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glimi

生きること:過去と未来とエスペラントと

若いエスペランティストへ: 小坂狷ニ夫妻について

2005-03-30 11:34:58 | Weblog
 エスペラントの基礎を学んだ後、私は、就職、結婚、子育てと続き、エスペラントグルーに参加できない状態でした。そんな私の学習を支えてくれたのは小坂狷ニ著≪エスペラント捷径≫でした。日本語の文法書を捜すと、ほとんど彼の研究が元になっています。原書を取り寄せるにしても、船で数ヶ月かかった時代に、よくぞこれだけの事を成し遂げたと驚きます。
 ENCIKLOPEDIO DE ESPERANTO(エスペラント百科事典)には、小坂氏は私的な時間を全てエスペラントに使い、日本エスペラント界の歴史は、彼の個人的歴史と同じ様なものであると書いてあります。そのうちどなたか彼の伝記を書く人が現れるかもしれません。私は個人的に聞いた小坂夫妻関するエピソードを若い方に伝えておきたいのです。 

 1991年、ノルウェーのベルゲンで行われた世界エスペラント大会に、私は初めて個人で参加しました。その時、自分の仕事に関することも勉強したく、ノルウェーとスウェーデンのエスペランティストにいろいろとお世話になりました。ノルウェーの首都はオスロですが、オスロが首都になる前、首都の働きをしていたのはコンベスブルグと言う町で木材の輸出で栄えた町です。その地の老エスペランティスとオラフ氏には随分とお世話になりました。
 
 私が旅立つ日、彼は日本にもって帰って貰いたいものがあるといって、茶色に変質した雑誌を差し出しました。なんとそれは第二2次世界大戦前の日本エスペラント学会の機関紙≪LA REVUO ORIENTA≫ でした。彼はあるページを開きそれを読んでご覧といいました。そこには、一篇の詩とオラフ氏の名前がありました。この詩を書いた頃、かれは20代で、エスペラントを始めたばかりでした。詩を書いてはあちこちの国の雑誌に投稿しました。
 『これは小坂氏が送ってくれたのです。私の詩は文法的に間違っていました。それを小坂氏は添削して雑誌に載せたのです。そして、許可を無しに詩句を変えたことに対する詫び状が添えられてありました。私は、それまでそうのような手紙をもらったことはありませんでした。一国の指導者が外国の新米エスペランティストにこれほど礼儀正しいとは、私はとても感激しました。残念ながら、手紙は無くしてしまったけれど、せめて雑誌は日本に持ち帰って欲しい』
 私は、ただ単にエスペランティスト同士だから受け入れられたのではなく。先人たちの交流の成果を受け取っていると感じたのです。その時から、私は知り合った海外のエスペランティストには、誠実につき合うよう心がけています。私の態度が、後の世代の交流に悪影響を及ぼさいようにと願うからです。


 伊東三郎氏の話(I.U)

 伊東三郎氏は岩波新書『エスペラントの父ザメンホフ』の著者です。彼は、中学生の時にエスペラントを始めました。始めるとすぐに詩作に没頭しました。
 『文法的にはひどいものでしたよ。小坂さんの指導はまさに的確でしたね。ここは素晴らしいと誉めながら、直してくれました。それも、子ども扱いしないで、大人同士のような対等な態度でしたですよ。嬉しかったです。詩がうまく創れるようになったのは、小坂さんのお蔭ですよ。』
 『文法的間違いなら宮沢賢治もしているんですよ。間違っても書き続ける事が大切なんです。宮沢賢治の文法が間違っていたからと言って、賢治の詩の才能を誰も否定できないでしょう。文法が多少間違っていても続けさせるのが指導者の大切な役目ですよ。小坂さんその指導がとても上手でした。』
 そして、賢治がエスペラント学習初期に作ったという『トマト』という可愛い詩を伊東氏は朗読してくれました。
 伊東氏は戦後、ザメンホフのホマラニスモ(人類人主義)に傾倒していましたが、戦前、戦中はコミュニストとして弾圧されました。コミュニストを毛嫌いするエスペランティストが大勢いる中で小坂氏の公正な態度は変わらなかったとそうで、小坂氏をとても尊敬していました。


