ ミーア !
ヴァルトウ ミーアィン セクレートィン
デ ラ ヴェントゥ’
私の女友達,月よ! あの風から私の秘密を守って

Fulgomkuloj 
sur tute blanka tuko! 
Korvoj sur neg^o.

フルゴマクーロィ
スル ツータ ブランカ ツーコ !
コールヴォィ スル ネージョ
白いクロスの煤のシミ! 雪の上のカラスたち

Kiel longa la tempo 
kaj kurta la vivo! 
Kiu diras kial?

キーエル ロンガ ラ テムポ
カィ クルタ ラ ヴィヴォ !
キーウ ディーラス キーアル ?
なんと時は長く人生は厳しいのか! 誰が何のために言ったの?

Nenia inspirig^o. 
“Muzo! nur unu hajkon”- 
Tuj kantas la grilo.

ネニーア インスピリージョ
" ムーゾ! ヌル ウヌ ハィコン "
トゥィ カンタス ラ グリーロ
全く着想なし “詩の神ミューズよ! 俳句をたった一つ!”- コロウギが歌っている

Mi estas senpensa; 
ec^ ne verso. 
Helpon, Muzo! 

ミ エシタス センjペンサ ;
エチュ ネ ヴェルソ  
ヘルポン ムーン゛ !  
詩の一行も思いつかない。 詩の神様助けて!
   
ごくろうさまでした! glimiの努力に乾杯 

ここまで付き合ってくださった方に! 

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俳句は世界中の人のもの!! parto 3-1

2005-06-25 09:22:12 | Weblog
5-7-5には訳せませんが,エスペラントの音を少し楽しんでください。

エスペラントの俳句
Danald Jacob Uitvlugt (アメリカ)
 
Vintraj impresoj (冬の印象)
Ekster la domo
infanoj g^oje sledas:
neg^a aromo.

エクストゥラ ラ ドーモ
インファーノィ ジョーイェ スレーダス:
ネーヂャ アローモ
家の外 子ら喜んでそりに乗る: 雪の香り 

S^tormegas blanke; 
kun gefiloj ludluktas 
pac^jo surplanke.

シュトルメーガス ブランケ ;
クン ゲフィーロィ ルドゥルクタス
パーチョ スルプランケ
白く荒れ狂っている; 子らと戯れる とうちゃん床の上

Varmc^okolado 
el termoso vaporas;
glacfis^ado.

ヴァルマチョコラード
エル テルモーソ ヴァポーラス; ク
゛ラーツフィシャード
暖かいチョコレート 魔法瓶から湯気を立てている; 氷の上の魚釣り

Sorc^ega nokto!
La steloj palpebrumas 
unu al la alia.

ソルチェーガ ノクト !
ラ ステーロィ パルペブルーマス 、
ウヌ アル ラ アリーア
魅力的な夜! 星たちが目配せをしている おたがいに

Glacieroj c^e l’ bordoj 
de frostita lageto 
”C^u frostas fis^oj.

グラツィエーロィ チェ ル’ ボルドィ
デ フロスティータィ ラゲート
“ チュ フロスタス フィショイ
凍てついた池から 岸に氷のかけらが “ 魚たちは凍っているの?

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俳句は世界中の人のもの!! parto 2

2005-06-24 09:55:07 | Weblog
季語は俳句に『いつである』と言う時を与えます。俳句は抽象的でなく具体的です。人々は自分だけの時間と場所で実際に起こる事を経験します。この日本の詩において季語は季節名だけではなく、その時期の祭日、植物、動物など季節を暗示するものが入ります。この暗示がとても大切です。
 俳句は思想(意見)ではなく経験を表している事を覚えて起きましょう。日本の俳人は良く良い俳句を表す表現として『香り』(aromo)という言葉を使います。読んでいること(病棟、春の花々、母の焼くパンの匂い)とかと結びついている香りと同じく季語は俳句の本質を感じるのを助けます。
二つ目は日本的な間投詞です。日本の間投詞は俳句を2つに分けます。エスペラントではいつもというわけではありませんが句読点( . , : ; ‐ “ ”* )などを使います。この二つの部分が共鳴し合い、読者の心に俳句的経験を呼び覚ますのです。

 形式として偉大な巨匠,松尾芭蕉(1644~1694)の俳句を読んでみましょう。宮本正雄の訳です。

Cikado trilas 
nun rokon penetrante- 
natur’ trankvilas. 
ツィカード トゥリーラス、 ヌン ローコン ペネトゥランテ、 ナトゥール’ トゥランクヴィーラス.

