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生きること:過去と未来とエスペラントと

脚絆(きゃはん)

2023-01-25 12:34:14 | rememoro: 思い出
 10年に一度の寒さやってきているという。でも、この寒さをそれほどひどいと感じていない。子どもの頃は毎日積もった雪をかき分けながら数キロの道を学校へ通ったのでした。私の村はとても広かった。小学校が3校あったのです。中学校は村の中心にただ一つ。その住所も”野中”だった。山や丘に囲まれた村の中心部で戦後建てた役場が近くにあるだけでまさに野中の1軒やというところで人家はほとんどなく、数キロ徒歩で通う生徒がほとんどでした。

 雪の日は鉄道の駅に続く主な道路は人の足で雪は踏まれ、馬そりが通って滑るけれど馬そりをよける時以外は積もった雪に入ることは無かったが、中学校への道、他部落へ続く道は人が通らない。数100メートルの距離は雪を漕いで歩いたのでした。ときには雪が腰近くに達することもあった。長靴の中に雪が入ると靴の中で雪は解けて水となる。学校から帰る時はその濡れた冷たい靴を履かなければならない。だから、靴をぬらさない工夫が必要でした。

 ズボンの上に毛糸で編んだ脚絆を履くのです。脚絆と言うのは現代的表現ではレグウォーマー。そして、膝の部分を長靴の上に折り返します。雪の中を歩くと雪は長靴に入り込むのですが、長靴の上の部分が脚絆で覆われているので直接靴の中には入らず、ズボンとレグウォーマーの間にないります。ズボンやレグウォーマーは濡れても、教室のストーブの前に立てば乾きます。

 先々週の木曜日エスペラント博物館に行きました。足首が冷えました。レグウォーマーがあれば、この冷えは解消されます。そうだ昔は脚絆を編んだではないか!残り毛糸もあるし、編んでみようかな。ズボンの下に穿けばできの悪さを人に見られることもありません。
 テレビを見ながら編んでみました。夕べ編み上げました。2~3年ぶりの編み物でした。毛糸はまだある。手編みのセーターは暑すぎて敬遠していたけれど、また寒波が来るかもしれません。急ぐことは無いのです。テレビを見ながら一目一目と編めば良いだけです。」来年に向けて編み物で始めましょうか!


 不格好なレグウォーマー。

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ペルセ風オーロラスープ

2022-06-03 09:09:37 | rememoro: 思い出
 一寸形が悪いけれど大きなズッキーニを買いました。翌日、赤いパプリカ、茄子とベーコンの塊を買い、買い置きのトマトの粗切りを加えて2日分のラタトゥユを作りました。1日目は残っていた蒸し鶏を加え、2日目はゆで卵をのせて食しました。とても美味しかったです。
 
 ズッキーニで思い出したのは10年前の5月にカナダ・ケベックで行われたエスペラントの集いに参加したことのできごとでした。
 姉はガスペ半島はまさに地の果て。疲れた時に行くと癒されるとよく言っていました。地の果てという言葉に魅かれ私も行きたいとその度に言っていたのでした。エスペラントの友人ひとりを誘い3人で出かけました。

 このブログに書いたケチケチドキドキカナダ旅行はその時のできごとです。読み返してみて驚きました。日程は確か20日間だったと思います。費用は30万円。こんな豪華な旅行だったのかと今になって気づきました。ガスペだけでなく、ナイヤガラグレーンへの遠足、ナイアガラ川に沿った散歩、トロント島遠足など今思うと日本に住んでいる人間が1回の旅行で経験できないことなのでしょう。姉は実業之日本社の出版だったでしょうか、ブルーガイドのカナダ版の執筆者でした。B&Bのホテルでもどこも気持ちのいい上質なホテルでした。ガイドブックを書くほど旅行した姉だからできたサービスだったと今は思うのだけれど、私はありがとう楽しかったとひとこと言っただけだったと思います。

 ペルセはガスペ半島の端にある小さな漁村という感じの町でした。スーパーマーケットも一つあるきりでした。観光客受け入れは6月からだということで姉のいつも泊まる宿はまだ開業前、高台のオーロラ岬の貸別荘にとまったのでした。到着した日は街に出なかったので5泊ぐらいしたのでしょうか。買い物をした後、重い野菜を持って長い坂道を上ったのは私でした。友人は私より9歳も年下なのに腰が痛くなるのです。姉はもしかり。

 野菜は友人がすべて洗い、冷蔵庫に入れ、冷蔵庫のスイッチを入れました。温度調節雄しなければならないことを知らなかったのです。翌日冷蔵庫の野菜はすべて凍っていました。料理係りはたいてい私です。
 野菜をぶつ切りにし、水を入れガスで煮立たせてあとは暖炉の上に載せてゆっくりと夕方まで数時間煮ました。20日大根の赤い色が出でて美しいピンク色のスープができました。暖炉でゆっくり煮たのが良かったようで塩コショウでこれほど美味しいスープができるのだろうかと思うほど美味しかったのです。友人はペルセ風オーロラスープほど美味しいスープを食べたことがないと今でもいいます。



ペルセ風オーロラスープ材料
ズッキーニ(太さは私の手首より太く長さ45センチほど)1と3分の2本
 人参:500g弱(500g-きのうの夕食分)
 二十日大根:500g×三分の二くらい
 パプリカ大2個
 畿内から持ってきた塩とコショウ 

 煮立ったら弱火でじっくりズッキーニが柔らかくなるまで煮込み醤油少々で味をとのえる。

『ペルセ風オーロラスープ2』
 昨日の残りに生のトマト3個を加え、味を調え、2日目に食しました。

『ペルセ風オーロラスープ3』
 3日目、茹でじゃがいを加え熱々をいただく。暖炉のそばで頂くオーロラスープはことのほか美味しかったです。

以前の写真から少し引用

突然ガス(濃霧)が!