 湘南の足立長太郎氏の話

 小坂氏は横須賀生まれれです。戦後まもなく湘南のザメンホフ祭が横須賀で開かれたことがあったそうです。その時、JEI(日本エスペラント学会)の会合の後、足立氏は電車の中で小坂氏に会い参加しませんかと誘ったそうです。その時、小坂氏の答えは『私は平和主義者です。軍都は嫌いです。ですから横須賀へは行きません。』でした。小坂さんは本当に頑固な人でしたということでした。

 小坂夫人について
 小坂夫人は横浜の出身だそうです。当時の名門、平沼女子校を卒業しました。足立氏の奥さんの従姉は小坂夫人と同級生でした。同窓会が終わると仲良し数人が喫茶店などによっておしゃべりするのが常だったそうです。平沼の卒業生の多くは財界、政界で活躍する人物の夫人が多く、その従姉の夫もある銀行のニューヨーク支店長などを務めた人でした。また、当時、日本で外国為替を扱えるのは横浜正金銀行だけでしたが、そこの頭取夫人になった人などがそのメンバーにいたそうです。
 小坂夫人はうちの主人は皆さんのご主人のように偉くは無いと愚痴めいた話をし、いつの間にかしっかりと夫の自慢と、エスペラントの宣伝をしていたと言うことでした。
 彼女は、雑誌が発行されると、発送の仕事をほとんど引き受けていたそうです。噂では発送準備ができた雑誌を風呂敷に包み、背負って郵便局に運んでいたと言うのです。私には、小坂夫人が夫に心酔しきっていたように思えます。彼女の人柄をもっと知りたいですね。
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エスペラントの詩

2005-03-29 10:00:51 | Weblog
 私が昨日便りを書いたYuuさんが、試みにエスペラントに訳したという詩が、今朝、コメント欄に入っていました。じっくり考えて読んでいたら、私のブログ時間が無くなっていました。
今日は私の好きなI.U(伊東三郎)の若き日の詩を紹介することにしました。

キーアル ティーエル マルクラーヂャ
KIAL TIEL MALKURAG^A

キーアル ティーエル マルクラーヂャ
Kial tiel malkurag^a,

ミア コーロ、 コムパティンダ
Mia koro, kompatinda ?

チーウ モーク ミン マルサーヂャ
C^iu moku min malsag^a,

ミ  ネ  ティーム ; マールシュ ブリンデ
Mi ne timu ; mars^u blinde.

≪意味≫
 なぜ、そんなに臆病なの

 可哀想に私の心、
 なぜそんなに臆病なの?
 みんな私を愚かと笑え、
 私よ恐れるな ; 出口は見えぬが進みなさい





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歌人Yuuさんへのたより

2005-03-28 06:48:41 | Weblog
 わたしのブログにこんな便りを頂きました。
 『当方のブログへ来ていただきありがとうございました。今は風邪も治りました。
3.26のブログに、現代女性歌人の歌を二首載せました。UTAOにしなくても結構ですから訳して見てくださいませんか?』

 訪問すると次ぎの記事が載っていました。

 『私は日本語のほうの歌人だが、短歌をエスペラント訳しようとすると必ず音と意味の制約に悩む。
日本語のもつ音で成り立っている歌(永井陽子・紀野恵など)の歌は日本語でなければ壊れてしまう気がする。また意味ではとても31シラブルに収まらない。

べくべからべくべかりべしべくべけれ初夏のすずかけ並木を来る鼓笛隊 永井陽子

逢恋不逢恋(あわざるこい)逢不逢恋(あいてあわざるこい)ゆめゆめわれをゆめなわすれそ 紀野恵

訳せますか?』

 私は、現在詩とは無縁な生活を送っております。作者はどんな方なのでしょうか。訳詩はできないと断る前に作者についてGoogleで調べ、幾つかの歌を読ませて頂きましたが、詩才の無い私には詩をエスペラント訳することは難題中の難題です。試みることさえできませんでした。

 以前、ジョルジョさん(KCEのGiorgio Silfer)と話しているときにエスペラントで一番苦手なものは詩であると言うと、彼は怪訝な顔をしました。そして、詩というものは民族語であれエスペラントであれ、ことばの核であると。だからザメンホフも第一書に文例として詩を入れたのだと。また、詩とは理性で解釈するものではなく、心で感じるものであると。
 私は言い張りました。合成語が多すぎる。普段会話では使わないような使い方をするので判らなくなると。彼は、言いました。詩は耳で聞いて楽しむもの、分からなくてもよいからメロディを楽しみなさいと。 私にはエスペラント詩は一生わからないかも知れないと思いした。