Cikado(蝉)は暑い夏を思い起こさせます。Roko(岩)と作者と蝉だけのいる孤独な場所に作者が立っています。読者は多分蝉の泣き声と共に作者のうなじに注ぐ輝く太陽を感じることができるでしょう。ここで宮本は日本的休止符としてハイフンを使っています。私達は,蝉の鳴き声と静かな自然の二つの部分を見ています。この二つにどんな共鳴があるのでしょうか。読者には蝉の鳴き声以外何も聞えません。ですか,夏の経験の描写も多分感じています。夏です、そしてすべてが健全でなければならないかのように健全です。この自然自体が夏の休暇を享受しています。読者はこの17音節を読んだだけでこのすべてを経験します。芭蕉と経験を共にしています。

 このいくつかの注釈を読んであなたが俳句を楽しんでくれることを願っています。最後に一言 - 俳句は作者と読者を親密に結び付けているので、その役割を取り替えるのも非常に簡単です。俳句を創ってみましょう。自然界の経験を取り上げそれを季節の中に起き、あなたが経験した事を再構築するために二つの部分を使いましょう。間もなくあなた達はあなた達の経験を共に所有することでしょう。

 日本語としてこなれていませんが内容はこんな感じです。私の知らなかった事を沢山知りました。エスペランティストには詩を作るのが好きな人が大勢います。また、世界に俳人が増えるかも知れません。

 さて、この次はエスペラントの俳句を紹介いたしましょう。
         

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俳句は世界中の人のもの!! parto 1

2005-06-23 15:32:20 | Weblog
KOMENNCANTOという雑誌をご存知でしょうか。エスペランティストの中にも、まだこの雑誌を手にとって見た人は少ないようです。A4番、16ページ、年6回発行。価格日本円に換算すると2380円(航空便)の薄っぺらな雑誌です。発行しているのはエカテリンブルグに住むロシア人とウズベキスタン人の夫婦です。
 エスペランティストはぜひ購読してください。
KOMENCANTOというのはエスペラントで初心者を意味します。ところがここでの初心者とは言葉についての初心者ではなく、エッセイを書き始めたばかりの人とか、詩作を始めたばかりの人とか、エスペラント史に興味を持ち始めた人とかいろいろな初心者なの事です。ですからこの雑誌を読むのに時にはエスエス辞典を必要とすることもありす。

 見本として送ってくれた昨年の号に俳句の記事を見つけました。アメリカ人の読者が書いたものです。
 俳句について考えてみると小学5年生だったでしょうか、芭蕉の句が出てきた記憶があります。高校生のとき奥の細道を読みました。ですが、俳句をどう読むか教えられた記憶がありません。
 以前,NHKの記録映画でクロアチア人だったか、セルビア人だったか忘れましたが、紛争国の俳人を紹介した番組がありました。でも、彼らが俳句をどう考えているかまでは放送されませんでした。それ以来海外の俳人に少し興味を持ちました。

 そんなわけで、KOMENCANTOに載ったアメリカ人の俳句に関するエッセイを興味を持って読みました。そして、他国の人がどう俳句を解釈しているのか伝えたい気持になりました。しかし、俳句について素養の無い私にはこのエッセイをうまく日本語で表現できない部分もありました。これを読んだどなたかが、補足してくださることを願いつつまとめてみました。

 Kiel legi hajkon (俳句をどう読むか)
 Donald Jakob Uitvlugt
 詩の形式として俳句はもはや日本だけのものではなく、世界的なものなっています。俳句は世界中の殆どの言葉で作られています。
多くの人は俳句とは何か、どう読むかわかっていません。アメリカでは形式が子どもらしいということで学校の宿題に出されたりしますがそれ以上のものではありません。
 ある意味で俳句は子どもっぽいのですが、それは単純な子どものお喋りではありません。俳句が幼稚に見えるのはそれが生活の中の子どものような感性から出ているからです。良い俳句を読むと、誰でも素直な驚きを経験させられ、‘あっ、そうだ、その世界はそうなのだ!’と同感します。
俳句は知識人や達人だけのものではなく、子どものような心を理解できるすべての人のものなのです。