北極海からの風が冷たい。
1日目暖炉の火を消して出かけたら炊きつけるのに一苦労。
翌日から大きな薪に火をつけ空気口を塞いで燃えるのを防ぐことにしたのでした。


夕日に映えるペルセ岩。


オマール漁が解禁された。
どうしてもオマールが食べたいとレストランの看板を見ては訪れるものもどこもまだ開業していいなかった。
スーパーマーケットで尋ねたら、はじめての漁なので海老はすべてモントリオールに運ばれる、モントリオールなら食べれるかもしれないとのことでした。
残念。


ペルセについて
https://www.google.com/search?q=%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%BB+Le+Rocher-Perc%C3%A9+Regional+County+Municipality,+Quebec,+%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%80&sa=X&rlz=1C1CHBH_jaJP778JP779&biw=1447&bih=738&sxsrf=ALiCzsbA2MHtQV4-RDe9B1YKgB8zWDugyw:1654037295684&tbm=isch&source=iu&ictx=1&vet=1&fir=qro8Mu8vS-IzRM%252Cs2Sbqfx7aJi9LM%252C%252Fm%252F04fhyd&usg=AI4_-kTOIU20CYXzZIGJ3gaHoGkaAolfTA&ved=2ahUKEwi_i9GL6Yr4AhULS2wGHSyvAfgQ_B16BAhMEAE#imgrc=qro8Mu8vS-IzRM
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ハチミツ

2022-04-19 09:43:23 | rememoro: 思い出


 先日、町内会の役員さんがハチミツを届けてくれました。町内会設立50周年の記念品だそうです。

 秋田産アカシアハチミツとあります。秋田にアカシアの花ありません。そう言えば偽アカシアは沢山ありました。桜の花より小さく、花が散ると青い実が付きます。これをハンカチなどに包んで水に入れて揉むとシャボンのようにプクプクと泡立ちます。小学生の頃は石鹸が不足していました。私たちをこれをシャボンの実と称して泡立てて遊んだものでした。このハチミツはこの偽アカシアの蜜から取ったものでした。

 ハチミツの思い出はとても奇妙な思い出です。小学5年生でした。家の近所ではなく徒歩30分ほど離れた家のお通夜に母に連れられてゆきました。そこには2年生くらいの長女を頭に4人の娘いる家庭でした。父親が癌でなくなったのです。どんな経緯で私がその家庭に出入りすることになったのか、どんな風に幼い女の子たちと遊んだのか今は全く思い出せないのです。もう72年前のできごとです。多分子どもの世話と夫の看病で大変だった女性は私の母に嘆いたのだろうと思います。私はかなり長い期間、夏休みや休日にその家に通っていたようです。

 お通夜に小学生の私を連れてゆくことに母は気が進まなかったようです。ですが、先方がぜひとも私に来てほしいと所望したとかで母と一緒に暗い田んぼ道を歩いて参加しました。そこで見たのはとても不思議な光景でした。

 もしかしたら、恐山のイタコについての話を聞いたことがある方はいるかもしれません。私の住んでいた地方ではエジコと称して、通夜にエジコを呼んで死者の言葉を聞くのだということ初めて知りました。とても不思議な経験でした。エジコは死者にかわって死者の思いを語るのです。帰り道、母は遺された者が安心するための儀式だからと話してくれました。

 大人達には多分、酒がふるまわれたと思います。私に出されたのは湯飲み茶わんになみなみと入ったハチミツでした。砂糖など手に入りにくい時代でした。鳥海山の麓に住んでいる故人の弟が蜂を飼っていて持参したものということでした。高価なな物とわかっていてもあまりの甘さに飲み切れませんでした。母が残すのは失礼だからと残りを飲んでくれました。

 数カ月後、下の子は叔父さんの養女になったと聞きました。


 追記:今朝のニュースでプーチンは西側の経済制裁は失敗した。ロシアは資源国だから困らないようなことを言っていました。ロシアに住む友人はブログの中で紙の値上がりについて書いていました。3~4倍ほどに高騰したそうです。資源があるが、生産に必要な薬品は輸入していたそうです。足りないもをすべて中国が供給するのでしょうか。風が吹けば桶屋が儲かると言うけれど、ロシアが戦闘を拡大すれば中国が儲かるということでしょうか。
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ウクライナが大変!

