glimi

生きること:過去と未来とエスペラントと

廃油で固形石鹸を作ろう!

2005-08-30 05:07:59 | Weblog
 昨日はオリ-ブ石鹸について書いたので、今日は廃油石鹸です。これもインターネットで調べて作りました。

 田舎に行った時、病気になった義姉が溜め込んだ古い油を多量に見つけたのです。捨てるのももったいないので石鹸を作ろうとペットボトルに入れて持ち帰りました。

 【分量】
廃油:360cc
水 :100cc
苛性ソーダ:50gとあります。

 オレンジの皮は洗浄力を強くするという事ですので、オレンジの皮少々(4gほど)を分量の水と共にミキサーで砕いて加えることにしました。
私は防腐剤のローズマリ―エクストラも数滴加えています。加えなくとも大丈夫のようですが。

 350ccいりのお茶のペットボトルに360ccの水が入るか試しました。注ぎ口近くまで入れると約同分量です。― 私は結構いい加減な人間です。
 そこでこれを計量カップとして使うことにしました。 


 牛乳パックを2個重ねます。同じ大きさですからすんなりと重なるわけがありません。無理やり入れます。

 先端は4~5センチ切り落とします。切り過ぎると液が漏れる恐れあり!! 

 苛性ソーダ50gをパックに入れ、オレンジまたはミカンの皮を入れた水を入れ棒で書き混ぜ溶かします。熱を発し熱くなります。倒したら危険です。
 
  私はオリ-ブオイル石鹸を作る時に使っているガラスのボールの中にパックを立てて作業しています。素焼きの植木鉢でも安定すると思います。攪拌するのですから倒れないように工夫しましょう。万が一倒れても外に流れ出させない様にしましょう!中和剤として食酢を手元においておきましょう!

 牛乳パックの苛性ソーダ水の中に廃油をポタポタと落としながら棒で混ぜます。廃油は魚とか肉とか揚げた後のものが多いのでかなりの悪臭が出ます。それほど手が疲れないうちに固まって来ます。固まったら安全な所に4~6週間ほど放置します。

 牛乳パックを剥ぎ取り出来上がりです。長さ9センチほどの石鹸ができます。あの悪臭はどこヘ消えたのでしょう。匂いは全くありません。 
切り取って使います。残りは紙に包んで保管しています。

 以前、プリン石鹸を買ったことがあります。プルプルして使いにくかったのですが、この石鹸は濡らしたスポンジに馴染むので、食器を洗うのに活躍しています。

 姪の話しでは、義姉は頑固な土の汚れが落ちると喜んでいたそうです。

 我が家では廃油はなかなか出ません。350ccのペットボトルに溜め込んでいます。ボトルがいっぱいになったら、石鹸を作れば良いので保管にも便利です。ボトルに油を入れる時は100円ショップで買ったステンレス製の漏斗を使っています。

 苛性ソーダの値段は地域、お店によって違いがあるようです。私が行く薬局では苛性ソーダ500gで400円です。廃棄すると土や水を汚し燃やすとそれだけで経費がかかる廃油+40円で数ヶ月気持ち良く食器が洗えます。お子さんのいる家庭では靴や泥んこ汚れ落しにも使えます。地球に優しい石鹸いかがでしょうか。

 
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オリ-ブ石鹸を作る!

2005-08-29 09:37:55 | Weblog
  私のすることはいつも泥縄式。お尻に火がつかないと動けないのです。6月所属するボランティアグループのリーダーから10月にバザーがあるのでそれまでに石鹸を作ってと言われていたのに数日前、ようやく動き出しました。
  
 石鹸がが出来上がるのに6週間ほどかかります。昨日は7週間前、まさに時間としてはギリギリです。

 オリーブオイル石鹸の材料は基本的にオリ-ブオイル・苛性ソーダ・精製水でます。これに蜂蜜と防腐剤としてローズマリーオイルエクストラを入れます。その他は遊びで、生のアロエのジュースを入れたり、クレイ(粘土)とか炒り糠を入れたりしています。

 オイルと苛性ソーダの分量を正確に測るということを除けば作業はいたって簡単です。40℃くらいにした冷ました苛性ソーダ水を同じ温度に温めたオイルの中にポトポトと落としながら、泡立て器でただただ攪拌します。20分、30分すると油が重くなって来ます。ここで少し休憩。後は時折り通りすがりに攪拌します。10時間ぐらいたつとようやくホットケーキの種のようになります。これをあらかじめ牛乳パックで作ったおいたケースに入れて2週間前後寝かせ、切り分けてまた4週間前後寝かせます。

 辛いのはなんと言っても攪拌です。子どもの頃母にマヨネーズつくりを手伝わせれました。母は卵の中にオイルとお酢を1滴づつ入れます。私はひたすら泡立て器を回します。疲れてスピードが落ちると母に叱られます。母に叱られそうな気分で泡立て器を回し続けると失敗しません。
  

 石鹸は汚れを落とすし、眠っている電動泡立て器を使ったらどうでしょう。早速実験しました。難点は苛性ソーダ入りの危険な油が飛び散ること。オリーブオイル石鹸はとても柔らかい石鹸なのに益々柔らかな石鹸になりました。
 辛くてもシコシコと回し続けるほうが無難なようです。

   石鹸を売ろうと言い出したのは私です。どんな組織もお金がなければ活動ができません。自分達でお金を生み出す努力をしようと主張したのです。会に頻繁に出席できなくても家でできることなら、少しは協力できるだろうという思惑もありました。ですから、なんとしてもしなければならないに作業でした。
 数日前、1000cc分を作ったのですが、苛性ソーダが足り無くなリました。苛性ソーダはどこでも売っているわけではありません。ドラッグストアは沢山ありますが、昔から商売をやっているような薬局でないと売っていないのです。遠くまで出かけるのを渋っている内に切羽詰ってしまったわけです。