では俳句をどう読み解きましょうか。先ず俳句とは何か理解すべきです。殆どの人が知っているように、俳句は5,7,5の音節を持つ日本生まれの詩の形式です。Parnasa gvidlibro(詩作の指導書)によれば、1番目と三番目の詩句に韻を踏ませるとあります。宮本正雄達、日本の詩のグループはこの韻を踏ませた形式で素晴らしい俳句を創っています。ですが、日本の俳句には韻が無いのですからエスペラントの俳句も勿論韻を踏む必要はありません。俳句は普通自然と人がかかわり合う経験を主題としています。俳句の可能性は作者が自分の経験を読者に提示するだけでなく、自分の経験の中に読者を招き入れて』感動を共にすることにあるのです。これは伝統的な特別な二つの方法で行います:『季語』と『切る、あるいは休止符』による方法によってです。
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嬉しいできごと!!

2005-06-21 07:39:37 | Weblog


hanafumiさんから頂いた絵はがきです。私の字が無いほうがきれいですが、使うという証明として文字を書きました。みなさんに見せたくて家人の助で挿入しました。


 hanfumiさんの絵に魅せられました。つい次ぎのようなコメントを書いてしまいました。

 ≪どの絵も絵はがきにしたいです。年を取った海外の友人達に日本の風景を送りたいとデシカメ買ったのです。でも、良い絵が取れません。
 hanfumiさんの絵なら、日本が伝えられますね!!≫

 hanafumiさんからはがき送りましょうかという申し出を頂き、図々しくも送って頂いたものの一枚がこの絵はがきです。どれも素敵でしたが文字が書ける空間のあるのを選びました。

 書いてあるのがエスペラントです。

 ドーリーはスウェーデンのエーテボリに住んでいます。ドーリ-のこともまた書きます。

 私は個人の歴史を知る事はとても大切なことだと思っています。若いお父さんやお母さんに、本を読んであげるように自分の子どもの頃の嬉しかったこと、悲しかったこと、淋しかったことなど感情抜きで事実として話してやって欲しいと思います。、両親や祖父母から聞いた話しも語ってやって欲しいです。おじいさんおばあさんにも愚痴ではなく、自分の経験を孫達に語って欲しいとのです。それが親が子に歴史を伝えるということだと思います。
 そこから子どもが何を学び取るかはわかりません。でも、考え方に巾ができることは確かです。両親や祖父母の経験も自分の経験に加えることができるのですから!

 hanafumiさんのブログをブックマークに入れました。今、彼女は展覧会を開催しております。その様子はホームペ-ジで見ることができます。 
 
hanafumiさんのホームペ-ジ:http://www.ktnetwork.com/hanafumi/

 
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こげいの花

2005-06-20 07:09:39 | Weblog
 こげいの花を見たのは伊豆七島の一つ新島でした。1960年代の初め、短期間でしたがその島に住んだいたのです。当時その島はミサイル基地建設に対する賛成派と反対派に2分されていました。そこに保育所を作ろうとしていた人がいました。教授の一人が『行くとしたらあんた位だろうね。』と声をかけてきました。『うん、それもいいかな。』となんとなく出かて行きした。

 保育所に充てられたのは6畳2間の隠居所をぶち抜いた粗末な{失礼かな!}家でした。隠居所ですからトイレも台所もありません。トイレは外に付けてくれました。手洗いの水は助手の女のこと坂下の家から貰って来ました。その狭い空間に50数人の子ども達が集ったのです。まさに若さと体力での勝負でした。