2022-02-04 07:42:11 | rememoro: 思い出
 ウクライナ情勢の緊迫度が増している。慣れない手つきで銃を持つ訓練をしている男女の映像を国際ニュースがつたえていました。

 特に親しいわけではないけれど、エスペラント大会で私の声を聴くと’ヤパ-ノ‼(日本人‼)’と声をかけてくるウクライナの女性がいる。彼女の名はオレーナだったと思う。彼女に私は見えていないけれど声で私とわかるらしい。彼女は視覚障がい者。出会ったのは多分1996年のプラハ。当時8歳だったオレーナの娘が、母たちの誘導に飽きて逃げ回り、私にぶつかったのでした。’この子私の犬(盲導犬)なの。ごめんなさい’と彼女は笑った。もう一人若い女性が一緒だった。彼女の名もオレーナ。
 彼女は私が日本人とわかったらしい。’日本人でしょう?啄木の歌が好きなの。日本語ではどんな感じか知りたくて… 何か詠んでもらえませんか。’
 とっさのことでしたの詠んだのは
 ふるさとの 山に向かいていうことなし ふるさとの山はありがたきかな
 やわらかに 柳青める北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに

 実はこの2篇は学生の頃歌の歌詞として歌っていたものでした。

 ’折り紙覚えたいのです。教えてもらえませんか。’と若いオレーナ。会場や空港で時間がある時に子どもと遊ぶために折り紙はいつも持参していたのだけれど、会場に入る玄関ホールでは何もできないし、目に見えない人に教えたこともないので住所を聞きわかれました。

 帰国後、折り紙をどう教えるか考えました。昔、ある学童保育所で指導員が折り紙を順序立てて折り、アルバムに貼って子ども達の手本にしていたのを思い出しました。手で触れるようにしないといけないのであっまり小さいものでは理解しにくいでしょう。誰でも鶴は折りたいでしょうし。そんなこんなで折り順にお絵かき帳に張り付けたら3~4個でとても厚い冊子になりましたが、折り紙と一緒に送りました。そうです、乾くと盛り上がるという絵具あったので、それで番号も付けました。

 あとから、点字(私には読めない)とその訳文が書いたものとカセットが届きました。一人で折れたと喜んでいました。あまりに厚い封筒に驚きましたが、後から聞いた話ですが、点字だと郵送料は無料だそうです。

 数年後、若いオレーナは結婚し、男の子を出産したと聞きました。年上のオレーナの娘は犬役は嫌になったと10代で結婚して家を出たとオレーナは笑っていました。

 戦争がなければ障害があっても穏やかに暮らしてゆけるのに、緊迫した状況の下で、彼女たちはどんな暮らしをしているのでしょうか!

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トンガの思い出

2022-01-28 15:10:40 | rememoro: 思い出
 子ども頃、いろいろな地域の人の風習とか書かいた写真付きの本がありました。ホッテントット族とか、身長が1メートルほどの小人族とか、人の脳ミソが大好きなある国の原住民のはなしとか・・・。その中にパンの木になるパンのみを食べる人たちなどもいました。

 トンガには私が見たこともない木がいくつも生えていました。島を案内していただいた時、それら木の名前をゲストハウスの女主人に訊ねたら、トンガには木の名前なんてない、食べられる木と食べられない木があるだけと答えました。

 そうなんだと思いつつ、子どもの頃読んだ本に南国にはパンの実を付ける木があるとあったので、トンガにあるかと思ったけど無いんですねと言うと、パンの木はあると言う。家の近くにすらりとした高い木があり、てっぺんに緑色の葉と実がなっていました。生で食べるものではなく、蒸して食べるが、飢饉でもないと食べないと言いうことでした。

 でも木に、興味がないから名前を知らないだけだろうと思ったのでした。

 トンガには古来から織物がありませんでした。タブの木(名前がついている!)、直径数センチの細い木ですが、その木を剥ぎ、水に浸けて、台の上で気長に木づちで叩いて伸ばすのです。エジプト土産にもらったパピルスような感じですが、5~6センチ幅の木の皮を30センチ幅くらいまで伸ばすと薄い布状になります。昔はそれを身にまとっていたということでした。ふさふさの腰蓑はそれを裂いたものでした。かなり丈夫なものらしく、ニュージランドで泊めてくれたエスペランティストは壁紙として使っていました。今でもお土産として作っているでしょう。

 バナナの葉で敷物を作るのも見せてもらいっました。広い建物の中で、10人くらいの女性が一列に並んでバナナの葉を組んでゆくのですが、ひとり指揮をする人がいて作業が均一に進むように指図していました。

 男宿も宿の近くにありました。トンガは母権社会です。10歳以上になると、男性たちは家で寝ることを許されなくなるのだそうです。食事は実家でしても独身男性の寝場所は男宿なのだそうです。少年に中を見せてもらったのですが、廊下を中心に両側に仕切りのない板の間が続いていました。

 トンガの民族舞踊と食事に息子がつれて行ってくれました。バナナの葉の上に焼き上がった子豚が鎮座いていました。みんなそれを取り分けて食べていましたが、いくら美味しいと言われてもその可愛らしい顔と前日のできごとを思い出したものですから!
 前の日、2階のテレラスでくつろいでいたら物を叩く音と’キィ、キィ’と悲鳴のようなモノが聞こえました。下を覗くと近くにあった豚小屋から片手にこん棒、片手に子豚を持った男性が立ち上がったのでした。
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柔道がしたかったな!