 日本では詩の朗読を聞き楽しむという習慣は一般社会にはありません。ヨーロッパ人は生活の中にそう言う形を取り入れているのでしょう。昨日、ボルトン女史が大本が出している出口王仁三郎賞を受賞したそうで、その受賞講演をラジオ・ポロ―ニャが放送していました。佳境に入ってくるとその講演は散文であるにもかかわらず、詩の朗読のように響きわたりました。年老いてもさすが詩人でした。

今読んでいる指輪物語にもまるで言葉遊びをしているようなホビットの詩が沢山載っています。
 では、一例をエスペラントで

 La hejmo poste, mond' antau^e
tra multaj padoj iri lau^e
......
mondo poste hejmen fronte
reiras mi enlitig^onte
....
liten jam ! Liten jam.

 Auldはこの作品の中でエスペラントの特性を生かして、前置詞、接頭辞、接尾辞など自由に語尾変化させ、幾つもの単語を合成させてリズムを作っています。日常会話でこれをやられたら、聞く方は頭の回転が間にあわず混乱するのでしょうが、リズミカルに読めて、結構心地よいです。
 
 また話しを戻します。ジュルジョさんはその時言いました。日本には素晴らしい詩人がいるでしょう。小坂狷ニ氏です。彼はエスペラントの詩の分野が硬直した時、新風を吹き込み、エスペラントの詩の発展に貢献した人です。ぜひ、小坂氏について勉強しなさいと。

 数年前、知人の家族にエスペラントの本整理を頼まれました。この時、小坂さんの万葉集とI・U(伊東三郎)のVerda Parnasoを見つけて頂いてきました。もしかしたらYuuさんの参考になることが載っているかもと思い斜め読みで捜しました。もし機会がありました、ご自分で読んでください。JEIでは現在販売していないようです。

 el <Kiel esperantigi japanan poezion?>大胆なresumoです。(p.16~17)
・日本語の詩をエスペラント訳するとそれは、もはや日本語の詩ではなくエスペラント詩となる。
・日本語の作詞法はシラブルが5~7が多い。このことにあまり固執すると訳した詩はできそこないになっ てしまう。
・原語であれ翻訳であれ日本派の詩人たちに私は提案したい。まったく自由なしかも圧縮した形式で、強烈 な心情、飛翔する精神、壮大な光景を歌いましょう。
・詩の行は4~6行。シラブルは20~40にしましょう。

 数えてみたら、彼の訳はこの形に納まっていました。(一行のシラブルは5~9、詩の行数は4~6)I・Uも万葉集からお幾つか訳しています。彼の訳もこの形式に納まっていました。

 Yuuさん、参考になるでしょうか。
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50代からのエスペラント

2005-03-26 08:50:20 | Weblog
 先日、フランス人夫婦を伴った友人と駅で出会いました。この夫婦は数年前、私たちの輪読グループを訪れたことがあったので、挨拶と短い会話をしました。彼女は日本語で、昨日は空港まで迎えに行ったので大変だったとささやきました。
    
 彼女はもうすぐ70才で、独身です。40代で夫が病死し、ひとりで3人の子どもを育て上げました。本人が専門職に付いていたこと、夫が生命保険に入っていて、かなりの額の保険金を残してくれたので、3人の子どもを無事大学まで行かせることができたと言うことでした。
 定年まで数年を残して、それまでの自分の人生は働くことと子育てについやされ、自分個人の生活が無かったことに気付き淋しくなったそうです。子どもたちにも、何か趣味を持ってくれないと俺たちも困ると言われました。健康食品で知り合った友人にそのことを話すと、友人が自分達のエスペラントグループに誘ってくれました。彼女はそれまで、エスペラントが何かも知らず、エスペラントという言葉すら耳にしたことが無かったと笑いました。そして、老後孤独にならない為にエスペラントを始めました。その時、もう58才でした。60才になった時は嬉しかったよ、これで自由になれると感じ、再就職を模索する同僚を尻目にさっさと退職したと語っていました。
 昨年は友人と二人で、このフランス人夫妻の元に滞在し、その後、ヨーロッパを数ヶ国旅してきました。

  