 保育所に飽きたら子ども達が居なくなってしまうのです。途中で親に連絡して子どもを帰宅させ村中を探し回ったことが2度ほどありました。

 海まで3分の場所です。先ず一番に海に駆け下ります。一度は海で遊んでいるのを見つけて肝を冷やしました。もう一度はお昼前にお腹が空いたのでおやつを食べに自宅に帰ったということでした。2度とも首謀者は腕白な同一人物でした。時間に縛られず自由に過ごしていた子ども達を保育所に留まらせるにはどんな保育が良いかと工夫工夫の毎日でした。子ども達が定着した頃、お寺さんから広い場所もあるし、保育所を開きたいという申し出があり、11月いっぱいで私の役目は終わりました。



 ある日曜日、5月末、あるいは6月だったと思います。営林署に勤める実さんが島を案内してやるといってくれました。彼は保育所の世話役の一人で、子どもが保育所の一員でした。

 峠に上るには港に近い所から若郷に通じる道が建設されていましたが、実さんは観音と呼ばれる家の横の狭い古くからの道から上って行きました。周りは藪。その藪のあちこちに白い花が咲いていました。形は額アジサイです。その白い花びらは{花びらではなく額が変形したのでしたでしょうか?)大きく、小さな真っ白い貝殻を4枚合わせたた様な感じでした。花は大きく目立っているのに、緑一色の中に群れているとなぜかやけに寂しく見えました。

 後で、居候をしていた家のウンバァ(おばあさん)やウンジィ(おじいさん)にどう書くか訊いたのですが誰も知りませんでした。

 私は勝手にその花を『小貝の花』と書きました。

 峠への途中、海に面して第二次大戦中に使われた砲台の跡がありました。砲台といっても砦があるわけではありません。下がコンクリートで固められただけのもです。砲台跡に立つとすぐ目の前に伊豆半島が突き出ています。距離にして50キロぐらいと聞いたような気がします。しかしまさに目の前にあるような感じでした。
 本土に近いのに我が家に帰れないということが兵達の望郷の念を駈りたてたらしく、戦時中の兵隊の自殺が伊豆七島の中で新島が一番多かったそうです。
 兵士達も、こげいの花を見ながら砲台へと上ってきたのだろうと想像すると花の白さが目に沁みました。

 戦時中、島の女と子どもは全員、山形に強制移住させられました。家のウンバァの話によると船を持っている家では男達が漁をし、作った干物を運んできてくれたので、それをお米に替えることが出来たけれど、そう言う手段の無い人はとても大変な苦労をしたということでした。
 
 数年前、我が家の風呂場を修理してくれた職人の親は新島出身ということでした。今、新島には新島銀座なる物までできてすっかり俗化してしまったと話していました。
 

  
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気になる中国

2005-06-18 09:12:19 | Weblog
 昨日民放のニュース番組で暴れている中国の群集を目にしました。マイクを差し出された女性が言いました。
 『発電所建設については農民の意見を聞くべきです。』と。
 みなさんはどう思っているのでしょうという質問に対して
 『私はみんなではありませんので答えられません。』と。

 日本人なら、自分の回りの人の意見を集約して答えるだろうと思ったのですが、一党独裁の国では自分の意見を述べるのが精一杯の表現であろうと感じました。

 それでも、個人の意見を言えるほど中国は変化しいるのですね!

 反日デモは政府との暗黙の了解の下に行われていたといわれています。また、密かに政府が組織したという人もいます。

 いつかドキュメンタリーで見たのですが、年収数千円の村さえ存在し、都会には豊かな自家用車族さえいるのです。

 中国政府は国民の所得格差をどのようにして是正してゆくのでしょうか。

 中国政府とは共産党であり、それを支えているのは軍隊。地方からの兵隊達が都会と農村部の所得格差を目にし、おかしいと思うこともあるわけですし、貧しい農民や山間部の民族が自分達の状況に気付くこともあるわけです。所得格差は思想の変化を来たすと思わざるを得ません。

 中国の今後がとても気になります。

    

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みつばちの子の歌

2005-06-17 07:50:02 | Weblog
 昨秋、本を整理して大量に処分にしました。その時1960年に覚えたエスペラントの歌を見つけました。一昨日の夜中目覚めて、2時迄捜したのに見つかりませんでした。昨日、ふっと本箱を見るとその隅にありました。

 手書きの原稿を青焼きでコピーしていますので字はもう消えかかっています。60年代は今思っても暗く重苦しい、先の見えない時代でした。でも、なぜかいつも未来に希望を持っていたように思います。