2021-07-29 08:33:10 | rememoro: 思い出
 昨日ニュースで新井選手がメダルを取ったと報じていました。

 女性の柔道はいつごろから、どの土地で始まったのでしょう。

 中学校入学式の翌日だったと思うけれで、クラブ活動参加のクラブを決めなくてはならなかった。農村地帯で女子のほとんどが家庭部に、男子のほとんどが農業部に参加する。文化的なクラブと言えば文芸部と演劇部だけだったように思う。体育系でも女子の参加できるクラブに何があったか思い出せません。男子用クラブで思い出せるのは野球部と柔道部です。

 小学校6年間、他所から引越してきたよそ者としていろいろないじめにあっていました。父が教師をしていたので、目には目を、歯には歯を敵反撃はしてはいけないというのが我が家な鉄則でした。逃げるが勝ち!意地悪に反撃することは自分を貶めることと教えられていました。それは今でも身についていて、意地悪なことを言う人や人を差別することを言う人を見ると、できるだけ避けるというのが習性になっています。

 村には小学校が3校あり、中学校は1校。新入生の3分の2近い生徒は初めて出会うことになる。入学式後のホームルームの司会者を教師に指名されたのでした。ホームルーム終了後、他校から来たクラスメートが太い薪を持って現れ、お前は生意気だと殴りかかってきた。かろうじて逃げたけれど腰のあたりを数回殴られたのでした。本当に悔しかった。

 家には兄が4人もいる、からかわれたり、遊ばれたりするととびかかる。それに、2番目の兄は痛くないように投げ飛ばしながら私や弟と遊んでくれました。そんなわけで私は結構敏捷で鍛えられている。本気で反撃したらたとえ薪を持っているとしてもあんな男の子のひとり投げ飛ばす自信はあった。本当に悔しかった。家に帰って母に聞いた、柔道を女の子がやってもいいのかと。母は師範学校で柔道の型は習ったが、実技はしたことがないといいながら自分が習った型を見せてくれたました。

 クラブ見学の日、私は柔道部に行きました。顧問の先生は2段の有段者。型は教えられるけれど、男子と組ませるわけにはゆかないと。柔道をやることで私をいじめっ子に負けない体力を私が持っていることを示したかったのですが敢え無くとん挫したのでした。69年前の4月の話です。
 もし、あたしが柔道を習うことができたら、私の人生は変わっていたかも!
 
とにもかくにも、新井選手、金メダルおめでとございます。

 
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眠られず!

2021-06-28 00:43:55 | rememoro: 思い出
 昼寝をしたわけでもないのに眠られず、起きてしまった。12時を回ったのでもう一昨日になるのだろうが、土曜日も畑に行き、ほったジャガイモを頂いた。
 ジャガイモにはいろいろと思い出でがある。そう、私の記憶にないジャガイモの話も。

 私たち、秋田の神宮寺という町に引っ越したのは昭和19年(1944年)でした。弟は前年の2月に生まれました。当時、男手を失った農家には耕作できなくなった農地がありました。食糧難だったので、引っ越して間もなく我が家も畑を借りて作物を植えたのでした。昼食は大根葉の雑炊にお米が浮いているなどと言うことも良くありました。油も手に入なかった。母はイワシなど油のある魚をフライパンで焼き、その油は他の器に取り、大切に使っていました。赤子に食べさせる消化の良いものなど手に入らないので離乳ができない。母はジャガイモを植え、秋に収穫し、ジャガイモで離乳食作ったと話していました。離乳を始めたのは弟が1年8カ月だったそうです。母は母乳だけでは弟が栄養失調になるのではと不安だったそうです。

 畑の私の思い出は、弟を遊ばせたこと。暗くなるまで母や小学生の兄たちが農作業をしていたこと。半日外にいた私は疲れ切って、暗い夜道は歩けない。兄に背負われて帰ったこと。子どもは眠ると重くなるのです。兄の背で眠ると、置いてゆくぞと大声で怒鳴られた恐怖の記憶。すぐ上の姉は病弱だったので家に残っていたのでしょう。彼女は私の苦しい思い出の中には出てきません。

 ジャガイモの思い出を書いたらいくつもお話ができるような気がする。戦争とか難民とかのニュースを見ると突然子どもの頃のことを思い出すのは私だけでしょうか!
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姉とピーマン

2021-06-24 12:51:13 | rememoro: 思い出
 先日、ユーチューブでピーマンの調理方法を見つけました。
 カナダに住んでいた姉は日本に帰省するともう両親もいなし、兄や姉の住んでいるところは不便なので滞在期間1カ月くらいの間わが家を拠点としてあちこちで歩いていました。

 出かけるときは駅への送迎。洗濯まで私にさせることがまるで当たり前でした。まあ海外旅行の際は宿の交渉その他、旅先の資料集めなど
英語のできない私に代りしておりましたので、まあ、お互いさまということもありましたが!

 彼女は私のピーマン調理を見ると種など捨てるとはもったいないといつも嘆いていました。姉の夫はハンガリー人ですからパプリカ大好き人間です。遊びに行くとナイフで削るようにして生で食べることが多かったです。そうすると残るのはヘタだけでした。

 チェコででも友人がパプリカを毎日に半個、食べると良いと言い、少し辛味のあるパプリカを毎朝半個食べさせられましたが!