 石鹸を作り始めた理由

 6年程前、知人の本の始末を頼まれ働きました。そしたら頭や背中に湿疹んができました。湿疹が治らない内に薬を手で塗っていたら手平が薬に過敏に反応してしまったのです。まるで氷が張った池のようでした。皮が硬くなりパリパリと割れてゆく。痛さと痒さは喩えようも無いのです。市販の石鹸が手にも体にも頭皮にも沁みます。
 炒り糠で洗ってみました。体は良いのですが髪を梳くたびにふけのように糠が落ちます。そこで石鹸を作る決心をしました。

  インターネットで手づくり石鹸をさがしました。そこで出会ったのが《ちっちの無添加のすすめ》と言うホームページです。
 これより数年前、手作り石鹸のお薦めという新聞記事を切り取ってあったのですが、分量だけでは作業の要領が分りませんでした。ちっちさんには感謝感謝です。
 ブログに載せたいとページを捜しましたが見つかりませんでした。

   今では頭から足の裏まで自家製石鹸を使っています。泡立ちは悪いのですが、洗浄力は抜群のようで、以前背中を擦ってもらってもスッキリと洗えなかったのに、今はすべすべです。リトアニアでは全く泡立ちませんでした。ですが、バスに垢が浮くのです。汚れは落ちている証拠です!

 みなさん試してみませんか。ちっちさんのペ-ジは見つかりませんでしたが、他の方ホームページにも、作り方が載っていました。

 腕が痛くなる時間約30分。ジーと待つこと6週間。試す価値はありますよ。

    

  →注意
 スーパーでエキストラバージンオイルが安く売っていたのでこれを使ってみました。硬くなるのに泣きたくなるほど時間がかかりました。出来上がった石鹸はすぐに使い切ってしまう程とても柔らかでした。
 ピュアオイルを使用しましょう!
     
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蝉と猫

2005-08-28 08:00:50 | Weblog
 昨日は少し涼しくなったと思い散歩をかねて姪の家まで歩きました。

 でも暑かったですね。

 川の沿いに作られた遊歩道を通り約5キロの道のりを、47分かけてのんびりと散歩しました。川岸の葦はなぎ倒され、その上を水が流れています。先日の台風は結構ひどかったようです。
 
  いい香りがすると思ったら葛の花が咲いていました。まだ咲き始めたばかりです。子ども達を大勢連れてキャンプに行った時、父親の一人がこれで天ぷらを作ってくれました。
 油を使った鍋は新聞紙で拭き、川の砂で油を落としていました。洗剤で水を汚さない山男の知恵でした。 

 姪の所は借家です。庭には柿の木があり、6年生の息子がその下にキャンプ用のテーブルセットを置いてゲームをしていました。最近迷い込んできて居ついたと言う猫は、馴れ馴れしく私のところにもよって来ます。
 蝉の暴れる音がすると思ったらなんと蝉をくわえてやって来ました。傷をつけず草の上におきます。蝉は逃げようともがきます。蝉が疲れて休むとすぐ転がしたりくわえたりして休む暇を与えません。無言で猫は愛らしい仕草を続け、蝉の羽音は次第に力を失ってゆきます。それでも、猫は得意げに追及の手を緩めません。
         

 これは猫の習性と分っていても楽しい光景ではありませんでした。


コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ソヴィエトの圧制を忘れない:グルータス公園

2005-08-26 12:14:08 | Weblog
 この公園は民間人が1999年に作った公園でソヴィエト時代の遺物が飾られています。場所はヴェイシェイヤィに近く、ポーランドとの国境により近いところとガイドは説明しました。
 ここは森と沼しかない広大な湿地地帯でした。ナポレオンもここでロシアと死闘を繰り広げ多数のフランス人とロシア人が死にました。ロシアとポーランド、ドイツとソヴィエトもここで戦い多くの人達がなくなった土地だというのです。もちろん兵士だけでなくその都度多くのリトアニア人も死んだのです。リトアニアの人々はここに慰霊の像を建てたいと願いましたが、ソヴィエト政権は許可を与えませんでした。そこでかれらは頭をひねり、ロシア兵も含むすべての兵士の慰霊のために母の像を作りたいと申し出て許可を受けました。ウソも方便と言うのでしょうか実際の目的と計画申請の違いをガイドは私たちの知恵と称しました。母の像の高さは8メートル湿地帯で地盤が弱く傾きました。
 1991年社会主義政権が崩壊した時、民間人がこの不毛の地を安い値段で買ったのです。彼は濠を掘り、その土で土地を高くし、足りない土は他所から運び込み水路と陸を分けました。それでも母の像は傾き危険になったので、水路に囲まれた小高い所に移しました。何しろ沼地ですから像は自からの重さで傾きます。毎年、土を持ち込み補強しているそうです。
 現在この森からは質の高いきのこと野生のベリー類が取れます。持主は数百人雇い、それらを収穫し、ヨーロッパの他の国々に輸出し、富を得ているということでした。

 リトアニアの特徴の一つは公園や博物館で写真を撮る時は別に料金を請求されます。料金を支払わず、写真を撮っている日本人とスェーデンを見つけたので声を掛けました。日本人は単純に説明を理解していなかっただけでしたが、スェーデン人は《そんなの大した事じゃない》と写真を取りまくっていました。私の感覚は少し杓子定規かもしれませんが、郷に入ったら郷に従へであり、自分の国とシステムが違っていてもお金を払うべきであると感じました。ましてやこの国に貧しいです。

 公園にはレーニン、スターリン、マルクス、エンゲルスその他リトアニアの過去の政治家の銅像や壁から剥ぎ取られたレリーフなどが在ります。板を敷いた道は森の中を曲りくねりなりながら続いています。それは、シベリアやその他の強制収容所に送られた人々が歩いた道を思い起こして歩く道なのだそうです。
 リトアニア人はソヴィエト支配当時の苦しみを忘れず、子孫に伝えたいと言う願いからこの公園は作ったのでした。大音響ではありませんでしたが、ソヴィエト時代の戦いを鼓舞するような音楽も森の中に流れていました。

 哀しかったのは帰りのバスでの日本人の会話でした。
 あの公園はなんだろうね。やはりソ連時代が良かったんだろうね!そうだよ、きっと。
後の男性が言いました。あれは中国が、歴史的認識はきちんと持つといっている事と同じことで、歴史を後世に伝えようとしていると言う事でしょう!
 でも、二人は自説を曲げるつもりは無い様でした。やっぱり、ソ連時代を懐かしがっているんだよ!
 私がエスペラントで反論すると他の国の人達の注目を集めることは明白でした。日本語で話しかけても、何を話しているかと質問されそうなので黙っていました。
 彼等がエスペラントを使わなかった事がこの時はとても嬉しかったです!