 詩: 秋田雨雀  
 曲; 山田耕作
 訳: 伊東三郎 

みつばちの子の歌

みつばちの子の巣立つ朝
みつばちの子の声を聞け
平和と自由に飢えて発つ
みつばちの子の声を聞け
平和と自由の蜜を持て
巣箱に帰る日を待とう
聞けあの声を耳にあて
みつばちの子の巣立つ朝

 ≪エスペラント訳≫
Matene nun ekflugas abelinfanar'
Au~skultu jen zumadas infanoj de l'abel'
ekflugas ili pro sofi' je pac' kaj liber'
Au~skultu jen zumadas abel' infanar'
porti la mielon je pac' kaj liber'
Revenos la infanoj , jen mia esper'
Au~skultu la zumadon g^is fund' en oler'
Matene nun ekflugas infanoj de l'abel'

 ≪音≫
マテネ ヌン エクフルーガス アベルインファナール
アゥスクールトゥ ィエン ズマーダス インファーノィ デラベール
エクフルーガス イリイ プロ ソフィーイ ィエ パーツ カィ リベール
アゥスクールトゥ ィエン ズマーダス アベルインファナール
ポルトィ ラ ミエーロン デル パーツ カィ リベール
レヴェネーノス インファーノィ、 ィエン ミア エスペール
アゥスクルトゥ ラ ズマードン ジス フンドゥ エン オレール 
マテネ ヌン エクフルーガス インファーノィ デラベール

 この歌は秋田雨雀(1883~1962)が自分が学長をしていた舞台芸術学院のために作ったと聞いた記憶があります、また彼はエスペランティストとしても有名でした。

 仲間数人と伊東氏に連れられて雨雀氏の病室を訪れた事があります。若い人が行くと喜ぶからと言われ同行しました。本当に顔を見せただけです。雨雀氏はお孫さんを亡くされ、とてもがっかりしていましたが不死鳥の会を作り活動していると聞きました。
 伊東氏は駅前の花屋でバラだったか、カーネンションだったか花を1本だけ買いました。『気持だからね。』と嬉しそうに持参しました。お金の無い彼には精一杯の心づくしだったのでしょう。 
 記憶にあるのはカーテンか、壁か、オレンジがかった黄色い背景と帰りに食べたきしめんの味です。

田舎育ちの私は、その時初めてきしめんを食べました。濃厚なごま味のタレがとても美味しかったです。

  


付記:不死鳥の会についてグーグルで調べました。

「不死鳥」とはフェニックスの訳語である。エジプト神話に出る霊鳥で、焼け死んでも再び若い姿で生き返るということから、転じて不滅の価値や精神をさす。
1959(昭和34)年10月、たった1人の肉親で最愛の孫静江が秋田県十和田町で若い命を断つ。常に「頼みにするのは若い者たち」といい、世界的視野にたつ青少年の育成に精力的に走りまわってきた雨雀の悲しみと、孫の悩みに気づかない自分に対する怒りは筆舌につくせぬものがあった。その後、雨雀は孫の永遠行の原因を追求し、そこに「現今社会のモダニズムの影響」を突きとめ、断固闘おうと決意する。
不死鳥の歌こそひびけ、とこしえに 雨雀
翌1960年4月、「不死鳥の会」準備会が作られ、不死鳥運動は歩みはじめる。
「生活の愛情・創造の尊厳・相談や協力や前進」の3項目を前面に押したて、若い生命を守るために心の底から訴える運動はおしすすめられた。




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6月15日

2005-06-14 16:41:34 | Weblog
 明日は6月15日。そう言ってもわかってくださる方は少ないでしょうね。1960年6月15日は、東大生の樺美智子さんは安保条約に反対するデモを組織した学生の一人としてデモに参加していました。そして国会議事堂前で虐殺されたのです。彼女のお墓には次ぎのような詩が刻まれているそうです。

「最後に」

誰かが私を笑っている
向うでも こっちでも
私をあざ笑っている
でもかまわないさ
私は自分の道を行く
笑っている連中もやはり
各々の道を行くだろう
よく云うじゃないか
「最後に笑うものが
最もよく笑うものだ」と
でも私は
いつまでも笑わないだろう
いつまでも笑えないだろう
それでいいのだ
ただ許されるものなら
最後に
人知れずほほえみたいものだ