 上記のユーチューブをみて姉がなぜもったいないもったいないといったのか理由がわかりました。種にも希少な栄養素が入っていたのです。

 昨日調理しました。ただ私は色どりが良い方が好きなので、ピーマン8個に柔らかなニンジンを1本千切りにして加えました。ニンジンが甘いので甘味は使いませんでした。種が少々口に残ることがありましたが、結構美味しく食べることができました。

 子どもの頃はピーマンなど栽培していなかったです。それでも食べるようになって、はや50年!どれほどの栄養素を無駄にしてきたのでしょうか。

 
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細いサツマイモ

2021-06-19 20:45:45 | rememoro: 思い出
 醤油麹が無くなった。乾燥麹はスーパーで売っているけれど生麹が美味しい。とっても出来立てではない。今回も秋田の道の駅に頼んで冷凍したものを買うことにした。送料とクール代がかかる。いつも友人に一緒に買ってもらう。昨日麹を受け取りに来た友人が、地方の友人から頂いたという沢山のパプリカ・茄子・サツマイモを持ってきてくれました。

 今回のサツマイモはとっても細くてと彼女。泥付きなのでとても新鮮でした。太いところで直径2センチほど。

 戦争中のことを思い出しました。秋田の神宮寺というところに住んでいました。住所は変わったと思うけれど鉄道の駅名は今もあると思う。

 隣のおばさんは農家出身でした。私たちは食料に苦労していました。隣の家には娘が多分3人で、その下が私と同い年の男の子がおり、アボチャンと呼ばれていました。おばさんはGちゃんアボチャンと遊んでねとおやつをくれました。きれいに洗った生のサツマイモでした。私たちはそれをポリポリと食べたのでした。
 飽食の時代と言われる現代、生のサツマイモを喜んで食べる子供の心は信じられないことでしょう。当時は燃料もなく茹でるなどと言いう贅沢はできなかったのです。母はこのおばさんに誘われて薪ひろいにも出かけていました。その時、弟とアボチャンの子守は私の役目だったのです。

 

 今は生で食べる勇気はありません。蒸しました。
まったく繊維もなく、美味しかったです。
 でも子どもの私が、そのサツマイモをどんなに楽しんで食べた事か!
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我が姉

2021-04-14 20:19:39 | rememoro: 思い出
 昨年4月12日長姉が亡くなりました。92歳でした。9年前に姉のことを書いたブログ読んでくださった方いて私も自分のブログを読みました。

https://blog.goo.ne.jp/glimi/e/54705dc91306d5140961ae8512123337#comment-list



 あと2年で私は当時の姉の年齢になります。私は後2年どう生きるのでしょうか。

 姉が亡くなった翌日、東京都はコロナに対する非常事態宣言を出しました。私は車で姉が安置されている葬儀社に行き、姉に別れを告げました。本人はまだ逝く気はなかったのですが、私は姉に良かった。自分で自分のことができるうちに逝けて幸せだと思うよといったら、葬儀社の方にどんなご関係ですかと聞かれました。

 甥は母親の思い出をまとめたいとアルバムを作り、供養したいと言っていました。アルバムまだ届きませんが・・・。

 姉のブログを気付かせてくださった方に感謝します。本当にありがとうございます。
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白菜の外葉

2021-01-09 22:03:39 | rememoro: 思い出
 昨日、農協の朝市で大きな白菜を買った。少々泥の付いた外葉を取った。緑色だがみずみずしくて新鮮でした。普段店頭に並んでいる外葉は水分がなくて硬い。子どもの頃のことを思い出して捨てるのやめました。

 小学5年生ぐらい(1950年頃)でした。私の住む村には結構朝鮮人がやってきて住み着きました。山奥の村で、水力発電所が次々に建設されていたのです。彼等は数家族でまとまって家を建てるのでした。家といっても小屋のようなモノで、建てるところを見に行ったら、部屋は一つと土間。土間には粘土を固めた調理用のかまどを作り、かまどから部屋の下を通るように地面に石を並べる。つまりオンドルです。こんな小屋を背中合わせに二つ同時に作るのだけれど慣れたもので、1日で仕上げるのです。部屋は6畳間ほどの板敷き。そこで家族4~5人が暮らすのです。
 田舎でも勤め人は食量が手に入らず、苦しい生活をしていました。朝鮮人家族は団結が強く、助け合って暮らしていましたが、食料を手に入れるのは本当に大変なようでした。

 我が家は長兄が農業を始めて2~3年経っていました。主食のお米には不自由していましたが、野菜は自給自足できるほどの収穫がありました。
 学校の帰り道、私は朝鮮人家族の子どもたちと友だちになりました。その一つの朝鮮人家族の中に弟の同級生がいました。いつか私は私より1年下のその子の姉と話すようになっていました。ある時その子たちの母親が、私に母を引き合わせてほしいと言ってきました。噂では彼女は夫に捨てられ、日本に逃げた夫を捜して日本に渡ってきたということでした。夫を捜しあてて数年暮らし、子どもが生まれる、夫が逃げる、また捜して同居、そうして、3人の子持ちになったということでした。良家の娘さんで学歴もある教養人ということでした、凛とした厳しさがあって近寄りがたい女性でした。

 家の裏で母に引き合わせると彼女は母に言いました。
 ’キムチを漬けたいけれど白菜が買えません。白菜を収穫したとに畑に残る外葉を頂けませんか’と。
 ’白菜は食べきれないほどあるから、差し上げます。’と母が言いましたが、彼女は外葉でいいと固辞しました。多分、不要なものは貰えても、産物として形あるものを人に強請るのは彼女のプライドが許さなかったのだと思います。

 母はミレーの絵が好きでした。特に’落穂拾い’が。落穂とは落ちている穂ではなく、土地の所有者が土地を持たない人のために畑に残して置く穂のことだと。私たちもあの絵の真似をしてみようと。