 最近、定年と共に、あるは定年を前にエスペラントを始める人が多いのです。数ヶ月、数年のずれはあっても、夫婦でエスペラントを学習し、世界エスペラント大会のツアーに参加し、1週間の会期期間に行なわれる様々な遠足に参加する人が増えています。エスペラントは平和の言葉、遊ぶためだけに参加するのは不遜とおっしゃる方もいます。でも私は思うのです。平和を支えるのは相互理解である。本当に平和を支えることができるのは、国家間の条約や国際協約ではない、庶民間の友情と信頼が無ければ、それはただの紙切れになってしまうだろうと。初めは片言のエスペラントで参加しても、友人を見つけ、必死で自分を語るうちに、民族の違いが人間としての違いでない事を肌で理解してゆくのだと。

  
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のびる! 健やかに生きるために

2005-03-25 09:17:03 | Weblog
 布団の中でからだを伸ばす。眠っていた体内の血液が動き出すのを感じる。右手を上げたり、左手を下げたり、両手を上げたりしながら、エビのようにからだをくねらす。同時に足も伸ばしたり縮めたりする。まるで、これから心身ともに伸びてゆく赤ちゃんのように。     
  

 10余年前、左の肩から指の先まで腫れあがり、使えなくりました。お医者さんが私に与えたのは、精神安定剤と痛み止めでした。いわゆる50肩の一種だそうで、仕事を減らしストレスを減らせらば、その内良くなると言うことでした。薬を飲むと眠くて仕事にはなりません。結構働いたしもう良いかなと仕事をやめました。ついでに薬も止めて、外に出て庭の草取りに励みました。我が家の小さな庭は素晴らしくきれいになりました。
    

 私が健康になった今、あまり庭いじりはしなくなりました。草が生えるのは私が健康な証拠と納得しています。
  
  

 みなさんに姿勢が良いと言われます。赤ちゃん体操のお蔭と思っています。以前は、冬になると背筋が丸くなってゆくのを感じました。時には背筋力の衰えを感じますが、姿勢は良いほうだと自負しています。
 現在心配していること。それは突然死です。かかりつけのお医者さんが無い場合、突然死した人は解剖されるそうです。私は心臓肥大で他人にあげることはできません。肺は学生時代に肋膜炎になりました。上げる物が無いのに切られるのは嫌なのです。 

  
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ラジオ・ポロ―ニャ

2005-03-24 10:18:14 | Weblog
 私の朝は、ラジオを聞くことから始まります。それはラジオ・ポロ―ニャのエスペラント放送です。インターネット放送の便利な所は聞き慣れない単語や、意味を忘れてしまった単語を耳にした時、ラジオの動きを止めて辞書を引けることです。

 ここ数ヶ月と言うか、もしかしたら一年以上かも知れませんが、放送されている重いテーマがあります。
それは『カチンの森事件』事件です。

 『カチンの森事件』についてご存知の方もあるでしょうが、少しだけ説明させてくだしさい。
 1939年ドイツ軍がポーランドに侵攻した時、ソ連軍もポーランドに侵攻しポーランド東部を制圧しました。そしてポーランド軍の将校4000人を捕虜にしました。そしてこの将校たちが消えてしまったのです。ポーランド全土を制圧したドイツ軍は、1943年、カチンの森で制服を着たまま射殺されたこれら将校の死体を発掘しました。ドイツはソ連を非難し、ソ連はナチスの仕業と言い続けました。第2次世界大戦後、ポーランドは実質的にソ連の支配下に組み込まれました。そのため事件の調査は実際不可能となり、事件は藪の中に置かれました。これが『カチンの森事件』です。

 現在では、将校を射殺したのはソ連軍の仕業と言うことがはっきりしています。
 ラジオは言い続けます。ロシアは謝罪しなさい。謝罪したからと言って、両国の国民間の友情は損なわれる事はないと。

 人の振り見て我が振り直せtと昔から言われています。私たち日本人にも、過去のものとして葬りたい事件もあります。日本軍は、朝鮮半島、中国大陸、東南アジアで何をしたのでしょうか。ポーランドの主張を聞いていると日本人も告発されているような気がしってます。過去に眼をそむける事はできないと放送は私に言い続けます。
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ポーランドからの便り

2005-03-22 21:24:21 | Weblog
 今日ブログはお休みの予定でしたが、またまた書き始めました。ポーランドのエラから便りを貰ったのです。彼女とは1996年のプラハ大会で知り合いました。正確に言うと10才の少年アダムと知り合いましたが、その頃アダムはまだエスペラントは挨拶程度しかできなかったのです。母親が息子に代わって私の友人になりました。
 
