エスペラントの基礎を学んだ後、私は、就職、結婚、子育てと続き、エスペラントグルーに参加できない状態でした。そんな私の学習を支えてくれたのは小坂狷ニ著≪エスペラント捷径≫でした。日本語の文法書を捜すと、ほとんど彼の研究が元になっています。原書を取り寄せるにしても、船で数ヶ月かかった時代に、よくぞこれだけの事を成し遂げたと驚きます。
ENCIKLOPEDIO DE ESPERANTO(エスペラント百科事典)には、小坂氏は私的な時間を全てエスペラントに使い、日本エスペラント界の歴史は、彼の個人的歴史と同じ様なものであると書いてあります。そのうちどなたか彼の伝記を書く人が現れるかもしれません。私は個人的に聞いた小坂夫妻関するエピソードを若い方に伝えておきたいのです。
1991年、ノルウェーのベルゲンで行われた世界エスペラント大会に、私は初めて個人で参加しました。その時、自分の仕事に関することも勉強したく、ノルウェーとスウェーデンのエスペランティストにいろいろとお世話になりました。ノルウェーの首都はオスロですが、オスロが首都になる前、首都の働きをしていたのはコンベスブルグと言う町で木材の輸出で栄えた町です。その地の老エスペランティスとオラフ氏には随分とお世話になりました。
私が旅立つ日、彼は日本にもって帰って貰いたいものがあるといって、茶色に変質した雑誌を差し出しました。なんとそれは第二2次世界大戦前の日本エスペラント学会の機関紙≪LA REVUO ORIENTA≫ でした。彼はあるページを開きそれを読んでご覧といいました。そこには、一篇の詩とオラフ氏の名前がありました。この詩を書いた頃、かれは20代で、エスペラントを始めたばかりでした。詩を書いてはあちこちの国の雑誌に投稿しました。
『これは小坂氏が送ってくれたのです。私の詩は文法的に間違っていました。それを小坂氏は添削して雑誌に載せたのです。そして、許可を無しに詩句を変えたことに対する詫び状が添えられてありました。私は、それまでそうのような手紙をもらったことはありませんでした。一国の指導者が外国の新米エスペランティストにこれほど礼儀正しいとは、私はとても感激しました。残念ながら、手紙は無くしてしまったけれど、せめて雑誌は日本に持ち帰って欲しい』
私は、ただ単にエスペランティスト同士だから受け入れられたのではなく。先人たちの交流の成果を受け取っていると感じたのです。その時から、私は知り合った海外のエスペランティストには、誠実につき合うよう心がけています。私の態度が、後の世代の交流に悪影響を及ぼさいようにと願うからです。
伊東三郎氏の話(I.U)
伊東三郎氏は岩波新書『エスペラントの父ザメンホフ』の著者です。彼は、中学生の時にエスペラントを始めました。始めるとすぐに詩作に没頭しました。
『文法的にはひどいものでしたよ。小坂さんの指導はまさに的確でしたね。ここは素晴らしいと誉めながら、直してくれました。それも、子ども扱いしないで、大人同士のような対等な態度でしたですよ。嬉しかったです。詩がうまく創れるようになったのは、小坂さんのお蔭ですよ。』
『文法的間違いなら宮沢賢治もしているんですよ。間違っても書き続ける事が大切なんです。宮沢賢治の文法が間違っていたからと言って、賢治の詩の才能を誰も否定できないでしょう。文法が多少間違っていても続けさせるのが指導者の大切な役目ですよ。小坂さんその指導がとても上手でした。』
そして、賢治がエスペラント学習初期に作ったという『トマト』という可愛い詩を伊東氏は朗読してくれました。
伊東氏は戦後、ザメンホフのホマラニスモ(人類人主義)に傾倒していましたが、戦前、戦中はコミュニストとして弾圧されました。コミュニストを毛嫌いするエスペランティストが大勢いる中で小坂氏の公正な態度は変わらなかったとそうで、小坂氏をとても尊敬していました。
湘南の足立長太郎氏の話
小坂氏は横須賀生まれれです。戦後まもなく湘南のザメンホフ祭が横須賀で開かれたことがあったそうです。その時、JEI(日本エスペラント学会)の会合の後、足立氏は電車の中で小坂氏に会い参加しませんかと誘ったそうです。その時、小坂氏の答えは『私は平和主義者です。軍都は嫌いです。ですから横須賀へは行きません。』でした。小坂さんは本当に頑固な人でしたということでした。
小坂夫人について
小坂夫人は横浜の出身だそうです。当時の名門、平沼女子校を卒業しました。足立氏の奥さんの従姉は小坂夫人と同級生でした。同窓会が終わると仲良し数人が喫茶店などによっておしゃべりするのが常だったそうです。平沼の卒業生の多くは財界、政界で活躍する人物の夫人が多く、その従姉の夫もある銀行のニューヨーク支店長などを務めた人でした。また、当時、日本で外国為替を扱えるのは横浜正金銀行だけでしたが、そこの頭取夫人になった人などがそのメンバーにいたそうです。
小坂夫人はうちの主人は皆さんのご主人のように偉くは無いと愚痴めいた話をし、いつの間にかしっかりと夫の自慢と、エスペラントの宣伝をしていたと言うことでした。