 翌日だった出ようか、日曜日に母の手助けとして私は白菜の収穫をしました。母は白菜の真ん中だけを包丁で切り取るように言いました。そうして、沢山の葉を残しました。
 夕方、私は白菜の収穫が終わったことを彼女の家に行き告げました。いつ彼女が残った葉を取りに来たのか知りませんが、翌朝、残した葉すっかりなくなっていました。

 冬のある日、そこの娘が学校の帰り私を待っていました。キムチができたけれど我が家に持ってくるほどの量がない。でも、せめて一口私に食べてほしいと母が言っていると彼女が言いました。

 私の母は私が朝鮮人家族のところに出入りするのはあまり好んではいませんでした。迷った挙句お呼ばれに行くことを許可してくれました。部屋は窓が一つ家具などなく布団が積んであるだけでした。いただいたキムチは本当に美味しかったです。




洗った外葉を今日干しました。計量したら650gありました。
即席キムチにでもしましょうか!
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鉈(なた)漬け

2020-12-20 13:35:52 | rememoro: 思い出
 最近、ユーチューブで料理をよく見ます。なた漬けというのがあったので見ました。なんとゆずを使った甘酢漬けでした。

 母も冬になるとなた漬けなるものを漬けました。母のなた漬けは麹漬けなのです。子どもの頃は大根の漬物はあまり好きではなかったので漬け方を覚えもしませんが、たぶん塩と麹で漬けこんだ保存食だったのでしょう。

 なた漬けの名は大根を鉈で切ったように乱切りにして漬けたのが由来であると初めて知りました。

 ゆずの使い道に困っているし、甘酢は嫌いですが遊びのつもりで少しだけ水曜日に漬けました。でも、ゆずはそんなに使えませんでした。

 水曜日に購入した農家の大根は60センチほどありました。先週買ったものは短かったけれどすごく太かったのです。そんなに大根ばかり食べていられません。どう食べきるか?

 昔、沢庵をつけたことがあります。うまくできたけれど食べきれず酸っぱくなりました。家で精米するのでぬかはあります。もし、少量の大根を沢庵風にぬかずけしたらどうなるのでしょう。思いついたら即実行。

 20センチばかりの大根ですが、太すぎるの四つ割にして、少し水分を抜こうと日なたに置きました。夜風に曝してもいいかなと笊においったままでした。今朝見たら夕べは寒かったようで!大根が半透明になっていました。凍ったようです。

 さて凍み大根というには半端な凍り方です。これにどう対処すべきでしょうか。糠をまぶして実験するか!それとも凍み大根と同じように煮ものにするか。ただいま思案中。

 コロナで外出は控えていますが、生活の中で飽きることもなく遊んでいます。いつまで生活の中で遊びを見つけ続けられるか?これもコロナと戦う一つの方法だと思っています。
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注射

2020-10-05 13:41:14 | rememoro: 思い出
 笑ってしまった!
 夫は土曜日に市で行っている無料検診を受けようと近所の医院に行きました。お医者さんに奥さんに言っておいてください、今年は予防注射するように!と言われたそうな。お互いに夫婦のことを医師に話したことがない。どうしてだろうと夫。

 まあ住所が同じからでしょうが・・・。
 医院に行くようになったのは70歳過ぎてから。インフルエンザの予防注射を勧められるようになった。’もし80歳になって生きていたら、接種します。’と答えたような気がする。いつも混んでいる医院です。まさかそんな私の言葉覚えていたのだろうか!

 極度の注射嫌いです。トラウマというべきかも!
 多分アトピーだったと思うのだけれど、いつも体中が痒かった。戦後、昭和21年(1946年)頃、食糧難でした。栄養不足もあったかもしれません。巷では肺結核が蔓延していました。上の姉の仕事は発電所の事務員兼看護婦。独身寮の賄い婦を除けばたった一人の女性職員でした。町の病院に行き薬を持ち帰り、医師の指示に従い病気の職員に注射するのが彼女の主な仕事でした。

 姉は私の痒みを止めるためにも薬を入手し、ほとんど毎週私に注射しました。小さくて痩せている私の腕にはそれほど注射する場所がなかったのかもしれません、お尻にずぶりと針を刺すようになりました。薬は痒み止めのレスタミン、皮膚に良いと言われるビタミンB6,ビタミンB12などでした。

 小学5年生頃の記憶です。姉は注射し終わると赤チンで注射跡を消毒して言いました。
 ’ハーイ、みんな見て!G子のお尻にへのねのもへじ書いたよ。’すると兄たちがえっ!って覗きます。そんなこんなで注射と言われると逃げ回りましたが、兄弟は多いし、家は狭いし、私はすぐに御用となったのでした。

 昨年だったでしょうか、注射嫌いは姉せいだと私は言いました。へのへのもへじを書かれるのが嫌だったとも。姉はお尻にへのへのもへじを書いたことは無いと言いました。きっと姉特有のブラックジョークだったのです。

 当時は注射が嫌で注射されることが不満でした。この頃思うのです。物のない時代、注射液を手に入れることは大変だったでしょうし、子沢山のわが家に経済的余裕はなかったでしょうから、きっと姉は自分の給料から支払っていたのだろうと!
 