1956年 美智子作

 美智子さんが亡くなった後、あるエスペラントの講習会でお母さまの思い出話を伺いました。当時、彼女は母親に若い頃学んでいたエスペラントの学習を再開するように強く勧めていたと言うことでした。それはまるで、自分の死を予感していたようだったそうです。
 あの当時美智子さんのお母さまは50歳前後だったでしょうか。人はどんなに辛くとも生ある限り生き続けなければならないのですね。健やかに生活されておられることを念じます。

 もう一人珍しい方とお会いしました。その方は少年時代に大杉栄からエスペラント学んだ方でした。私の父と同じくらいの年齢の方でしたから、1900年頃の生まれでしょう。名前は長谷川…さん?あるいははやしさん?45年前のことです。どうしても思い出せません。

 彼は10才前後で植字工になったそうです。仕事は長時間。宿舎も相部屋で、みんなせんべい布団に包まって寝ていたそうです。冬は寒さで眠れなかったということでした。そこに若い日の大杉栄がいたのです。夜、冷え切った布団で縮こまっていると大杉栄が自分の布団に入れてくれ、自分の体で少年の体を温めながら、エスペラントを教えてくれたそうです。

 大杉栄(1885~1923)は21才の時エスペラント語学校を作りました。1923年9月1日関東地方に大地震が起こりました。いわゆる関東大震災です。9月16日、大杉栄は自宅から当時大手町にあった麹町憲兵分隊連行され虐殺されました。彼はとても心優しい人だったということでした。


           

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青山学院大高等部入試問題

2005-06-13 18:46:04 | Weblog
 今日の毎日新聞の夕刊のトップを見て驚きました。

 今年の青山学院大学の高等部入試の英語の問題で、『沖縄の元ひめゆり学徒の証言は退屈で飽きた』と感じたという文がだされ、それ対してなぜ生徒が体験談が気に入らなかったという設問があり、正解は『私が彼女の話が好きでなかったから』だったと言うのです。

 この事に対して部長他4人が謝罪のためにひめゆり平和祈念資料館を訪れたという記事でした。

 東京大空襲を語り継ぐ活動をしている海老名香葉子さんのコメントも載っていました。

 ひめゆり学徒の方々に関するものとして映画ひめゆり部隊が有名です。私が観た映画は香川京子さんが主役でした。まだ小学生だった私は戦争映画はいやだと言ったのですが、母はこのような映画は観ておくべきだと村の古い映画館に連れてゆきました。最初から最後まで震えていたのを覚えています。

 元ひめゆり学徒の方々今幾才になられたのでしょうか。少なくとも75才にはなっておられるでしょう。

 人は年と共に話し方が遅くなったり、同じ言葉を繰り返したりします。それを退屈と感じる人いるでしょう。でも、自分の感じたことをそのまま教育の現場で、それも入試問題として出すと言うの奇妙な事に思えます。

 もしそう言う意見を言いたかったら、誰か書いたか読み手が分かるように、自分の名前を公にして意見を述べるべきです。

 上司が謝罪すれば済む問題ではないと思います。言論の自由とは隠れ蓑を着て何を言ってもよいということではないと思うのです。

 入試を受けた中学生達はその時何を感じたのでしょうか。それとも何も感じなかったのか知りたいです!!

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ブロガー三ヶ月!!

2005-06-13 08:45:44 | Weblog
 ブログを始めて3ヶ月たちました。エスペラントを好む私としてはブロガーでは無く、エスペラント風にブロガント、ブログする者と表現すべきでしょう!  