彼女は、雑誌が発行されると、発送の仕事をほとんど引き受けていたそうです。噂では発送準備ができた雑誌を風呂敷に包み、背負って郵便局に運んでいたと言うのです。私には、小坂夫人が夫に心酔しきっていたように思えます。彼女の人柄をもっと知りたいですね。
ENCIKLOPEDIO DE ESPERANTO(エスペラント百科事典)には、小坂氏は私的な時間を全てエスペラントに使い、日本エスペラント界の歴史は、彼の個人的歴史と同じ様なものであると書いてあります。そのうちどなたか彼の伝記を書く人が現れるかもしれません。私は個人的に聞いた小坂夫妻関するエピソードを若い方に伝えておきたいのです。
1991年、ノルウェーのベルゲンで行われた世界エスペラント大会に、私は初めて個人で参加しました。その時、自分の仕事に関することも勉強したく、ノルウェーとスウェーデンのエスペランティストにいろいろとお世話になりました。ノルウェーの首都はオスロですが、オスロが首都になる前、首都の働きをしていたのはコンベスブルグと言う町で木材の輸出で栄えた町です。その地の老エスペランティスとオラフ氏には随分とお世話になりました。
私が旅立つ日、彼は日本にもって帰って貰いたいものがあるといって、茶色に変質した雑誌を差し出しました。なんとそれは第二2次世界大戦前の日本エスペラント学会の機関紙≪LA REVUO ORIENTA≫ でした。彼はあるページを開きそれを読んでご覧といいました。そこには、一篇の詩とオラフ氏の名前がありました。この詩を書いた頃、かれは20代で、エスペラントを始めたばかりでした。詩を書いてはあちこちの国の雑誌に投稿しました。
『これは小坂氏が送ってくれたのです。私の詩は文法的に間違っていました。それを小坂氏は添削して雑誌に載せたのです。そして、許可を無しに詩句を変えたことに対する詫び状が添えられてありました。私は、それまでそうのような手紙をもらったことはありませんでした。一国の指導者が外国の新米エスペランティストにこれほど礼儀正しいとは、私はとても感激しました。残念ながら、手紙は無くしてしまったけれど、せめて雑誌は日本に持ち帰って欲しい』
私は、ただ単にエスペランティスト同士だから受け入れられたのではなく。先人たちの交流の成果を受け取っていると感じたのです。その時から、私は知り合った海外のエスペランティストには、誠実につき合うよう心がけています。私の態度が、後の世代の交流に悪影響を及ぼさいようにと願うからです。
伊東三郎氏の話(I.U)
伊東三郎氏は岩波新書『エスペラントの父ザメンホフ』の著者です。彼は、中学生の時にエスペラントを始めました。始めるとすぐに詩作に没頭しました。
『文法的にはひどいものでしたよ。小坂さんの指導はまさに的確でしたね。ここは素晴らしいと誉めながら、直してくれました。それも、子ども扱いしないで、大人同士のような対等な態度でしたですよ。嬉しかったです。詩がうまく創れるようになったのは、小坂さんのお蔭ですよ。』
『文法的間違いなら宮沢賢治もしているんですよ。間違っても書き続ける事が大切なんです。宮沢賢治の文法が間違っていたからと言って、賢治の詩の才能を誰も否定できないでしょう。文法が多少間違っていても続けさせるのが指導者の大切な役目ですよ。小坂さんその指導がとても上手でした。』
そして、賢治がエスペラント学習初期に作ったという『トマト』という可愛い詩を伊東氏は朗読してくれました。
伊東氏は戦後、ザメンホフのホマラニスモ(人類人主義)に傾倒していましたが、戦前、戦中はコミュニストとして弾圧されました。コミュニストを毛嫌いするエスペランティストが大勢いる中で小坂氏の公正な態度は変わらなかったとそうで、小坂氏をとても尊敬していました。
湘南の足立長太郎氏の話
小坂氏は横須賀生まれれです。戦後まもなく湘南のザメンホフ祭が横須賀で開かれたことがあったそうです。その時、JEI(日本エスペラント学会)の会合の後、足立氏は電車の中で小坂氏に会い参加しませんかと誘ったそうです。その時、小坂氏の答えは『私は平和主義者です。軍都は嫌いです。ですから横須賀へは行きません。』でした。小坂さんは本当に頑固な人でしたということでした。
小坂夫人について
小坂夫人は横浜の出身だそうです。当時の名門、平沼女子校を卒業しました。足立氏の奥さんの従姉は小坂夫人と同級生でした。同窓会が終わると仲良し数人が喫茶店などによっておしゃべりするのが常だったそうです。平沼の卒業生の多くは財界、政界で活躍する人物の夫人が多く、その従姉の夫もある銀行のニューヨーク支店長などを務めた人でした。また、当時、日本で外国為替を扱えるのは横浜正金銀行だけでしたが、そこの頭取夫人になった人などがそのメンバーにいたそうです。
小坂夫人はうちの主人は皆さんのご主人のように偉くは無いと愚痴めいた話をし、いつの間にかしっかりと夫の自慢と、エスペラントの宣伝をしていたと言うことでした。
彼女は、雑誌が発行されると、発送の仕事をほとんど引き受けていたそうです。噂では発送準備ができた雑誌を風呂敷に包み、背負って郵便局に運んでいたと言うのです。私には、小坂夫人が夫に心酔しきっていたように思えます。彼女の人柄をもっと知りたいですね。