ベルゲンからコングスべルグへオラフと彼の女友達のドーリーと一緒に汽車で移動しました。ドーリーはもう65才を過ぎていました。エスペラント歴2年。エスペラントの語彙はまだ豊富でありません。込み入ったことはノルウェー語とスェーデン語を混ぜて話していました。かれらはその言葉をノルスヴェンスクと名づけていました。
オラフは小柄160cmくらい、ドーリーは大柄で180cm以上あるでしょう。凄いスウェーデン訛りのエスペラントを話す心優しい女性でした。汽車には日本人など滅多に乗りません。彼女は私に注目する人たちに、私を紹介してはエスペラントの説明をし続けていました。私はまさに動く宣伝塔でした。
オラフは一人暮らしと言っていたのに駅には娘の夫が出迎えてくれ、娘夫婦は同じ家の2階に住んでいました。娘さんが、今自分の娘の一人が留守だからと3階の部屋を提供してくれたので、シャワーも自由に使える快適な4泊を過ごしました。
一日は知的障害者の通所施設へ遊びに行きました。障害程度は様々で、近くの学校で郵便の仕分けをして各教室に届ける仕事をするグループ。職員と外で働くグループ。食堂で働くグループ。職員と散歩をしたり、遊んだりを仕事としているグループと個人、等々。
外で働くグループは一般家庭の庭の手入れなどもしており、冬になるとみんなで機織りをすると言うことで織り機の並んだ工房もありました。
近くにアパートの建設が始められていました。彼等の中の幾人かがこのアパートに入り自立した生活を送る予定でした。
驚いた事に自閉的な子どもや寝たきりの子どもにはその子だけの場所あり、一人でカセットを聞いたり、好きなおもちゃを上から吊るしたりして、一人遊びができる空間と時間が確保されていることでした。
当時の日本におけるデイケアのように参加するならすべて集団行動ということはないのでした。
また、ビデオ室があり、障害の重い子どもを散歩につれてゆく時は、ビデオを撮り、心理の専門家を含めた職員達がそのビデオを見てチェックし、変化が認められた時には意見を交わして次ぎの働きかけを決定し、職員全体で子どもの発達を援助しているのでした。
日本で公的施設において指導会議なるものはあるでしょうが、そこまで行われているのでしょうか。ましてや親達が主になって作った地域作業所においてはこのような客観的指導は行うことは難しいでしょう。私の付き合っていた親達はただただ我が子が可愛い、可哀相なのでした。
作業所に来ているのだから給料を与えて欲しい。それでは指導員も一緒に外で働くことを考えましょうか。市役所に交渉して公園の清掃とか・・・。外で働かせるのは可哀相。人目につくのは可哀相。家でしていないことをさせるのは可哀相。
それでいて親が居なくなったらどうしようなのです。自立の道があるかどうか試みもせずにかと私は愚痴りたくなります。
≪千里の道も一歩から≫
利用者と折り紙をしながらおしゃべりをしました。みんな屈託がなく明るい。彼等の作ったパンでお茶も頂きました。
その間も外で働いた通所者達が帰って来て指導員に自分のした仕事について報告していました。自分は自分の意志で働いていると言う感じがしました。
コングスべルグでの生活はゆったりしていました。午前中織物、ノッテイング(じゅうたんのように織る)、模様織りなど。
オラフは模様織りの綜こうの説明書にエスペラント訳をつけてプレゼントしてくれました。
昼食後4時までお昼ね。散歩とカルタ遊び。庭での食事など。老人達(?若くない人達)が疲れると私はひとりで本を読んでいました。
ドーリーは最後の日に大きなケーキを焼いてくれました。上には≪ al amiko ≫(友だちへ)と書いてありました。
次はスウェーデンで訪ねたグループホームなどについて書きたいと思っています。
オラフは小柄160cmくらい、ドーリーは大柄で180cm以上あるでしょう。凄いスウェーデン訛りのエスペラントを話す心優しい女性でした。汽車には日本人など滅多に乗りません。彼女は私に注目する人たちに、私を紹介してはエスペラントの説明をし続けていました。私はまさに動く宣伝塔でした。
オラフは一人暮らしと言っていたのに駅には娘の夫が出迎えてくれ、娘夫婦は同じ家の2階に住んでいました。娘さんが、今自分の娘の一人が留守だからと3階の部屋を提供してくれたので、シャワーも自由に使える快適な4泊を過ごしました。
一日は知的障害者の通所施設へ遊びに行きました。障害程度は様々で、近くの学校で郵便の仕分けをして各教室に届ける仕事をするグループ。職員と外で働くグループ。食堂で働くグループ。職員と散歩をしたり、遊んだりを仕事としているグループと個人、等々。
外で働くグループは一般家庭の庭の手入れなどもしており、冬になるとみんなで機織りをすると言うことで織り機の並んだ工房もありました。
近くにアパートの建設が始められていました。彼等の中の幾人かがこのアパートに入り自立した生活を送る予定でした。
驚いた事に自閉的な子どもや寝たきりの子どもにはその子だけの場所あり、一人でカセットを聞いたり、好きなおもちゃを上から吊るしたりして、一人遊びができる空間と時間が確保されていることでした。
当時の日本におけるデイケアのように参加するならすべて集団行動ということはないのでした。
また、ビデオ室があり、障害の重い子どもを散歩につれてゆく時は、ビデオを撮り、心理の専門家を含めた職員達がそのビデオを見てチェックし、変化が認められた時には意見を交わして次ぎの働きかけを決定し、職員全体で子どもの発達を援助しているのでした。
日本で公的施設において指導会議なるものはあるでしょうが、そこまで行われているのでしょうか。ましてや親達が主になって作った地域作業所においてはこのような客観的指導は行うことは難しいでしょう。私の付き合っていた親達はただただ我が子が可愛い、可哀相なのでした。
作業所に来ているのだから給料を与えて欲しい。それでは指導員も一緒に外で働くことを考えましょうか。市役所に交渉して公園の清掃とか・・・。外で働かせるのは可哀相。人目につくのは可哀相。家でしていないことをさせるのは可哀相。
それでいて親が居なくなったらどうしようなのです。自立の道があるかどうか試みもせずにかと私は愚痴りたくなります。
≪千里の道も一歩から≫
利用者と折り紙をしながらおしゃべりをしました。みんな屈託がなく明るい。彼等の作ったパンでお茶も頂きました。
その間も外で働いた通所者達が帰って来て指導員に自分のした仕事について報告していました。自分は自分の意志で働いていると言う感じがしました。
コングスべルグでの生活はゆったりしていました。午前中織物、ノッテイング(じゅうたんのように織る)、模様織りなど。
オラフは模様織りの綜こうの説明書にエスペラント訳をつけてプレゼントしてくれました。
昼食後4時までお昼ね。散歩とカルタ遊び。庭での食事など。老人達(?若くない人達)が疲れると私はひとりで本を読んでいました。
ドーリーは最後の日に大きなケーキを焼いてくれました。上には≪ al amiko ≫(友だちへ)と書いてありました。
次はスウェーデンで訪ねたグループホームなどについて書きたいと思っています。