 最後に、ガイドが話してくれた現在のリトアニア人の生活の1部を紹介します。
社会主義政権が崩壊した後、政府は、以前の土地所有者に2ヘクタールの土地を返還しました。現在リトアニアの人口の4分の一が農業で暮らしています。自分達で作った野菜を売ったりして得る収入約200リタスに過ぎません。
 国の最低賃金が505リタス(25000円弱)です。ですから農村の人々の生活はとても苦しいです。
 また仕事が少ないので能力のある人はヨーロッパ各地に出稼ぎに出ています。その数は205000人に達しています。
 私の友人アンゲレの息子も現在ロンドンで働いているということでした。妻はリトアニアとロンドンを行き来し、その娘は二人の祖母が協力して育てていると彼女は言ってていました。サービス業で働くいている人の多くは10代の若者です。これは20代・30代の人達が海外で仕事についているからでしょう。働きながらも、多くの若者はインターネットで大学の学習をするなど、勉強家であるということでした。かれらはこの国をどう築いてゆくのでしょう。

 これで、私のリトアニア報告は終ります。これからもこの国に魔法使いや妖精が生き続けて欲しいと願っています。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ザメンホフの贈り物

2005-08-25 09:21:32 | Weblog
 ヴェイシェイヤィへ
 ザメンホフが住んでいた家の場所は本当に湖の際でした。リトアニアのエスペランティスト達が建てた石碑が緑の草の中に立っていました。
ヴェイシェイヤィはポーランド国境に近いところに在ります。ここにザメンホフの姉が住んでいました。彼女は夫の病気を治療してもらうために医者になったばかりのザメンホフを呼び寄せ、開業させました。しかし、彼は病人の死に耐えられず、勉強しなおして眼科医になったということでした。

 ヴィルニュウスからここまで来る沿道には人家はあまり見えませんでした。森に隠れているのでしょうか。目に入るのは緑だけです。森と野原、牧場と野菜畑。
 変化に乏しい景色を眺めるうちに、私はザメンホクの詩 Mia penso『わが思い』を思い出していました。この詩の中で彼は未来への希望と不安を歌っているのです。その思いが伝わって来ます。この<希望と不安>は彼が私達エスペランティスト達に与えた遺産なのでしょうか。いいえ、彼が遺してくれたの物の中に<互いに理解しようと努力する仲間>も入るでしょう!

 もう一つザメンホフの銅像が少し離れた公園に立っています。そこで地元の仲間達が20人ほど私達を待っていました。時間が無く個人的に話が出来ないのが残念でした。10歳ぐらいの男の子がいたので持参したエスペラントのシールを手渡しました。あの子が、あの集まりに出てよかったと思ってくれると嬉しいですが。
フランスのMsanがそれに気付きビデオを撮っていました。これで、私の元気な姿がスェ-デンのエリザベス夫妻に届くかもしれません。

 近くの教会でフルートの演奏を聞き出発です。木立に囲まれた教会での演奏は素敵でした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美術館:森の木霊

2005-08-24 10:30:30 | Weblog
 世界大会は1週間(土曜日~次の日曜日)行われます。その中に一日遠足があります。私はヴェイシェイヤィという、ザメンホフが住んだことのある場所を選びました。彼がエスペラントの草稿を仕上げたのはその場所だとリトアニア人はとても誇りにしているのです。

 途中<森の木霊>という名の小さい美術館に立ち寄りました。美術館の前には3頭身の妖精ノームのような大きな木の彫刻が優しく微笑んで立っています。
この美術館の特徴は中央に日本の大黒柱のように古い大きな樫の木が4階まで突き抜けるように立っていることです。この樫は7000年程前のもので見つかった時に泥炭の中に埋まっていました。泥炭に保護されて腐りもせず枯れもせず、倒れた時の状態だったそうです。その根元の太い部分は彫刻用にし、先の部分を4階まで届く柱にしたと言うのです。展示部分は2階~4階までです。
 2階の樫の幹の太さは大人が3人ぐらいで手をつないで取り囲める位でしょうか。幹の周りにはベンチが置いてあります。
 『かけて下さい。』とガイドが言うとみんな尻ごみします。そんなときは私の出番です。もう一人の女性と『ヨイショ!』と座ったら、大音響と共に幹の窓が開き魔法使いが顔を覗かせました。3階には太い綱があり、全身でぶら下がると窓が開き、動物が顔を覗かせました。リトアニア人はこう言う人の虚を突く遊びが好きなようです。
 展示品は彫刻と織物、蔓で編んだ篭やこの地で取れる土で焼いた陶器などの民芸品です。
 彫刻の多くは妖精と庶民です。例えば<子どもを抱いた老人と坐像><馬と歩く老人>
 どの表情も庶民的で哀愁と優しさに満ちています。このような普通の表情の彫刻に出会ったのはリトアニアが初めてのような気がします。
 お面やストロ-細工の飾りもあります。これは子どもたちの作品です。この美術館の本来の仕事は森の大切さと、どのようにしてリトアニアの森を守ってゆくかを子ども達に教えることだそうです。ガイドをしてくれた男性は森を教える教師でした。子どもたちはここで宿泊して森についての学習します。その時、余暇として男児には彫刻、女児にはストロー細工をさせるという事です。4階のテラスから見えるところに農家風の家が数軒見えました。多分宿泊施設なのですしょう。

コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日のできごと

2005-08-23 16:33:44 | Weblog
 今朝はコメントを書き10通を超える手紙を読み返事と削除を繰り返しました。
 リトアニア報告ももう終わりに近づいているのに、今日は書けないでしょう。昨日は美太竜に昔の10銭札と記念硬貨(これ違法かな?)を送ったら、きょう、挨拶文がメールで来ました。

 名前はヴィタリィウス。ついでになぜスが付いたり付かなかったりするのかとメールを書きました。
 
 お金が無くなったので銀行へ。
 昔、訓練会に来ていたお母さんと久しぶりに会いました.お米やトイレットペーパーを抱えて抱えて言いました。
 N子が迷子になったの!お母さんは駐車場へと急ぎます。帰るまで10分はかかります。N子ちゃんパニック起さないか。彼女にはもう25年以上会っていません。私にわかるでしょうか。銀行を素通りして彼女が出てきたスパーへ。通路を行き来してお菓子売り場を行ったり来たりしているN子ちゃん発見。
 でも、声を掛けたら不安になるかも。N子ちゃん、お母さん駐車場だから、ここで待っていましょう!
 そうだ、呼び名を変えなくちゃ。昔の呼び名のままかもしれない。
 Nちゃん、ここでお母さん待ていましょう!少し警戒心が消えたようだ。彼女は雑誌売り場へ。彼女が見えるところに立ち、入り口を睨んでいました。

 お母さんが見えるまで時々振り返り私を観察していましたが、パニックにならず本当に良かったです。どこかで聞いたことのある声と思ってくれた様で嬉しかったです。帰りはニッコリと笑顔も見せてくれました。

 用事を終えてスーパーで買い物をしていると小学生男の子にに買い物をさせているお母さんに会いました。
 『秋刀魚はね、目のきれいなものでお腹から何も出ていないものを選ぶのよ』少年は真剣に秋刀魚を選んでいました。

 素晴らしいお母さん!

   
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゲディミヌスの弟子:ヴィタリィウ

2005-08-22 13:48:18 | Weblog
 出席したい集まりが無かったので、リトアニアの歴史講座に参加してみることにしました。講師が準備している間に椅子に座って待っていると少年がやって来ました。大柄で、背丈は私よりもはるかに高く体重もはるかに重そうですがあどけない表情をしています。彼は綺麗な発音のエスペラントで日本人ですかと私に話しかけてきました。講演者が『今日は決っていた講師が病気で入院していまい私は代理です。』と準備しながら言うと『あのエスペラントはリトアニア的』と批判しました。

 『あの、日本のお金もっていませんか。』と彼は言います。お金は身に付けていたのですがこんなところで出せません。
 『残念だけど今持っていないの。』
 『日本のお金はとても綺麗だと聞いたんです。今度見せてもらえませんか。』
 『良いわよ。』
 『いつ見せてもらえますか。』
 『今度会った時にね。』
 『いつ会ってもらえますか。』
 彼が私を日本人と見て近づいたのだと気がつきました。でも、見せてやるといって約束しないのも変なで、プログラムを見て、翌日の14時に約束すると、少年は『じゃあ、明日ね!』と念を部屋を押して出て行きました。

 約束しながら、私はクラペイダでお金をねだった少年の顔を思い浮かべていました。友人のハナに話すと彼女も、お金頂戴というのではないかと心配しています。ハナもお金が見たいというので同じ時間に会うことにしました。

 あの少年は利口そうだから、貨幣価値が理解できたら決して頂戴といわないだろうと考え、翌日ノートにリトアニアと日本のお金の比較を書きました。本当はリタスの下の単位にも呼び名があるのですが、すぐ忘れてしまうので使いませんでした。

1円  :50分の1リタス
5円  :10分の1リタス
10円  :5分の1リタス
50円  :1リタス
100円  :2リタス
1000円 :20リタス 
5000円 :100リタス
10000円 :200リタス

 少年は時間を違えずやってきました。ソフアに座り3人でお金を見ました。彼は本当に綺麗だと眺め、私が書いた換算表を欲しいと言いました。硬貨が欲しいかと訪ねると、それは全部持っていると言うのです。お金を集めるのが趣味で、店で買ったということでした。

 少年のエスペラント発音の良さと流暢さにハナも驚き、どれくらい学習しているのかと聞きました。
『10ヶ月。』
 たった10ヶ月で!日本の英語の教科書で言うなら中学生ぐらいの文法と単語を完全に習得しているといえるでしょう。私たちの驚きに彼は誇らしげに言いました。
 『先生がいいんだ!僕たちの先生はとっても素晴らしいんだ!』
 『先生は、だれ?』
 『ゲディミヌス!』
 ゲディミヌスが<私は400人教えた>と胸を張れる理由がわかるようでした。

 少年は14才、ロシア語、ユダヤ語、英語と5の言葉が話せると言いました。将来は言語を研究したいと言いです。日本語にも興味があるけれど言えるのは《ありがとう》と《さようなら》だけ、ひらかなとカタカナは読めるがそれ以外の文字は難しい、でも興味があると言います。
 彼は50音濁点等を含めてすべて読めました。

 ハナが私の名前は日本語で1文字で書けると自慢すると僕の名前も書いてと言いました。
彼の名ヴィタリィウ。どうしても思いつきませんでした。今度便りを書く時は当て字を書いてあげようと思っています。美太竜。

 私は漢字がどんな風にできたか、山・川・木などを使って説明しました。彼は目を輝かせて聞いていました。例えば漢字の中に木がは入っていると木に関係があると言う話には感嘆していました。

 夕方からダンスパーティが開かれる日でした。
 『あなたはダンスができるの?』ハナが訊ねました。
 『もちろん! リトアニア人はみんな踊れるよ!』
 『私と踊って!男性がいないと踊れないから!』ハナの言葉に彼は困惑していました。