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アンという名の少女【追記あり】

2020-09-19 15:41:40 | rememoro: 思い出
 13日に放送された’アンという名の少女’を見ました。映し出される景色に昔の旅行が思い出されました。


 1997年初め、カナダにいる姉がプリンスエドワード島に行こうと言ってきました。当時姉はガイド本のブルーガイド改訂販のための原稿を依頼され、カナダのあちこちを旅行していました。ブルーガイドの3分の2ほどは姉が書いたもので、改訂版は1998年あるいは’99年に発売されました。

 カナダでは有名なガイドだそうですが、独自のツアーを組む方がいて、ちょうど6月にプリンスエドワード島に行くということでした。一回の旅程は1カ月ほど、席があるなら、2日でも3日でも、あるは全行程でも受け入れてくれるそうで、すぐにいっぱいになるそうです。次兄の7回忌が終わったところでしたので次兄の妻も誘いました。義姉の友人が同行したいというので同行者は4人でいた。このバスツアーに私たちは5日間参加しました。
 私たちの全行程は6月6日成田出発。
トロント1泊。
ハリハックス1泊。ツアーに途中参加。
ディグビ―1泊
ニューブラウンズウィック州セント・ジョン市2泊
シャーロットタウン市、グリーンゲーペルズを経て、ツアーを終えて、ハリハックス経由でナイアガラ・オン・ザ・レーク、ナイアガラフォールズ(姉の家4泊)。トロント散歩。
6月19日成田着。2週間の旅でした。


アンは友だち(アンミュージアムかな?)



 アンと出会ったのは中学2年だったろうか3年だったろうか。高校生の姉が借りてきました。
 もう中学校の図書室の本は幾度も読み返して新しい刺激が欲しかったです。
 姉が借りてくる本が待ち遠しくて!読み終わるのをじっと待つ。読みだしたら朝までかかっても読み終える。
アンもそうですが、姉は、落ち着いて本が読めないと借りてきた本はまず私に渡しました。
 当時読んだ本で記憶にあるのはヘルマンヘッセ全集の中の’車輪の下’。
アンドレ・ジッドの’一粒の麦もし死なずば’。
シュトルムの’みずうみ’など。

グリーンゲイペルズ


出発前にグリーンゲイペルズ放火され中に入れませんでした。
モンゴメリーが住んでいた家で昼食を食べました。

同行者3人


グリーンゲイペルズ横の林

グリーンゲイペルズからモンゴメリーが暮らした家へ


物語の輝く湖水を連想させる道


 久しぶりに写真を探し出しました。楽しかった思い出がふつふつと。主婦には普通お休みがありません。でも、主婦休暇は必要と思います。海外に行けば家族に頼られることもない。主婦休暇費用を生み出すために節約し無駄な経費は避ける。これで結構使えるお金が生み出せました。

 
 追記
 突然、目の前にかけてある小さな壁掛けが目につきました。ナイアガラ・オン・ザ・レークに1泊した朝は休日でした。確か、ポーランド人がポーランド独立を祝って賑やかに楽器を鳴らしてメーンストリートを行進していました。姉の夫はハンガリー人でしたがホルン奏者。助っ人で楽団に参加していました。彼を待ちながらオンタリオ湖で休憩しました。湖畔近くの家で、庭の芝生に自分の品物を広げて子どもたちがガレージセールをしていました。思わず買ってしまいました。



可愛いでしょう!50セントでした。いつも眺めています。
裏面に1997年6月15日(日)とあります。
コメント (2)
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2020-09-09 20:57:09 | rememoro: 思い出
8月5日に書きかけてやめた記事です。


一本の道、精霊と祈願の楽園と言うNHKの番組を見ました。

 見てから書き始めたのですがなかなか書き進めません。私もチェコに行ったのですが、当時の写真も見つからないし、ずうと下書きのままです。

 さて番組は‵一本の道「精霊と奇岩の“楽園”を歩く~チェコ チェスキー・ラーイ~´ という題名でチェコのモラビア地方イーチンから歩く旅番組でした。チェコの精霊とはどんなものかと魅かれて読みましたが、初めに水の精がでてきただけでした。ちょっと肩透かしを食わされた感じです。

 私は1996年プラハで行われた世界エスペラント大会に参加しました。その時できるならボヘミアの森を歩いたいというとヤブロネツ・ナド・ニソウにいる友人マリエが1週間なら案内してあげると言ってくれたので大会後、彼女の家に滞在させてもらいました。森を案内してくれたのは元リュージュ選手だったマクス。

  その道に妖精はいませんでしたが、チェコ的鼠小僧が住んでいた岩場があったりとチェコの歴史を垣間見るたびとなりました。

 その地、リベレツ地方は経済的にはドイツ人に差配された時期が長かったようです。また、準宝石と言われる鉱石の産地で発掘や研磨の際の埃で結核にかかる人が多かったそうです。治療のための散策コースが整備されました。半日歩くくらいのところに宿泊もできる休憩場所が整備されていて、じっくりと散策を堪能して歩くとコースすべてを回るとひと月ぐらいはかかるということでした。
 同行者は、マリエのほかにイジナ・ドイツ人兄妹のライネとアネリエ。歩いたのは4日間でした。一日目はヤブロネツ・ナド・ニソウからバスでマリエと二人で森へ。6日目はライネ・アネリエ兄妹と4人で汽車に乗って木造でできたお城へ。