 エラは銀行員です。数年前、EUにポーランドが加盟する前に、会計士の資格をとらないと退職させるといわれ、頑張って国家試験に合格したのどの努力家です。また、視覚障害の友人がいて、時々訪ねて気遣っています。
  2005年のエスペラント世界大会はリトアニアのヴィリニュスで開催されます。アダムはすでに申し込んだと言うことでした。彼女の両親はヴィリニュス出身だったので、是非、その町へ行きたい、滞在費は殆どかからないし、交通費も大金ではない。ただ大会参加費140ユーロ(3月以降170ユーロ)が払えないので、友人たちに頼んでいる、私にも少しカンパしてもらえないかと言う便りでした。
 

 虫が良すぎるんじゃない?エスペラントは生き死にの問題じゃないでしょう?ちょっと考え込みました。 そう言えば、以前の便りに、アダムは昨年秋、大学生になり、生活費と授業料に彼女の給料の半分を仕送りするとありましたし、夫が心の病になり一時入院し、退院後も病院通いを続けているとのことです。私は、チェコに滞在した時に出会った、東ヨーロッパの人たちの優しい心づかいを思い出しました。エラにも息抜きが必要でしょう、少しカンパしようと言う気持になっていました。

 今日までに大会に申し込んだ人は1588名です。うち日本から121名でした。宿泊の申し込みは6月ぐらいまで受け付けているので、最終的には何名参加するのでしょう。
 (呆れましたね。これブログに書くためにわざわざインターネットで今日の状況を調べたのです。)


 ツアーで行く日本からの参加者は大概一番上等のホテルに泊まります。まあ、そう言う人もいないと現地も困るでしょうけれど、安い宿泊施設は学生寮です。なんと4人部屋で1000円弱、3人部屋だと1200円位です。夜遅くまで会話がはずみ、施設全体がうるさくて、年配者は寝不足で、ばててしまうと言うことですが、食糧も持参、バス内で何昼夜も過ごして参加する東ヨーロッパの人たちに取っては、年齢に関わらず、ベットがあるだけで最高の気分のようです。

 ヨーロッパは日本から遠すぎます。私もバス旅行に参加したいです!
 
 
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わが名はグリィミ!

2005-03-21 13:38:37 | Weblog
 先日、コメント欄に“glimi”って良い名前ですねと書いてくれたブロガーがいました。
嬉しかったですね!

 この名前、気に入っているのです。エスペラントの単語ですが、辞書には ― glimi ;キラキラ光るとあります。
  

 子どもの頃からファンタジーが好きです。トールキンの指輪物語、エスペラント訳を2月から読み始めました。エスペラントでは『LA MASTRO DE L' RINGOJ』-指輪(たち)の主人- と言うのですけれど…。本当に楽しい本です。この本を作者は人に読んでもらうためではなく、自分の創作欲を満たすためだけに書いたのだそうです。
 計画では3月中に第一巻を読み終える予定でしたが、今、本の中程、300ページです。というのも、時間も無いのにブログまで始めてしまいましたから…。
  

 ホビットたちの旅はゾクゾクするほど楽しいですね。星が瞬きはじめた日暮れの道を、ただひたすら歩き続けたり、きらめく満天の星の下で野宿したりするのです。その都度、glimiという単語が語尾を変えて出てきます。物語から受ける言葉の印象はキラキラ光ると言うより、チカチカ瞬くと言う感じです。その感覚がとても気に入ったのです。

J・R・R・トールキンはエスペラント版の序文で次ぎのようなことを書いています。原文は英語ですが、私が読んだはエスペラント訳です。
 ― 私は25年前(もちろん初版時からです)エスペラントを学び、今でも文法とその構造はしっかりと覚えております。
 わたしは、この言葉で書くことも話すこともできませんが、エスペラントの書物は沢山読みました。・・・。
 好きに時間を使うことができ、国際語に関わりたい人は、エスペラントを支持するべきではないでしょうか。
  

 エスペラントに翻訳したのはイギリスの文学者ウィリアム・オールドです。かれはノーベル賞候補にノミネートされたほどの人です。
 
  
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エスペラントで理解できなかったこと

2005-03-20 08:06:46 | Weblog
 1998年フランスのモンペリエで開かれた世界エスペラント大会に参加した時のことです。アルル地方への遠足に参加しました。
 
 広がる田園地帯を抜けて山岳地帯へと進みました。南フランスは米の生産地なのです。直蒔きですから田植えはありません。案内人の説明によると、この地方は干拓でできた土地なので塩分が多く植物の育ちにくい所だったそうです。稲は塩分に強いので稲作をはじめたら見事に育ち、それだけではなく土の中の塩分を吸収し、3年も経つと土壌の塩分は殆どなくなったそうです。これは余談です。
私の隣はフランスの夫人でした。おいしいオリーブオイルの話、家族のこと、住んでいる土地のことなど世間話をしているうちにバスは進んで行きました。
 彼女の家からは美しい Blanka Monto (ブランカモント)が見えると言うのです。白い山?雪が降ればどの山も白くなります。私にはどの山を指すのか分かりませんでした。彼女はその有名な山を知らない私を無知な人間と思ったようでした。
 
 後で友人に話すとモンブランじゃないかと言われました。
  
 モンブラン!それなら私だって知ってます。でも、固有名詞をエスペラントに翻訳するなんて!、余計な親切が理解を妨げることもあるのです。
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緑の表紙の小さな詩集

2005-03-19 08:27:46 | Weblog
先日、リトアニアの友人から手の平サイズの詩集が送られてきました。題名は『 Mi amas Esperanton (ミ アーマス エスペラントン)』ー 私はエスペランとが好きですー です。
彼女は カトリック系の私立の中学校でエスペラントを教えています。これは生徒と初心者のために書いたそうです。まるで俳句のような素朴な詩ばかりです。一つだけ紹介させてください。


Printempo プリンテムポ

G^is revido, vintra tempo! ヂス レヴィド、 ヴィントゥラ テムポ
Floras floroj : jam printempo. フローラス フローロィ : ヤム プリンテムポ
Kantu birdoj, kantu koro カントゥ ビルドィ、 カントッ コーロ
de au~roro g^is au~roro... デ アゥローロ ヂス アゥローロ…
( また会いましょう、 冬の時!
  花が咲いている:もう春。
  鳥よさえずれ、心よ高鳴れ
  暁から日暮れまで…)

訳は下手ですが意味は分かってもらえると思います。
本を読む時は、なるべく訳しません。頭の回転が停止した所だけ訳す事にしています。
そうでないと、ヨーロッパ人の早い口調で話す会話には割り込めません。

リトアニアでは資格を持つ教師がエスペラントを教えます。エスペラント界にはILEIという機関があります。そこでの認定試験に合格すると、国内の免許がもらえるそうです。羨ましいですね。


G^is revido !
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怒!

2005-03-17 09:38:13 | Weblog
夕べ、寝る前になんと言うこともなくテレビのスイッチを入れた。目に入ってきたのは中国国境に於ける北朝鮮の銃殺の光景でした。罪状は脱北者幇助だそうです。その非人間的情景に怒りが体内を駆け巡りました。

子どもの頃の話です。
我が家は満州からの引揚者が作った開拓の近くにありました。その一角に朝鮮の人たちが住みつきました。水の豊富な所で戦前から発電所があったのですが、その同じ川に新しい発電所建設がはじまり、多くはその建設労働者でした。
今以上に民族差別の激しい時代です。その地域に行く事は禁じられていました。ある日、年下の姉妹と知り合いました。美人ではないけれどとても気立ての良い子たちでしたが、彼女たちは決して日本人の地域にはやって来ませんでした。私は密かに遊びに行くようになりました。父は教師をしていたので小言は言いませんでしたが、母は世間体が悪いと激しく私を責めました。それでも一年もすると母との間に暗黙の了解が成立し、私は堂々と彼らの元に通えるようになりました。

朝鮮人と結婚した若い日本人女性がいました。朗らかな気立ての良いその女性と私は親しくなりました。噂では、彼女は日本人男性に騙されて女の子を生み、その子を連れて結婚したと言うことでした。夫との間にも当時2才になる女の子がいました。トシコと呼んでいました。2才とは思えないきりりとした眼をし、その瞳は黒々と深く、静かな煌きをたたえていました。私はこの子がすっかり気に入り、暇さえあればこの子と遊んでいました。

トシコにとって運命は残酷でした。小学生の時父を亡くし、中学生の時母を失いました。後で知ったのですが、夫が亡くなってから母親はトシコとその弟妹2人に日本国籍を取得させようと努力していたが、手助けをしてくれる人は誰もいなかったということでした。
日本国籍の姉を母方の伯父が引きと取り、利発なトシコは池袋にある朝鮮人学校のある教師の養女となり、弟妹は児童養護施設に入れられたと聞きました。

その3年後、私が大学4年生の8月の事でした。帰省すると、前日トシコが訪ねて来たというのです。北朝鮮に渡る前に私に会いたかったということでした。私が明日帰るから1泊するようにと母は進めたのですが、彼女は数日後、新潟から出る船に乗らなければならないので時間が無いとすぐに帰っていったそうです。最後に姉に会うために帰省し、時間を割いて我が家に寄ったのでした。

彼女は弟と妹と一緒に暮らしたいと思っていたそうです。朝鮮人の養父母は17才の彼女が弟妹を育てられるのは祖国しかないと朝鮮帰還を進めたのだそうです。彼らの進言に従って彼女は朝鮮行きを決意したということでした。
私は激しく憤っていました。彼女の血の半分は日本人。日本の大人たちは彼女を見捨てたのです。そして、朝鮮人の養父母も自分たちは日本に残り、幼さないとも言える少女に子ども二人の養育を任せて、知人もいない国へと送り出したのです。

彼女のことを思う時、私は怒りを押さえることができません。
北朝鮮ではカースト制度のように成分によって身分が分かれていると聞きました。在日だった帰還者は一番低い成分だそうです。彼女たちには日本人の血が流れています。ということは下層階級の中の下層なのでしょうか。

帰還の後、数年経って、姉の所に生活が苦しいので援助してもらえないかという便りが数回届いた後、彼女からの音信は無いと聞きました。

トシコよ、生きているなら脱北でも良い帰っておいで!あなたの母が望んだように、日本国籍を取る手助けが今ならできます。これが私の本音です。
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あさの仕事

2005-03-16 09:43:53 | Weblog
私の朝はコーヒーとエスペラントで始まります。
ゆっくりとコヒーを飲みながらラジオ・ポロ-ニャを聞くのです。


子どもたちが家にいた頃は朝はまさに戦場でした。食事をさせながら弁当を作り、勤務の始まりが少し遅かったので、子どもたちが登校した後、夕食の下ごしらえをして家を飛び出しました。
帰ると夕食の支度、飢えた子どもたちに食事をさせ、自分の時間が持てるのは20時過ぎでした。エスペラントの本を読むのですが、疲れた頭では理解もままにならない。日曜日は冷凍できるものを大量に調理し、弁当のおかずを保存しました。いつか、エスペラント三昧の生活をしようと心に決めながら働いていました。




今は誰にも遠慮せずのんびりできるはずでしたが、ボランティアの予定が入っている時は脱兎のごとく飛び出します。ラジオを聞かなければゆったりと出かけられるのにと思いつつ、エスペラントを聞くことがまるで儀式のようになっています。時間がある時は中国国際放送も聞きます。その他オーストラリアの週一回の3ZZ等々、色々なお国訛りのエスペラントを楽しんでいます。

以前短波放送で聞こうとした時は電波を捉えることができず断念しました。
インターネットに感謝、感謝の毎日です。


エスペラント放送聞きたい方はブックマークを参照してください。 
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 エスペラントの小説ーKIEL AKVO DE L' RIVERO 2

2005-03-15 10:05:00 | Weblog
ベルリンで主人公が下宿したのは銀行家の家庭で年齢の近い息子と娘がおりました。彼は息子のグループに入りベルリンでの青春を楽しみます。娘のグループとの交流を通して当時のドイツの青春群像が描かれます。また、戦争勃発雰囲気の中で微妙に変化してゆく人の心も表現されています。

家主一家のアパートはブロー通りにありました。ここは高級住宅街だったそうですが、第2次世界大戦後、ベルリンが東西に分割された時、その境界に近い場所となり、裕福は人々はこの街を敬遠したと言われています。
この本を読んだのはもう5年程前のことです。ベルリンに息子が住んでおりましたの数週間滞在しました。地図で見るとブロー通りはそのアパートから2キロ位しかありません。ある日の午後散歩に出かけました。ショーネベルク方面からノーレンドルフ駅まで歩き、左に曲がるともうブロー通りでした。小説のイメージとは違い、立ち並ぶアパートの一階部分を占める商店のほとんどは荒れ果てていました。壊れたマネキンの残っている所もありました。もう一つ角を曲ると通りから庭に入る入り口がありました。昔は馬車が出入りできたのでしょう。中庭を覗くと数台の乗用車が停まっていました。

行きは良い良い帰りは怖いというのはこの事、いつもの好奇心で公園で遊んだりしているうちに道に迷ってしまいました。ショーネベルク駅の隣の駅を見つけましたが、電車に乗るのもしゃくなので歩き続けました。ショーネベルク市役所の時計台が見えたときは本当に嬉しかったでね。ここはベルリンマラソンの通り道になっています。


よく出てくる地名にリュッツォープラッツがあります。ツォー駅からのバスでこの広場を下りるとすぐ傍にバウハウスがあります。小説を読んでない人にはなんの変哲も無い広場です。この広場の横に大きめの公園と茂みに囲まれた小さな公園があります。
主人公が戦争の危険を感じ、帰国しようにも既に汽車が無く、野宿を決心しした場所です。そして、ここで、未来の妻アネマリエに助けられました。

彼女に助られながら、数日後に汽車の切符を手に入れた彼は、ようやく国境の町にたどり着きますが国境は閉鎖されています。
彼がドイツからの脱出の支援者を探したことになっている国境の町の宿屋‘Au Cheval Blanc’現在も営業しているそうです。行ってみたいですね。

この脱出劇や第2次世界大戦前後の話に興味のある方はぜひ続きをエスペラントで読んでくださいね。
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 エスペラントの小説ーKIEL AKVO DE L' RIVERO1

2005-03-14 09:47:58 | Weblog
エスペラントでは人生の機微を表現できないと言う人がおります。でも、そんな事はありません。面白いものが、いろいろあるのです。
“ KIEL AKVO DE L’ RIVERO”(日本語に訳すと<川の水のように>と言う意味)もその一つです。作者はフランス人であり、銀行員です。彼の名はレイモンド・シュヴァルツ(RYMOND SCHWARTZー1894~1974)、この小説は1963年に出版されました。
彼はフランス北東部、ロレーヌ地方、モーゼル県の県都メッツに生まれました。この町を流れるモーゼル川はドイツに入り、オランダを通って海へと流れます。物語の時代は第一誌世界大戦前から第二次世界大戦終結までです。長さは480ページに及ぶ大作です。日本語に訳したらどれほどのページ数になるのでしょうか。

物語はこの川のある地方の結婚式から始まります。ここでは主人公は単なる脇役です。地方の結婚式の様子やその土地の風習・人間関係が面白おかしく語られます。フランス人の冗談は時にはピンとこない所もありましたが結構愉快でした。
一番興味が湧いたのは料理でした。この中に新鮮なえんどう豆を食べる場面があります。どう読んでも調理していないように思えるのです。
そこで、世界エスペラント大会に行くたびに食べものの話になるたびにえんどう豆の食べ方を聞いてみました。
収穫したばかりのえんどう豆(グリーンピ-ス)を調理せず食べる人は国を問わずヨーロッパ人には結構おりました。

主人公はこの後パリで学生生活最後の愉快な日々を送りドイツ語を勉強するためにベルリンへと旅たちます。第一次大戦前後のドイツの若者たちの生活についてはこの次にしましょう。
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エスペランティストとは?

2005-03-12 14:10:03 | Weblog
はじめまして!
人生の転換期にきています。惰性で生きるのはいやですね。少し自分の人生を見つめる事にしました。


エスペラント大好き人間です。
そんな人を世間はどう呼ぶのでしょう。今までは世間も本人もエスペランティスト言っていました。
でも、この言葉は何かの主義主張を唱える人を連想させると嫌がる人も多くなりました。最近ではエスペラント・パロラント(Esperanto-parolanto)とかエスペランターノ(Esperantano)と自称する人が増えました。
すると私はエスペラント・アマント(Esperanto-amanto)ということでしょうか。

ある国の辞書には エスペランティスト ― 偏屈者 と載っているそうです。
周りを見ると私も含めて本当に偏屈者、頑固者が多いですね。生活の足しになるならまだしも、自腹を切って続けている人が多いのですから、偏屈者頑固者以外は継続不可能なのでしょうか。また、この頑固者たちが連帯感で結ばれている事は不思議と言えば不思議です。

フランス人の友人がいます。10数年前、ルモンド紙にエスペラントを中傷する記事が載ったそうです。大新聞にそんな記事を書かせる言葉とはどんな言葉かとすぐに入門書を買ってきて読んだら面白かったそうで、エスペラントにはまってしまい、今ではヨーロッパのあちらこちらの会合に奥さんと3男を連れて出かけています。これぞ正しく素晴らしき偏屈人生ですね。
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