 夕昏どき(21時頃)様子を見に会場があるという川原に下りて行きました。微かな音楽の中で少数の人が踊っています。もうダンスパーティは終ったのかと踊っている人に訊ねると会場は横のレストランだというのです。会場はレストランの地下でした。地下のホールは踊り手と見物客でごった返していました。大音響の音楽の中で老いも若きも無我夢中で踊っています。

 ヴィタリィウが私に手上げ誇らしげに叫んでいます。
『僕の女友達!』可愛い少女が彼にへばり付く様にして踊っていました。日本でいえばかれらは中学生なのです。
 中学生が大人と一緒にダンスを楽しむことなど日本ではありません。もし、日本の少年少女もこのような大人との共通の場があったら、顔黒とか顔白とか山姥のような化粧で、盛り場でたむろする必要がないのではないかと私は考えていました。

 


コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Esperantoで垣間見た世界:イラン

2005-08-20 11:31:15 | Weblog
 イランでは1965~67年テヘラン大学でエスペラントの講座がありました。それが消滅したと、84年にエスペラントが復活、消滅、94年に再び復活しました。なぜこのように運動が安定しないかを考えて見ると、以前のエスペラント普及の努力は個人に依存していて、国家から組織として認められていなかったからです。
 運動を継続的に行うには、国に団体として認められなくてはなりません。いま。その努力をしていますが、まだ、正式に認められていません。
 
 なぜ認めて貰えないかという理由の一つは言語問題です。アラブ諸国には宗教を通しての共通語あります。ですから、その世界にいる限り不便は感じません。
 もう一つは宗教の壁です。 ― 彼は排他的という言葉は使いませんでしたが ― 例えばバハイ教の人が地方に行くとバハイ教ということだけで殺される可能性があります。

 ― バハイ教は19世紀にペルシャで生まれた宗教でエスペラント使用を支持しています。ザメンホフの末娘リディヤもバハイ教徒でした。 ―

現在、六つの地方の六つの大学にエスペラント講座があります。また、アフガン戦争の時に、イランに避難した人達の希望者に、難民キャンプでエスペラントを教えました。その結果、現在ではカブール大学にエスペラント講座を開設することができ若者達が学んでいます。

難民に対するエスペラント教育について少し説明します。アメリカのアフガン侵攻の時多くの人達が隣国イランに逃れました。イランのエスペランティストの提案で世界中のエスペランティストに2種類の寄付が呼びかけられました。一つはエスペラントを教えることを目的とし、もう一つは字を読めない人特に子どもに対しての識字教育でした。私も少し寄付しましたが、半々にしました。自国語を知ることは子ども達にとって必要ですし、エスペラントは既に基礎教育を終えた人に勉強してもらえばよいからです。
このお金で給料を貰い、イランのエスペランティストたちは難民キャンプに行き、エスペラントと文字をおしえることを行いました。イランは失業率が高いと聞いております。これによってイランのエスペランティスト達も仕事を得たのです。
今後日本が海外に援助する時も、自分達は現地に行けなくても、現地の人と連携すれば多くの可能性が生まれてくると思うのですが・・・。

質問:
 女性のエスペランティストはいるのですか。
答え:
 おります。ただ、活動家はおりません。

質問:
 私はクロアチアから来ました。宗教の壁によって活動が制限されると言いましたが、エスペラントに対して一般的に好意的なのではありませんか。昨年私達はイランで出版されている絵本をエスペランチに翻訳しました。その出版をイランの出版社に頼んだ所快く引き受けてくれました。これはエスペラントに対して好意的であるというこでしょう。
答え:
 出版を引き受けたことがどうして好意的なのですか。それは単なるビジネスです。

 ちょっと乱暴な言い方ですが、宗教的規制が厳しいにもかかわらず、商売ガ成り立つなら色々なことが出来る。また、エスペラントもまた、反国家と言われかねないのだけれど、そう言われるまでは、大学にまで進出できる。アラブ社会は不思議といえば不思議な国に思えます。 


 追記

 書き忘れました。イランでは13人のエスペランティストがインターネットを使い協力し雑誌を作っているそうです。しかし、インターネットの普及率はまだ、人口の1%に過ぎないということです。




コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Esperantoで垣間見た世界:アフリカ

2005-08-19 12:23:57 | Weblog
 アフリカの運動報告を聞ききました。現在Esperantoが広がりつつある国はガーナ、コンゴ、ベリー、トーゴ、南アフリカ、ニィジェールなどです。しかし交通の不便さか会合はなっかなか開けません。多くて月2回、たいていは一回です。しかし今年2005年の12月には第13回アフリカ・エスペラント大会が開催されます。

 ≪アフリカで世界大会を開いて欲しいと言う声もあります。日本人は快適さだけを求めますが、ヨーロッパ人は結構、自然派で、原始的生活も好きな人が多いです。もしかしたら私の仲間だけかもしれませんが。≫

 アフリカの言語問題は複雑です。公に使われることばの他に部族の言葉があり、日常の種族の言葉があるので、少しはなれた場所では全く理解し合うことができないことがあるのです。
 トーゴでは今Zamenhof Instituto (ザメンホフ学院)で、200人の生徒がエスペラントを勉強していますが、食事の問題がありこれ以上人数はは増やせません。

 えっ!食事ですって?
私は数年前,WFP(世界食料計画)の方から伺った話しを思いだしていました。
貧困から抜け出すには教育が必要であるが、アフリカなど貧困にあえぐ地域では親自信が教育を受けていない。その人達に教育の重要性が理解させることは非常に難しい。例え、読み書き算数ができれば、物の売り買いでも人に騙されにくくなる事が分っても、5~6才になると既に家庭内の労働力になるので外に出したがらない。そのような場合、ユニセフは教育を受け持ち、WFPは給食を実施したり、一定期間学校に通わせるとその見返りとして、穀物を数キロ家に持ち帰らせたりするということでした。