 1日目はマリエの案内でバスで田舎に行き森を散策しました。バスはブルーベリーを摘みに行く人々でいっぱいでした。みんな家族連れでした。ほとんどが大きなかごを提げていました。森近くの田舎に住んでいる人々は共産主義時代には貧しく特に冬には寒さと飢えに苦しんでいたそうです。民主革命後、プラハの金持ちがその家々を別荘として買い取り、彼等の多くは都会に出て行ったのだそうです。
 二人で、数時間湖まで散策し、湖岸で持参のサンドイッチをたべました。帰りは籠や2リットル入りの牛乳パックに入れたブルーベリーを沢山持った人たちで満員のバスに乗りました。男性の中には酔いが回った人たちもいて、バスの中は騒々しさで満ちていました。

 歩くということはおしゃべりにもってこいです。おしゃべりするということは他の人の人生について聞いたり、つい立ち入ったことも聞くことになったりします。

 マクスはすらりと背の高い男性です。父親はドイツ人だったそうです。第2次世界大戦が終わった時、ドイツ人はドイツに送還されることになったそうです。ただ、母親がチェコ人の場合、15歳まで送還は免れたそうです。当時マクスは14歳でしたが、体が大いのでどう見ても14歳には見えず収容所に入れられたそうです。マクスの母親は毎日収容所にやってきて2週間ほど’息子は14歳だ’と叫び続け、彼はようやく解放されたそうです。父親がいないので弟妹4人のために母親を助けて働いたそうですが、あの時ドイツに連れていかれたらと思うと、収容所前で叫び続けてくれた母親に感謝しかないと。リベレッツでソーセージを買って夕方マクスの建てた川沿いのヴィラに行き、たき火をしてソーセージを焼いて食べながらそんな話もしました。彼はレンガ積み工だったそうで、そのヴィラを一人で建てたということでした。彼には子どもがいないが弟家族が週末にやってきて楽しんでいるということでした。本人は団地に住んでいて、同行しイジナはこの散策の間、マクスの家に滞在しているということでした。

 イジナは大会中もパプリカとかキュウリとか沢山持参して私たちに食べさせました。パプリカは健康に良いから少なくとも一日半個は食べなさいとマリエに毎朝食べさせられました。イジナの夫は森林保安官。チェコでは森が大切なので森林保管官は尊敬される職業だそうです。野菜作りが好きで、800㎡ほどの庭があるという広さの説明が楽しかったです。幅が1㍍とすると長さが800㍍の庭だそうで、これでなるほどと理解しあえるエスペラントは面白い。
 イジナは趣味で建築を学んでいるそうで、プラハでは市内の案内役をしてくれて、カフカの家なども連れて行ってくれました。建築様式の説明は私にはチンプンカンプンでした。
 一人娘が父親と同じ森林保安官になったととても喜んでいました。


数年後、娘さんが同僚の森林保安官と結婚したとイジナが送ってくれた写真。


同行者ライネとアネリエ兄妹


 二人は両親と共にこの地に移住してきたドイツ人で、戦後どつに送還されたのだそうです。美しい緑の草原を横切る時、私がその美しさに驚いていたら、ライネはここは石ころだらけで畑にできないのだと話してくれました。だから、大木の管理は大変なようでした。ライネは´僕のように心を病んだ人間にはこんな自然を歩くのが一番良いと。’と言っていました。この二人は一緒にエスペラント大会の前遠足や大会後遠足に参加していて、幾度となく再会しました。ライネはチェコの歌を聞いてほしいとテープをくれました。
 2,011年、コペンハーゲン大会の遠足アネリエではない女性と一緒だったので彼女の消息を尋ねると2カ月前病気で手術したので、チェコの従妹と一緒に参加したと話していましたが、数年後、リールでアネリエとあったので従妹もエスペランチィストなのと訊いたら、彼女豪快に笑いだして、’なんでそんな嘘をつくの、彼女はガールフレンドよ!’と言っていました。その時アネリエは体をさせる2輪車で歩いていました。がんの手術をしたのだそうです。古い城めぐりでした。城の中を巡る時、その補助具を折りたたみ、松葉杖のような使い方をしていました。石の階段は滑るので肩を貸すと、大柄な彼女に私の肩の高さがぴったりと合っていました。

 体が不自由でも、眼が見えなくても遠足に参加する人は結構多いのです。以前、知的障害のあるやんちゃな弟が目の見えない姉と参加していました。他の参加者たちは弟が羽目を外すと声をかけながらも楽しんでいました。日本では奇異な目で見られるかも。

 大きな川のほとりを休んだ時マリエが言いました。’学校の遠足でここに来た時に、娘はここで衣服を脱ぎ棄て川に飛び込んだの。こんな社会はもうイヤ!みなさん、さようなら!と言って。17歳だった!’
 そこはイジナに言わせると世界最初の水力発電所が見える場所でした。残されたのは衣服だけだったそうです。

 私が泊まったマリエの部屋のここかしこに少女の写真が飾ってありました。良くできた娘のようで、彼女がエスペラントの集まりに参加するときはいつも弟たちの世話を買って出て励ましてくれたそうです。

 たった1週間の思い出でも書き出すと止まりません。この辺でやめることにします。


私が訪問した時マリエの長男は婚約中でした。
マリエからもらった最後の写真、孫と犬達です。


 これが準宝石と言われる石でしょうか。
マリエからもらった記念品です。身に着けて出かけるところはありませんが、大切にしています。
 
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