 本当に忙しい3ヶ月でした。でも、コメントを頂くと嬉しくて、ついコメントをくださった方々を訪問したくなり、またトラックバックの張り方をも覚えましたので検索とかして、あれよあれよと言う間に時間が過ぎてゆく毎日でした。まさにブログ中毒です。

 でも、ブラグが無かったら決して出会うことも無かった方々と画面で出会い、いろんな意見や人生を読み、また、同感したり、同感されると言う貴重な体験をしました。今後もよろしくお願いします。
 
 お蔭さまで、ラッキョウを漬ける時期も梅干を漬ける時期も逸してしまいそうでした。ようやく昨日、4キロづつ買いました。

 最近の梅干の多くは防腐剤が入っています。減塩のためです。私も焼酎で消毒して減塩梅干に挑戦していたのですが、ある年、エスペラント世界大会から戻ってきたら上にカビが生えていました。今では無理な減塩は辞めました。塩は19%ぐらいです。昔の人は25%の塩で漬けたそうです。
 実を言うと私は梅干のあのすっぱさが嫌いです。自分のおにぎりに入れる時は微塵切りにして鰹節と一緒にご飯に混ぜます。

 若い頃は鰹節も自分で削っていたのですが、最近は体力も無いのでパック入りです。

 梅干を切らさないようにしているのは、海外へのお土産のためです。日本人にとって梅干しはとても懐かしい食べ物のようです。防腐剤入りを持たせるより少し塩辛くても安全な物を持たせたいのです。数年に一度しか帰国しない姉がいますが、宝物のように大切に食べてくれています。いつ来ても持たせられるよう今年も漬けておきます。

 いつか漬物屋さんで聞いたら、防腐剤の入っていない梅干の高価なこと!! とても、お土産にどっさり上げれる値段ではありませんでした。

 ラッキョウは夫のためです。漬けて売っているラッキョウの殆どが中国製です。以前、日本で禁止されている薬品が入っていると報道された事があります。自衛のためには自分で漬けるより方法がありません。

 今日は梅干とラッキョウを漬けましょう。 
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 母のコーヒー

2005-06-12 10:47:33 | Weblog
 第2次大戦後の数年はみんな大変な生活をしていました。1946年(昭和21年)山奥の村に父が転勤になり、知り合いも無く闇米を手に入れる事さえ難しかったようです。
 村には貸家も無く、私達家族は山の中腹にある元国民青年学校の修練道場に住みました。家を一歩出ると目の前は谷、下のほうに川が流れその近くにツタに覆われた白い発電所がありました。敵機の目を眩ますためにツタを這わせたのだそうです。その発電所の上には直径1メートルはあるかと思える土管があり、発電のために発電所に水を運んでいました。
 その土管の周りにはイタドリや蕗がはえていたので上の姉に連れてゆかれ、ご飯に混ぜるためにイタドリや蕗を取らされました。

 多分47年ですが、お米の替りにザラメの配給があったのです。10人家族でしたので樽一杯分ありました。
 砂糖など大きくなってから口にした事はなかったのです。母はストーブの上に大きな鉄鍋を置いてザラメを溶かして練り、熱いうちに台に広げて細い棒状にして包丁でチョンチョンと切りました。母が子どもの頃家ではそうやって飴を作ったとか、自分の母の話をしながら・・・。


 道場の前とか、谷の反対側のに畑を作っていました。多分そこで収穫したと思われる大豆を母はストーブの上の鉄鍋で煎りました。コーヒーが飲みたくなったと言うのです。そこで彼女は代用コーヒーを作ることにしたのです。

 マメを中まで薄茶色になるまで良く煎り、それをすり鉢で粉になるまですり潰すのです。みんな張り切ってガンバリました。小さい私達は両手でしっかりとすり鉢を押さえて動かないようにしました。
 家中に香ばしい香りが漂います。みんなみんな待ち通しかったです。
 お湯を沸かし、鍋に入れた豆の粉にお湯を注ぎ、それを布で漉したのでしょう。砂糖を入れて湯のみ茶碗で飲みました。
 今飲んでいるコーヒーのような強い香りも味も無かったでしょう。でも、香ばしい茶色のの飲み物をとても美味しく思いました。
 一人の兄か東京に出てパーコレーターとコーヒー豆を買ってきたのは1954年頃です。それまで我が家のコーヒーはこの大豆コーヒーでした。

 今思うと、大豆をそのまま料理して食べた方が栄養的には良かったと思うのですが、このコーヒーは戦後の苦しい生活中では母の唯一の贅沢だったかも知れません。
 

コメント (5)
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