 ウガンダだったでしょうか、難民キャンプで働いているシスターが言っていました。乳幼児を救うためにここでは配給は意味をなさい。何故ならアフリカは弱肉強食の世界だから、家に持ち帰らせると一番に力のある男性が食べるのですと。子どもたちに確実に供給されているか自分達の目で確認できるように、連れてきた乳幼児だけに、ミルクや食事を与えると。

 エスペラントにもインタネットによる雑誌があります。ジャンガーロ(ジャングル)と言うのです。 Zamenhof Institutoについて何か書いていないか調べました。そこにはトーゴの教育事情も書いてありました。
トーゴでは国立の小学校でも、授業料ガ必要です。女子は年間3000フラン(約4,6ユーロ)男子は4000フラン(6,6ユーロ)です。その内の60パーセントを校長が必要経費として受け取り、もちろんこの中に教師の給料分も入っています。あとの40パーセントを国に納めます。しかし、これでは足りないと校長は他の名目で親からお金を徴収しますが、ほとんどは校長の懐に入り、数ヶ月の給料未払いは普通のこと、そして授業料未納者は容赦なく学校から追い出されるそうです。
 これを書いたコフィ氏はカトリックの学校で教育を受けました。ここで教育を受けるには宗教的実践をしなければならなかったが、それでも教育を受けると未来が開けると彼は書いています。
 彼はヨーロッパの人々の援助で学校を首都レメに立ち上げました。一人の教育に年間50ユーロかかるということです。両親は国立に行かせた場合と同じ授業料に+5000~12000フラン上乗せして授業料を支払っています、その上に学校ではインターネットカフェを経営し収入を得ています。また、地区の人が電話を使えるように電話ボックスを設置しています。
 教科は公的プログラムの他にエスペラント・平和教育(環境教育を含む)情報教育など今までアフリカには無かった教育プログラムを含めました。卒業までに必ず得意な技術を身に付け確実に仕事に付けるようにすることが目的で、現在4~19才の生徒がまなでいす。
 昨年はフランスの団体が2600ユーロ、ベルギーの団体が教材を寄付しました。
この学院の特色の1つに女性教育があります。アフリカの女性は差別され、教育を受けられず殆どの人が文字を読めませんでした。この女性たちのために夜のクラスを作り教育を始めました。

 アフリカの教育の現状もっと詳しく書かれていますが、大胆に省略し紹介させて頂きました。

http://gxangalo.com/modules/kolumnoj/article.php?artID=18

 エスペラントで詳しく読みたい方は上記のページを訪ねてください。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏の終わりに

2005-08-18 09:32:39 | Weblog
 ヨーロッパから帰ったた頃は蝉たちが大合唱をしていました。昼と無く夜と無く鳴き続ける声に驚きました。蝉が夜中にも鳴くなどと今まで気がつきませんでした。
 帰ってからも、夜の除湿以外はエアコンも使わず過ごしました。最近、朝は涼しさを感じます。
 今、大きく茂ったクサギか沢山の花をつけています。この木は大きくならないと花をつけることが出来ないようです。今年青い実を摘んだら木を切る事にしましょう。

 友人が染めものようにとくれた3本の月桂樹は昨年2本しか使いませんでした。この木も高くなるのですね。それほど太くないのに3メートルは超えています。これも切って使わなければなりません。

 10月は日本エスペラント大会がありお客も来ます。

 弱音は吐かない事にしましょう!!

  
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トラカイ城見学

2005-08-17 14:42:37 | Weblog
 2階に上がる階段は手すりはありますが、足を外す危険があります。ゲディミヌスは足に自信のない人は中には残るようにと言いました。
 レカントはクララの足が覚束ないので入るのを止めました。エリザベスは連れの腕を取ると強引に階段を上り城内に入りました。石の床はデコボコで、とても足場が悪いものでした。これ以上危険と言われたエリザベスは同伴者をゲディミヌスに押し付けると上の階に登ってしまいました。
 フランス人ルイザは2階まで行きましたが、足場の悪さに諦めたらしく上に行かずに引き返しました。

 ルイザはヨーロッパでは名の知られた教育者です。私が初めて会ったのは1991年のベルゲン大会の遠足でした。その遠足にはもう一人若い日本女性がおりました。彼女が私に日本語で話しかけた時、ルイザはクロコディロするなと激しく怒りました。以後の大会で私は彼女と幾度もバスを同じくしましたが、話したことはありません。向こうからも話し掛けてきませんでした。
 その彼女が今回は杖をつき、男性に付き添われて参加していました。名前を見ると夫のようでした。彼と話す時、彼女はフランス語でした。おいおいクロコディロだぞと私は思いましたが、彼女のような咎め立てはしませんでした。魔法使いの丘では雨の中彼女がよろけたので、私も思わず手を貸したほど彼女は弱っていました。杖を頼りながらもエスペランティストは集会に参加したいのです。その魅力はなんなのか、私ですら言葉で表現できないのです。
 話はそれますが、今回の大会はいつもより小規模だったせいか、年老いた祖父の荷物持ちになって参加している孫娘の姿が目立ちました。エスペランティスト人口が減らないのは、付き添っているうちに自分から参加するようになる人がいるからでしょう。
 
 下りは別の階段を通ったのですが、それは危険だから上った階段を戻った方が良いとゲディミヌスに言われてもエリザベスは聞き入れず、他の人達が下ろうとする出口へと入ってしまいました。
 その階段は煉瓦造りで平らではありませんでした。その上、一段が巾60センチほどで、奥行きは一方が20センチ、反対側が6センチぐらいのほぼ3角形できた螺旋階段でした。私の足ですら段からはみ出すのです。所々踊り場があって、下からきた人とは踊り場で交差できます。時々足を滑らせそうになった人達の『アッ!』というような声が聞えました。階段は中庭の扉に続いていました。
 エリザベスの勇敢さを誉めるべきか非難すべきか迷います。周りの人達はハラハラしたのです。一人が足を踏み外したら、下にいる人にも危害は及ぶのですから・・・。

