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生きること:過去と未来とエスペラントと

みつばちの子の歌

2005-06-17 07:50:02 | Weblog
 昨秋、本を整理して大量に処分にしました。その時1960年に覚えたエスペラントの歌を見つけました。一昨日の夜中目覚めて、2時迄捜したのに見つかりませんでした。昨日、ふっと本箱を見るとその隅にありました。

 手書きの原稿を青焼きでコピーしていますので字はもう消えかかっています。60年代は今思っても暗く重苦しい、先の見えない時代でした。でも、なぜかいつも未来に希望を持っていたように思います。

 詩: 秋田雨雀  
 曲; 山田耕作
 訳: 伊東三郎 

みつばちの子の歌

みつばちの子の巣立つ朝
みつばちの子の声を聞け
平和と自由に飢えて発つ
みつばちの子の声を聞け
平和と自由の蜜を持て
巣箱に帰る日を待とう
聞けあの声を耳にあて
みつばちの子の巣立つ朝

 ≪エスペラント訳≫
Matene nun ekflugas abelinfanar'
Au~skultu jen zumadas infanoj de l'abel'
ekflugas ili pro sofi' je pac' kaj liber'
Au~skultu jen zumadas abel' infanar'
porti la mielon je pac' kaj liber'
Revenos la infanoj , jen mia esper'
Au~skultu la zumadon g^is fund' en oler'
Matene nun ekflugas infanoj de l'abel'

 ≪音≫
マテネ ヌン エクフルーガス アベルインファナール
アゥスクールトゥ ィエン ズマーダス インファーノィ デラベール
エクフルーガス イリイ プロ ソフィーイ ィエ パーツ カィ リベール
アゥスクールトゥ ィエン ズマーダス アベルインファナール
ポルトィ ラ ミエーロン デル パーツ カィ リベール
レヴェネーノス インファーノィ、 ィエン ミア エスペール
アゥスクルトゥ ラ ズマードン ジス フンドゥ エン オレール 
マテネ ヌン エクフルーガス インファーノィ デラベール

 この歌は秋田雨雀(1883~1962)が自分が学長をしていた舞台芸術学院のために作ったと聞いた記憶があります、また彼はエスペランティストとしても有名でした。

 仲間数人と伊東氏に連れられて雨雀氏の病室を訪れた事があります。若い人が行くと喜ぶからと言われ同行しました。本当に顔を見せただけです。雨雀氏はお孫さんを亡くされ、とてもがっかりしていましたが不死鳥の会を作り活動していると聞きました。
 伊東氏は駅前の花屋でバラだったか、カーネンションだったか花を1本だけ買いました。『気持だからね。』と嬉しそうに持参しました。お金の無い彼には精一杯の心づくしだったのでしょう。 
 記憶にあるのはカーテンか、壁か、オレンジがかった黄色い背景と帰りに食べたきしめんの味です。

田舎育ちの私は、その時初めてきしめんを食べました。濃厚なごま味のタレがとても美味しかったです。

  


付記:不死鳥の会についてグーグルで調べました。

「不死鳥」とはフェニックスの訳語である。エジプト神話に出る霊鳥で、焼け死んでも再び若い姿で生き返るということから、転じて不滅の価値や精神をさす。
1959(昭和34)年10月、たった1人の肉親で最愛の孫静江が秋田県十和田町で若い命を断つ。常に「頼みにするのは若い者たち」といい、世界的視野にたつ青少年の育成に精力的に走りまわってきた雨雀の悲しみと、孫の悩みに気づかない自分に対する怒りは筆舌につくせぬものがあった。その後、雨雀は孫の永遠行の原因を追求し、そこに「現今社会のモダニズムの影響」を突きとめ、断固闘おうと決意する。
不死鳥の歌こそひびけ、とこしえに 雨雀
翌1960年4月、「不死鳥の会」準備会が作られ、不死鳥運動は歩みはじめる。
「生活の愛情・創造の尊厳・相談や協力や前進」の3項目を前面に押したて、若い生命を守るために心の底から訴える運動はおしすすめられた。




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3 コメント

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習い始めたばかりの頃 (serena)
2005-06-18 02:22:07
エスペラントを学び始めて未だ日も浅かった私は伊東三郎の指導の下に級友達と秋田雨雀宛てにエスペラントで見舞いのはがきを書きました。

励ましの返事を貰いとても嬉しかったものです。病気の人が一人一人に返信をくれたのですよ。

記憶が定かではないのだけれど病室を訪れたこともあるような気もします。その後縁あって舞台芸術学園に足を踏み入れたこともありました。徳永直の娘街子さんもここの女優さんで、彼女の名は「太陽のない街」から来たのだろうなと勝手に想像していました。若かったのであまり根掘り葉掘り聞く勇気が無かったのです。

間もなくヨーロッパに発つというある夕方学園の人達に飲みに連れて行って貰い、帰り際に街子さんが「いつか一緒にビールを飲もう」と言ってくれました。その時間が無いことが判って残念がってくれたことも思い出です。

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不死鳥の会はその後。。。 (serena)
2005-06-18 02:24:13
どうなったのでしょう。

未だ続いているのでしょうか?
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Unknown (gilmi)
2005-06-18 07:49:39
私もその事を知りたかったのですがわかりませんでした。
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