バスはヴィリニュウスへ。

 別れ際にエリザベスが言いました。2007年、横浜で行われる世界大会には必ず長男と参加しますと。彼女の長男は現在17歳、日本にとても興味を持っているということでした。

 4日間の長い遠足はこれでおります。ヴィリニュウスに帰ってから私は本当に大変でした。私の宿が申し込みした場所に登録されていなかったのです。そしてその変更通知は私の出発後に日本に届いたのです。私は現地役員と渡り合い、大会本部の責任者と渡り合い途中でホテルを替え、返金交渉するなどそれは大変でした。現地で充分に疲れたのでこの事については書く気力がありません!
 後は大会内で行われた1日遠足とゲディミヌスの弟子などについて書きたいと思っています。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トラカイ城

2005-08-16 16:08:38 | エスペラント
 遠足4日目。

 今日は最後の日です。バスはトラカイに向けて出発しました。
 トラカイはヴィルニィウスから西に28キロほどの所にあり、トラカイ城は広い湖の中に浮かぶように建っています。14世紀にリトアニアの首都がヴィリニュウスに移ってからも王の居城として使われていましたが、17世紀モスクワとの戦いでひどく破壊されました。
 ゲディミヌスの話によると第二次世界大戦後、モスクワは友好国(?)に対してしていろいろな建造物を贈りましたが、リトアニアへの贈り物としてトラカイ城を修復したということでしたということです。

― 蛇足ですが、ワルシャワには文化宮殿という巨大な建物があります。1987年世界エスペラント大会はこの宮殿で開かれました。エレベーターを間違えたら全く違う場所に連れてゆかれます。ポーランド人は大きければ良いと言うものではない、この贈り物を断ることができなかったということは屈辱的だと話していました。逆を言えばソヴィエトは巨大な建物で自らの威信を示したかったという事になるのかもしれません。ゲディミヌスも一方ではリトアニアの文化を壊しておきながら、なぜソヴィエトがこの城を修復したのか理解できないという様子でした。

 城は4階建てで、城門を入ると広い中庭になります。石と赤煉瓦造りの建物の各階から中庭が見えるように4方にはバルコニーがあります。上に上がるには木製の梯子を使いますが、昔はこの梯子を取り外しできるようにしてあったようです。
城中の展示品多くはこの城守ってきたカライートという少数民族の人達の使った鎖帷子とか武器等など。
 カライート族は黒海沿岸に住んでいました。14世紀末、カライート達の忠誠心や勇敢さに感激した王が400家族を自分と城を守らせる目的で招き入れました。残存するカライートは70世帯ほどになりましたが、自分達の生活習慣、言語、宗教を守って現在でも暮らしているそうです。
 日本建築では窓は2枚とか4枚とか偶数が多いですが、カライートの居住区をバスで通過しながら眺めると、家々の窓はみな3枚で構成されています。彼らにとって窓は特別な意味を持つのだそうです。一つは王様(の魂)を招くため、二つ目は神様を招き入れる為、三つ目は祖先を招き入れるためのものだそうです。もう、王家は何百年も前に滅びたのにかれらは未だに忠誠を誓っているのだろうかと不思議な感覚に襲われました。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クライペダの夜

2005-08-15 09:49:56 | Weblog
 再びクライペダ泊
 ニダから帰ると町の様子は一変していました。翌日から始まる海の祭りのため広場には槌の音が響き、人々は舞台づくりの追われていました。田舎のお祭りの時、素人芝居や園芸のために神社の境内に作る舞台のようなものを作っているのです。

 ジャッキーが散歩に行こうというので、15分後にホールで待ち合わせることにしました。Hさんも一緒です。Hさんは63才でエスペラントを始めました。昨年、学習を始めて2ヵ月後に北京で開かれた世界エスペラント大会の参加したそうです。今年は友人に誘われてこの遠足に参加しました。ゲディミヌスがゆっくりと丁寧に話してくれるので彼の話は理解できる単語から想像はつくのですが、込みった話や仲間達が早く口で話すと理解できないと言っていました。彼女は未だ初心者といえるでしょう。
 初心者の悲しい所は相手の話を理解してもとっさに返事が出来ないことです。
私は彼女の同行者でもないしGVIDANTO(指導者)でもありません。ただの旅の仲間です。通訳にもなりたくありませんでした。まあ、少しだけお手伝いするだけで我慢して貰うことにしました。

 彼女は自分なりに対応しようとしていました。その態度はみんなに伝わり、『誰でも最初はKOMENNCANTO(初心者)よ。』と他の人達も彼女にゆっくりと話かけていました。下手にお節介を焼か無くて良かったと私は感じています。
初心者は彼女だけではありませんでした。二組のフランス人夫婦の夫達は理解できても喋れませんでしたし、メキシコ人女性の甥とその友人も喋れませんでした。フランス人の夫の一人は妻がいない時に英語で話かけてきました。私はエスペラントで答えなんとか意志の疎通ができました。妻はそのことをとても喜んでくれ、後に滞在ホテルのことで私がゴタゴタした時には色々と心配してくれました。

 私達は港に散歩に行きました。雨は止んでいました。30年間動かなかったという橋が動いています。河口にはたくさんのヨットが停泊しています。ロシア、ドイツの旗が翻っています。もちろんリトアニアの旗も北欧の国々の旗もあります。大勢の人々に混じって私たちも岸壁に行きました。多くの人が岸壁を離れてゆく客船を見送っていました。そこから100メートルぐらい離れた所にサーカス小屋のような巨大テントが張ってあります。

 『楽団が入っていったわ。あたし達も行ってみよう!』とジャッキーが言うので3人で潜り込みました。前面中央にステージ。その前が少し空間になっておりそこで何かの表彰式が行われていました。残りの空間はテーブルと椅子がぎっしりと置かれ、隅には売店もあり飲み物や食べ物も売っています。家族連れ、友人達、あるいは恋人達が楽しげに飲んだり食べたり・・・。
 私たちも通路のそばの空いた椅子に陣取りました。

 音楽が始まりました。にぎやかなこと。一組の少年少女が踊りだすとステージ前の空間に若者達が集りだして激しいダンスを始めました。とするうちに老いも若きも踊りだしました。本当にダンスが好きな民族ようです。

 私の前を行き過ぎる少年。綺麗なジージャンを着て両親に手を引かれている少年はなんとお金を強請ろうとした少年です。
『ジャッキー!』私が声を上げると彼も私に気付き、驚きの表情を浮かべ母親の背に顔を押し付けるようにして通って行きました。そこにはあの汚らわしい表情は見えませんでした。あの子は自分の行為についていつか考えることはあるのでしょうか。それとも正当化して生き続けるのでしょうか。それを知りたいと思いました。

 突然の土砂降りに帰れなくなり、ずいぶん長いことこのテントで過ごしました。小降りになった雨の中をホテルへ。もう10時過です。濡れた体でレストランを探すのも億劫なのでホテルで過すことにました。

 レストランにはのっぽのイギリス人がいました。彼とはクルシュ・テルランゴの砂地を歩きながら初めて話しをしました。私達は同席することにしました。
彼の助で私はニョッキとビールを注文しました。私が時々Hさんが分かるように日本語で解説したからでしょう、話は弾み、いつの間にかワニ語の話になっていました。ワニ語とはエスペラントに自国語を交えて話すチャンポンな話し方の事です。

 ワニ語はエスペラントではクロコディロです。わたしは彼等にクロコディロの由来を話しました。

 ある時日本語を知らないエスペランティストが、日本にやってきて日本人の世話になりました。帰国の前の晩、彼は最後に感謝の気持を日本語で言いたいと思い『日本語でダンコンはどう言うのですか?』と友人に訊ねました。友人は『ありがとう。』と教えました。忘れてしまいそうなので彼は《ありがとう》を《アリガトウロ》(アメリカのワニ)と覚えました。ところが空港で別れ際に『ありがとう!』言おうとした時、彼はすっかりありがとうを忘れていました。そうだ、ワニだ!と思った彼はとっさに見送りの友人に言いました。『クロコディロ! クロコディロ』(アジア、アフリカのワニ)。そこでエスペランティストに対して自国語で話すことをワニ語で話す(krokodili)と言うようになったということです。
 ちなみにエスペランティスト同士が、互いの民族語ではない他国語を使うことを(日本人とドイツ人が英語で話す、あるいは英単語を混ぜる)日本語に訳すと同じワニ語ですが、エスペラントではkajmani(カィマーニ)と言います。カイマーノは中南米等にいるワニの種類です。

 レストランの食事は町で食べるより高いのですが、ビ-ルを含めて1500円ほどでした。美味しかったです。
 

 
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

魔法使いの丘と世界遺産:クルシュ砂州 (Kurs^-terlango)

2005-08-13 13:45:39 | Weblog
ツアー三日目
朝から突然大粒の雨が落ちて来るかと思うと、日が照るという奇妙な天気でした。天気がよければ砂丘を4キロほど散歩する事になっていました。オランダからきたという女性はそれを楽しみにしていると初日に地図を見せてくれました。オランダの砂丘は海に面しているだけですが、ニダにあるクルシュ・テルランゴは砂丘が自然界の力で海の中に突き出ていったのだそうで、長さは100kmもあるそうです。テルランゴとは舌状の土地のことです。

100キロ離れたニダへ。
雨が降っているので先に魔法使いの丘に行きました。滑るので足の悪い人は待っていてくださいと言うゲディミヌスの言葉にもかかわらず、全員丘を上って行きました。
ここには昔一人の魔法使いが住んでいて、人々に魔法に掛けました。夜一人でこの森に入ると生きては出られないという伝説があるそうです。そのお話に基づく不思議な木製彫刻があちこちに立っています。森に住む妖精達の姿でしょう。
木製の10人が掛けられるほど長い椅子がありました。両端には3頭身のおじいさんとおばあさんが椅子を揺らす仕草で立っています。彼等の表情ちょっとひょうきんではあるけれど、子どもの頃読んだ絵本の《花咲かじいさん》とか、《おむすびころりん》など日本の昔話に顔を出すおじいさん、おばあさんの優しい笑顔と共通するものでした。

バスはクルシュラ・テルランゴには行かず、フェリーに2~3分乗って島へ。雨で砂丘を 歩くことが出来ないので島から砂丘を眺めるのです。
運転手は狭い道を苦労しながら砂丘が見える丘の頂上近くまで上りました。バスを降りて数100メートル砂地を上るとクルシュラ湾の向こう、すぐ近くにテレランゴと反対側に広がるバルト海が見えました。砂州は途中まで緑の木々に覆われていましたが、先端部分は殺風景な砂地でした。
誰かが言いました。砂州を守るために木を植えている人がいるのだと。

帰ろうとすると男性が乗りこんで来ました。彼はエスペランティストで、ヴィルニィウスのエスペラント大会に向かって、観光を兼ねながらバスでイタリアから旅をしてきた一行の代表でした。大会で会いましょうと挨拶して下りて行きました。

バスは無理に上ってきたので方向転換できません。バックで砂地を下って行きました。その後を帰路につく自家用車がゆっくりとついて来ます。道路に出た時はみんな思わず拍手で運転手を称えました。

ゲディミヌスの話しでは、ソ連軍がリトアニアから引上げる時、インペリットなどの化学兵器4種類をバルト海のこの付近にすべて放棄したのだそうです。現在イギリス等の援助を得て除去する計画があるということでした。

前日より顔を洗うと水が皮膚に染みてヒリヒリ痛くなっていた私は不安にかられました。



コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする