glimi

生きること:過去と未来とエスペラントと

さくらんぼとプロティン

2005-05-31 09:57:00 | Weblog
 7月29日(月)、8時15分駅まで走り下る。マクスは悠然と手帳とお金を手に切符売り場に立ち、イジナは苛々と私達を急き立てて待っていました。彼女はマリエはいつもギリギリに走ってくると腹を立てています。マリエの手帳を受け取るとマクスが切符を買いました。私が財布を出すとイジナはいらないと言います。
 彼女の説明によるとチェコでは年金生活者が家に閉じこもらないように、4人で歩けば3人分の料金で済むので私の分は無料になると言うのです。後でまとめて払うにしても彼女の言葉に感謝して、ここでは従う事にしました。 

   りべレッツへ。りベレッツはヤブロネツより大きな町で坂道に沿って商店街が並び、新宿のように人々が行き交っています。ここには数人しかエスペランティストがいないというのにその中の二人に会いました。

 肉屋に入る。色々なソーゼージやハムが並んでいる。冷凍肉もあります。後ろ足を伸ばし、前足を頭の上に縛られて凍っているのはなんとウサギの肉でした。マリエの説明ではチェコではシチューを作る時必ず2種類の肉を使うのです。その方がうまみが出るそうです。

  私がお金を払いたいと主張しましたが、イジナはここは私が払うことになっていると譲りませんでした。

  バスで15分、農家の並ぶ道を25分ほど歩いてミラの果樹園に到着です。道すがらマクスはヴィドゥヴィノ(未亡人)が何とかかんとか言うエスペラントの歌を口ずさんでいました。
 案内も請わず私達は果樹園へ。10本は超えるさくらんぼの木がたわわに実をつけています。アメリカンチェリーのような色のと日本の砂糖錦のようなのと2種類ありました。 
 私達は手の届く枝を引っ張っては熟した実を次々と頬張りました。頬っぺたが落ちそうとはこのこと?果汁が口いっぱいに拡がり美味しい香りが体を包み込むような!!
 ミラが梯子を持ってきてマクスに渡しました。高い枝の実も取ろうと言うのです。

 ミラが言います。『収穫に丁度いいね。それにまだvermoもまだ小さいし!』


  vermoとはエスペラントで昆虫の幼虫の事です。私はそっと摘み取ったさくらんぼを割ったみました。1mmほどの白い斑点があります。昆虫のタマゴでしょう。あるいは幼虫?3mmぐらいのが入っているのもあります。
 ライネが笑います。『日本人はしょうがないな、これは唯のプロティンだろう!?』マリアンネも私を笑います。
ミラはvermoがいるの安全な証拠だろう?この実は次ぎの土曜日に弟一家が収穫に来る、その後は近所の人達が好きなだけ取って、後は小鳥達が食べる。人間に影響を与えないほどの毒でも小鳥には猛毒と言う事もある、だから、薬は決して撒かないと。

 確かに日本でも蜂の子を食べる人がいるし、世界のどこかでは蟻の幼虫を食べる人もいます。でも、もう喉を通りません。イジナは私をからかって『プロ手ィン、プロティン。』を連呼しながら次々とさくらんぼを頬張っていました。


 

 ミラは独身です。普段はヤブロネツの中心部に住んでいて、ここは親から譲り受けた別宅なのです。家に入ると目に飛び込んでくるのは石の標本の陳列です。彼の職業は知りませんが、学識豊かで特に地質学については詳しく大会の時のプラハ近郊の自然観察でも解説をしていました。

 この国では社会主義時代に反体制とみられた知識人はその職を追われ、掃除とか土木作業とか肉体労働で飢えをしのいだと言う事です。ですから以前の職業について聞いてもその人の教養とは関係がないかもしれないのです。ミラはチェコ語、ロシア語、エスペラント、ドイツ語、英語が話せるとマリエは言っていました。

 彼は、子ども達が集団で石の標本を見学に来るのを楽しみにしているようでした。

 昼食を食べて徒歩で帰宅。
 家で体を洗ったり、洗濯などしていたらまたみんながやって来ました。裏庭で、N氏が、息子達と家のあちこちを修理しているのにみんな裏庭のテーブルに座りビールなど飲み始めました。そこの家族が働いている場所でパーティを開くなどとは日本人にはちょっと考えられません!!

 薄暗くなって(9時頃)室内に移動しました。夕食後、イジナが台所から小さな箒と塵取りを持ってきて床にこぼれたであろうパン屑を片付けていたのが印象的でした。

  
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私はレーニンが嫌いでした!!

2005-05-30 07:29:00 | Weblog
 ヤブロネツ滞在2日目、遠足から帰るとマリエの長男とその恋人それに二男が食事をしていました。台所では夫のN氏が調理をしていました。マリエも私との軽食の準備をはじめました。

 昨年秋よりこの家族に大問題が起こっていました。離婚訴訟です。

 旅行準備を進めていたら、ハナからマリエが離婚するらしいという便りが届きました。訪問を中止すべきか問合せの便りをマリエに出すとすぐ返事が来ました。私の訪問についてはすでにN氏も了承済みと言うのです。
 中学生の頃から憧れていたチェコです。マリエの言葉を信じ思い切ってお邪魔しました。

 台所でN氏と言葉を交わしていたマリエが呆れ顔で私の所にやって来ました。
 『そんな!馬鹿な!彼が私達を食事に招待したいなんて! I子どうする? 彼はね、私がエスペラントで通訳すれば良いと言うの。』
  私には申し出を断る理由はありませんでした。二人が静かに会話する時間が持てたら嬉しいと思い、即座にその申し出を受けました。

 N氏は家中に飾られた亡くなった娘さんと本当に良く似ていました。写真の少女は光り輝いているのに彼は打ちひしがれ深い悲しみに満ちた眼をしていました。

 彼は化学教師で柔道家でもありました。若い頃から国外の試合に出かけていたようですし、町の少年達を指導していました。趣味は狩猟で朝早く出かけます。

 社会主義経済が崩壊しまじめると彼はすぐに仕事を辞めて、自分の知識を生かしメッキ工場を作りました。現在、二つ工場をもっています。自動車を二台所有し、まだ一般家庭には普及していない電話もあります。長男は父親の会社で働いていますが、二男は何度か海外への脱出を試みていました。
 子どもが家庭を持った時のためにと裏庭に3階建ての家を一軒建てました。マリエが子どもの傍に居たいように、彼も子どもは自分の手元に置きたいのです。

 彼は不特定多数の女性と不貞を働いているとマリエは集めた事実を小さな黒い手帳に書き込んでいました。この夫婦は娘を失った悲しみを分かち合うことができず、20年経って、N氏その寂しさに耐え切れなくなったのだと私は感じました。

 夕方9時、奇妙な夕食会が始まりました。N氏は取ってきた獲物でシチュウを作ってくれました。彼はワインを飲み、私達はビ-ルを飲みながら2時間ばかりマリエの通訳で話しました。

 彼は昔、海外で日本の柔道の選手から貰ったというアルバムを開き、私に説明を求めました。それは1929年に出版された京都のアルバムで、平等院とか京都御所や有名なお寺が載っていました。
 N氏はそのうち前庭に赤い鳥居を作くるつもりだと言いました。できたら是非見に来て欲しいとも・・・。

 マリエはモラビア人です。母が熱心なクリスチャンで子どもの頃は往復2時間の道を教会に通わされたそうです。ですが今は神は信じないと言います。チェコ人のN氏は日本の神道の中に何を見い出したのでしょうか。
 
 彼等の悲劇は娘が抑圧的社会に絶望したことから始まったように見えました。N氏は社会主義経済から自由主義経済に移行する過程で成功した人たちの中の一人でしょう。しかし経済的成功は彼の寂しさを取り除いてはくれなかったのでしょう。


 私は学生時代マルクスが好きでした。人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る。すべての人が平等に生きられる社会は夢のまた夢とわかっていても人類の最終的理想ぐらいに思ってもいいかなと考えるのです。

 でもレーニン信じられませんでした。彼は≪国家と革命≫の冒頭で真の平等を作る為にプロレタリア独裁が必要だあると説いています。どんな形であれ独裁は独裁であり、独裁から民主主義への移行などありえません。権力を得たものがそれを譲渡するなどとは考えられないのです。


 後日談です。
 1年後、延び延びになっていた長男の結婚式が行われました。
 2年後、N氏は庭に鳥居を作ったそうです。
 4年後、マリエは夫の家から追い出されました。離婚後もずっと居座り続けたのですが、N氏は結婚する二男に家を渡したかったようです。
 現在、マリエは5人の孫のおばあちゃんです。孫に会うために足しげく元夫の家に通っているようです。

  
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チェコのネズミ小僧と赤ブナの木

2005-05-29 08:30:00 | Weblog
 記憶がゴチャゴチャになってきました。とうとうアルバムを取り出しました。
       
 私が歩いたところは≪LUZICKE HORY≫という森でした。
実はイジナが行き先々で土地の名前を忘れない様にと絵葉書を買って一枚ずつくれたのです。それがアルバムに納まっていたのです。

 7月29日早朝、出かけようとしているマリエの夫N氏に会い挨拶をする。マリエは洗濯物にアイロン掛けをしていました。私のTシャツ、ジーパンにまで!!私はアイロン掛けが嫌いなのでノーアイロンで着ているからと途中で止めさせました。

 それからが大変!! 彼女はまとわりつく犬達を追い払いながら、にわとりとウサギにエサをやり、7時には新しいパンがくるからと自転車で店へ出かけました。その間、私は彼女が用意していた菩提樹のお茶を飲みながら、優雅にも2階のテラスでお茶と朝の空気を味わっていました。菩提樹のお茶は女性の体に良いという話です。
 チェコではビ-ルまでも自分の健康に合わせて選ぶのです。薬用として飲んでいました。

 サンドイッチを作り、泉のあるところに駆け下ったのは8時過ぎ。マクスとイジナが待っていました。マクスは妻と二人暮らしです。イジナは夕べからマクスの所に泊まりエスペラントの特訓を受けていました。-ant-、-int-、-ont-、-at-、-it-、-ot- という分詞形が理解できないと嘆いていました。

 ドイツ人が二人くる筈だが時間だからと私達は出発しました。途中マクスは丈夫そうな枯れ枝で杖を作りイジナに渡しました。イジナは腰の骨(腰椎)が分離しているのです。

 途中、ライネとマリアンネの兄妹がタクシーで追いつき、グループは6人なりました。ブルーベリーを摘み、摘み歩きながら食べるのですが、これはみずみずしく美味しくて喉を潤してくれます。
       

 数立方メートルもある大きな岩の重なった場所に着く。マクスは70才近いのにとても身軽でヒョイヒョイとまるでカモシカみたいに駆け上がってしまった。私も負けずによじ登る。岩の上の風の感触もまた心地良い。

 20年程前、金儲けをしている者を狙う泥棒が現れました。勿論まだ社会主義時代です。彼は盗んだ金の一部を貧しい村の家々に投げ入れていました。警察が何度も捜査にこの広い森に入りましたが、泥棒はこの岩の中の入り組んだ所に隠れ家を作って潜んでいました。村人が協力しないので、警察は泥棒の居所がつかめず、彼を逮捕できませんでした。数年たったある厳しい冬、この泥棒は町まで出かけることができなくなり、村人の家々にに押し入り食料を盗みました。怒った村人達は雪解けを待って、この岩を取り囲み泥棒を捕まえました。まるで日本のネズミ小僧のようです!!

 小高い場所で昼食を食べました。イジナが持って来た見事なきゅうりが水代わりでした。それから展望台のある場所に出て、展望台から森の向こうに見えるヤブロネツの町を見を下ろしました。展望台のあるところには必ず宿泊施設と休憩所があります。
  そこで美味しいビールを飲んで散歩続行。いつのまにか林を抜けていました。

 民家の横に艶やかなエンジ色の葉持つ大きな赤ブナの木が立っていました。この地方で一番大きなブナの木だそうです。この木を見るといつも元気が出るとイジナが言いました。大地は緑一色の草地です。
『昔、住んでいた頃と同じ!』マリアンネが言いました。
 この兄妹は戦後、チェコから追放されたドイツ人だったのです。

 ライネがポツンと言いました。『僕のように心の病気を持っている者にとって森歩きは本当にいいね!! こうしているととても落ち着く・・・。』と。

『僕は14才だった。ドイツ人とみなされてキャンプに収容されたのは! 』マクスが話し出しました。その時マクスの母親はキャンプの前に立ち、『私の息子を返して!! あの子はチェコ人だ。ドイツ人じゃない!! 』と数日間叫び続けマクスを取り戻したそうです。

 話はドイツの戦後保障に及びました。チェコ人の多くは金による弁償よりも、もう戦争に巻き込まれないこと、自分達の国が自主独立国家として続くことを願っていると。
 彼は父親については語りませんでした。


 ライネが私に言いました。『何で草原にしておくんだと思っているだろう? 石ばかりで耕しても耕しても石が出て来るんだ!! 』『そうなの。子どもの頃、親が野菜を植えようと耕してたら、石ばかり出てね、その石を運び出しすのが私達の仕事だったの! 』とマリアンネが付け加えました。ここは農業も牧畜もできない土地だったのです。
    
 

 この日は7時間歩きました。人は疲れずにこんなにも歩き続けることができるのですね!

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森へ!!

2005-05-27 09:25:35 | Weblog
 7月28日午前中、マリエはプラハ滞在の一週間分の洗濯物や家の雑用で大忙し。私は二階のテラスに座って彼女が洗濯物を干すのを手伝ったり、風に吹かれ、その音を聞きながらゆったり過ごす。家は高い木々に囲まれていて、栗鼠が枝を駆け巡リ、小鳥がさえずっている。菩提樹の香りは爽やかと言うより甘く優しい。家の前の道路の向こうも斜面になっていて車が時々やってきては停車する。

 道路の向こう側には泉があるのです。水道水は美味しくないのでマリエの家では料理はすべて泉の水ですが、最近泉のことを聞きつけて車で水汲みに来る人が多くなり、森が荒れてしまったと彼女は嘆いていました。 



  午後バスに乗って森へ出かける。
 バスは森へ行く人でいっぱいでした。もう酔っている人もいます。私達がおしゃべりすると人々はマリエに色々と質問し、彼女が答えています。話題はエスペラントでした。

 バスは木々の鬱蒼と茂った薄暗い狭い道を崖に沿って走って行きます。山側に小さな家が点在し開け放された部屋の中で寝そべっている人が見えます。

 昔、これらは農民の家でした。小さな家に子沢山の貧しい農民達が暮らしていました。冬になると雪で道は閉ざされ陸の孤島になりました。収入も少なく時には食べ物もなくなり生活は悲惨だったそうです。プラハで成功した人達がこれらの家を別荘として買い、昔の住民は都会へと流れてゆきました。

 バスがついたのは湖のある場所でした。バス停から原っぱになっている斜面を上ると森への入り口がありました。その野原には30cmほどの背丈の小さな黄色い花をつけた草が群生してました。これはお茶になるから帰りに摘みましょうとマリエが言いました。

 森の道はすくっと立つ木々間を縫って続いています。所々に開けた場所があり、今はブル-ベリーが沢山実をつけています。バスの乗客たちはわれ先にとブルーベリーの群生場所に急いでゆきます。午前中から来ているらしく家族がブルーベリー摘む横で酔っ払って寝ている人もいました。

 日本の林は藪があって虫もいますが、チェコの森の地面は背の低い草と苔に覆われていて緑一色、空気は爽やかで本当に心地よい散歩でした。1時間ぐらい歩くと湖に着きました。
 赤い蝶が飛んできました。私達以外この世界に人間が存在しないかのような静けさです。湖は酸性が強く魚も住めないということでした。

 帰り、バス停近くの原っぱで黄色い花の草を抱えられるだけマリエは摘みました。老夫婦がベンチに座っています。目の前のテーブルに直径20センチを越える何かが置いてあります。近寄ってみるとまいたけのようなキノコでした。彼らは私に欲しかったら持っていって良いと言っているそうです。
 私は『ありがとう、でも旅行中なの』とお礼を言い、マリエに通訳してもらいました。私が貰うと言い出したどうしようとハラハラしていた、売れば老夫婦にとってかなりの収入になるはずだと後でマリエは私に言いました。
 なぜかチェコ人は心が広く優しいのです。後に温室を見せてもらった時も無理やり花を持たされました。
                 

 帰りのバスはブル―ベリーを抱えた人でいっぱいでした。牛乳パック(2リットル用)に入れ、蔓で編んだ籠に幾つも入れている人、ブリキのバケツに入れている人などさまざまです。それらは自分達が食べるためでなく収入のたしにする人が多いそうです。子どもにとっても良い小遣い稼ぎなのです。
 ブルーベリー摘みは家族団欒、森林浴と収入増加の三拍子揃った余暇の過ごし方でした。

 お茶の後、クネドゥリーキを作りました。
 ジャガイモを茹でて潰し、小麦粉とイースト菌を加えて練り、棒状にして直径8cm程に発酵させる。それを茹でたのがクネドゥリーキでした。タマネギを甘酢で味付けしたものがソースとして添えられました。夕食は9時過ぎ。これが肥る前兆でした。

     
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チェコ北部ヤブロネツへ

2005-05-26 08:26:16 | Weblog
 7月27日正午前、1996年のエスペラント世界大会は終了しました。会場のテラスの椅子に座ってプラハの遠景を眺めながら、帰りを急ぐ人たちにさようならをします。ヤブロネツ行きのバスは夕方なので大会の余韻を楽しむことにしました。
              

 東京からきたという女性がマリエに墓地に案内して欲しいと頼みました。彼女はカフカのフアンで、彼の墓を訪ねたいというのです。ユダヤ人であるカフカがあの墓地に埋葬されていると思えないのですが彼女はどうして行きたいと言います。私達は荷物を受付に預け、会場の裏の道からまた墓地へ。

 やはりカフカの墓はありませんでした。

 今度は、ガラス細工がある店に連れて行って欲しいとこの日本人は彼女に言います。まだ時間があるからとマリエが言うので3人で地下鉄に乗り街へ。
 ガラス細工を売っている大きな店を数軒回りました。あちこちで仲間と思える人々に出会います。彼女は小さな細工物をを何点か買った後、お礼に食事を奢りたいと言い出したので、昼食抜きだった私達は路地にある小さな食堂へはいりました。チェコ人しか入らないような店でしたのでこの日本人はとても喜んでいました。

 店を出た途端、時間がないとマリエは言い出し、町をぶらつくという彼女を残して私たちは路面電車に飛び乗りました。数人のエスペランティストが乗っていました。私達と一緒にイギリス人女性がが乗り込みました。
 反対の電車の窓が開き、女性が袋を振りながら叫んでいます。彼女はポーランド人でこのイギリス人の友人だそうです。イギリスの友人に渡そうと持ってきたお土産を持ったまま彼女はさようならしてしまったのです。
 ”私はどちらでも良いけれど、あの人戻ってくるわね!!”イギリス人女性は笑い、次ぎの停留場で戻って来るだろう友人を待つために下車しました。

 私達も大急ぎで荷物を受け取り地下鉄でバス乗り場のある駅へ。 

  ヤブロネツは地図で見るとプラハの北北東にあります。この町より少しドイツよりにある町リベレッツと並んで日本の地図にも乗っていますからかなり大きな町でしょう。マリエの家は鉄道駅を挟んで繁華街とは反対の方向、高台にありました。
 その家はがっしりとした石造りで、夫の父親が第2次世界大戦後すぐ、社会主義政権が確立される前に買い取ったということでした。傾斜面に建っているので、正面から見ると4階建てですが2階部分にも玄関があります。地下部分には年老いた夫の母親が暮らしていました。
 社会主義政権は私有財産である家を没収しませんでした、しかし移動を禁じられたこの地方の農民は貧しさに苦しんだと後で聞きました。

 この地方は準宝石といわれる鉱石が産出するのでドイツ人の手によって開発されました。またボヘミアガラスの生産地でもありました。戦後は住んでいたドイツ人が追放され、ドイツ人と結婚していた人達も大勢いたので、家族離散を余儀なくされた人も多く、戦後の混乱の中で多くの人々が苦しみました。

 家では、3匹の犬に歓迎され、マリエが私のために空けてくれた2階の彼女の部屋に案内されました。二人の息子は外出していていませんでしたが、私たちのためにシチューが作ってありました。
 家のあちこちに亡くなった娘の写真が飾られていました。私の泊まった部屋には幼児期から亡くなった17才までの沢山の写真が壁に貼り付けてあります。20年近く経ってもマリエは自殺した娘への思いをいつも持ち続けているようで、何を見ても、何をしても娘の思い出と重なってしまうのです。

 娘はお母さん、エスペラント頑張りなさい!!そう言って、エスペラントの講習会に通い始めた時二人の小さな弟の世話を引き受けてくれたそうです。
 成長した彼女は≪お母さんはエスペラントを続けなさい、でも、私はもうこんな社会はいや!!≫いつもそう言っていました。 ある日、友人とピクニックに出かけたさい、突然、服を脱ぎ捨て、川に身を投げてしまったのです。マリエの元にはその服しか戻ってこなかったと言うことでした。

 どこかで生きているような気がする。どんなに今の生活が経済的に苦しくても二度と社会主義には戻らせないと彼女は言いました。
 私達は社会主義が崩壊したと表現をしますが、彼らは≪私達は革命を起した。≫と言います。つまリ社会主義崩壊ではなく、革命によって自由主義を勝ち取ったと表現するのでした。

 夕暮れの中、木々に囲まれた道を丘へと上って行きました。 

 ガラス製造にしても鉱石採取にしても仕事は埃まみれです。この地方では肺や気管支を患う人が多かったので、森林浴と言う健康法が発達したそうです。そのため、森の中を歩く行程が整備されていて、必要な所に食堂をかねた休憩所と展望台が作られました。全行程を歩くと3週間かかすそうです。ある人は3週間歩き続け、ある人3日間あるく。その道もバス停や鉄道の駅からそれ程遠くはないところにあるのです。

 その丘の上は昔の展望台の一つでした。
 夕暮れの中にヤブロネツからリベレッツへと明りが灯ってゆきました。人々は低地に住んでいるらしく、高台から見ると、明りは蛇行しながら闇の中に沈んでいました。

 いよいよ明日から散歩三昧の日々が始まります。


   
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 若者が作っている雑誌:La amikeco

2005-05-25 05:07:06 | Weblog
 またまた面白いものを見つけました。韓国、中国、ヴェトナム、日本の若者が作っているインターネット雑誌≪La amikeco≫ です。
 エスペラントの歴史を4こまマンガにまとめているなんて凄いですよ!! まあ、大胆ともいえますが。
     

 言語はエスペラント、英語、中国語、日本語、韓国語、ポルトガル語、ヴェトナム語でした。マンガですから簡単です。雑誌作りに興味のある方やことばの違いを比較したい方は、訪ねてください!

 La amikeco と書かれた上に Esperantoという文字があります。そこをクリックしてください。

 http://www.la-amikeco.net/ 

 やっぱりブックマークに入れておいた方が訪問し易いですね。

 今日は忙しいので失礼します!! 
     
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気分を変えて!!

2005-05-24 08:07:21 | Weblog
 あちらを見ても、そちらを見てをテンプレートに変化が!!
 雪景色ではと私も夏色に変えました。
                   

 さて今日の話題は昨夜のカレーにしましょうか。昨夜は茄子を軽く油で揚げ出し汁で煮て、ごまであえる予定でした。油通しするのは茄子の色が変わらないようにする為だけですので中まで火が通っていなくても良いのです。

 茄子を揚げているうちの茄子のカレーが食べたくなりました。茄子のスパゲティーも大好きです。シギ焼きも好きですが、茄子は油と相性が良いですね!! 

 タマネギはみじん切り、セロリとニンジンはすりおろし小さくなった部分はみじん切りです。こんな時残った野菜は何でも入れてしまうのが私流です。
 ありました。赤いパプリカが半分、キャベツ少々、生姜少々。にんにくは品切れ!でも、サラダ用にオリーブオイルで揚げておいたカラカラにんにくが大さじ2杯ほど。生の野菜はすべて微塵切りです。

 買い置きのジャガイモもありますがこれは使いません。茄子カレーの美味しさはさらりとした舌触りです。

 オリーブオイルでタマネギを良く炒め、微塵切りとすりおろした野菜も入れて炒めた後、塩少々とカレー粉少々、我が家の分量の水と油通しした茄子を加えて、弱火でコトコト約30分煮込みます。
 ここでいつもの半分強の市販のカレールーを入れたら一休み。

 私はせっかちなので、ルーが溶けるまでガス台の前で待機していたくないのです。待ち時間は10分でも5時間でもかまいません。外出前にここまでしておくと帰ったら仕上げ時間15分で美味しいカレーができるのです。

 最後は仕上げです。塩味を調整してひと煮立ちさせて出来上がりです。

 今日のお味は? とてもとても美味しかったです。思わず‘ベルリンのカレーとは比べられない‘と絶賛!!

 1昨年、世界エスペラント大会はスウェーデンのエーテボリで開かれました。大会前にドイツの知人宅に寄ったのです。ドイツ人の一般的夕食を試みようと、街路にも椅子を並べている普通のインド人の店に連れて行ってもらいました。そのカレーと比較などできないほど我が家のカレーは美味しいです。

 それにしても日本人の食事は贅沢ですね。
 栄養豊富、しかも簡素な食事はないかと日々研究しております。 

    
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ニューヨークに住むエスペランティスト

2005-05-23 07:50:04 | Weblog
olduloさんのブログにエスペラントの短いコメントがありました。訪ねたらなんとニューヨーカー!!
            

 6ヶ国語を話すエスペランティストですって!!エスペラント以外に他の言葉による記事もあるようです。
 好奇心のある方は訪ねて見てください!!

http://bendisplanet.blogspot.com/ 

 やっぱりブックマークの最後に入れておきますか。
   
 
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チェコの犬たち

2005-05-22 13:00:25 | Weblog
 本当はエスペラント大会の後に訪ねたボヘミアの森の話しを書きたいのですが、その前にチェコの犬の話しを!!

 プラハの大通りでも大きい犬や中型の犬もゆったりとご主人様と散歩をしています。よく見ると大型犬は誇らしげに口枷を首か下げ、ゆらゆら揺らしながら歩いているのです。電車が来ると飼い主は枷をさっと犬の口につけます。犬も人も慌てることなく悠々と電車に乗り込みます。地下鉄など同じ車両に数頭乗っていても気にもかけず、まるで盲導犬のようにおとなしく飼い主の足元に座ったり寝そべったりしているのです。ボストンバックか首を出し、ラクチンしている犬もいました。

 チェコ人の犬好きは相当なものでした。エスペラント仲間マリエの所には3頭の犬がいました。ダックスフンドは家の外へも自由に出入りし寝るのもマリエと一緒でした。中型犬はご主人のお供で狩りに行きます。 大型犬はまだ子どもだそうですが、4本足で立っていても私の脇ぐらいの高さです。

 マリエの家に着くと犬たちの大歓迎に会いました。この大きな犬は、私の体に体を摺り寄せしっぽでバンバン叩くのです。直径8cm以上あると思える尾の力は大変なもので、後で見ると赤くなっていました。到着した日だけでなく毎朝、この挨拶を受けました。挨拶させないと一日中不機嫌だとマリエ言います。彼らは朝の挨拶が終わると満足して自分のねぐらのある庭へと引き上げるのでした。

 森を歩いていて時々里に出ます.犬の鳴き声か聞えるとマリエもイジナも犬が呼んでいると言って遠回りでも犬の傍に行き挨拶していました。彼女達に言わせると犬が吠えるのは飼い主がしっかりと面倒を見てやらないので、犬が淋しくて知らない人を呼ぶのだそうです。可愛がられている犬は他人がその庭に侵入しない限り吠えないということでした。犬を泣かせる人は犬を飼う資格がないとも言っていました。

 車の通る道路に犬が飛び出してきた時の彼女達の怒りようは大変なものでした。犬が道路に飛びすような躾をしているとは何たる事か。しっかり教えておかないと犬の命にかかわると言うのです。

 確かにその通りですが・・・.

 現在の日本では、どれほどの親が我が子が自分の命を守れるような躾をしているのでしょうか。

 最近、女性を監禁したり、襲って殺害する若者も数年前まで子どもでした。育て方に問題があったと思いませんか。

 自由の尊重ということばの陰で、私たちは子どもの成長過程を軽視していたのではないしょうか。

  
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エスペラントを続けるために

2005-05-20 10:04:23 | Weblog
 昨日は月2回の輪読会の日でした。初めは4人で始めた輪読会でしたが、今は8人。時々入会希望者がいましたが断っています。グループとして良い人数ではないかと思うからです。さて、何年経過したかと最初に読んだ本を調べてみたが日付けしか書いていませんでした。多分14年目に入ったことと思います。

   

 最初の頃は凄まじかったですね。文法の解釈で食い違うと喧喧諤諤と論争が始まって・・・。今は論争はほとんどないのです。それだけ私たちも進歩したということでしょうか。あるいは老獪になったということかもしれません。
 
 
 厚い本では3年間読み続けたのもあるのです。

 先生がいない会の良い点はわからないことを突っ込んで議論できる事です。他人に解決してもらって『ハイ、わかりました。』では自立した考えに到達しないでしょう。わからにことは徹底して互いに調べ続けています。

 なぜ、こんなに語学学校が多いのでしょうね。学校は初めの手ほどきとして必要でしょうが、趣味的なものなら自分達で調べ努力した方がはるかに身につくと思うのですが。

 また、先月より月一回のエスペラント会話の集まりを呼びかけました。明日が二回目です。誰も喋ってくれず、みんな聞き手に回ったら、呼びかけ人の私はどうしたら良いのでしょう。不安で一杯です。ネタになるものはないかと、本や雑誌を斜め読みし、話題を捜しています。
                     

 休憩はここまでとしましょう。
 
  
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プラハ散歩: LA TRIA

2005-05-19 09:11:37 | Weblog
 先日書いた文が消えていたのでまた書き直しです!!   
             

 王宮前の大通りに大きな鳥かごが置いてありました。『まるで人もはいれる見たいに大きいね。』と言うとイジナは『人を入れたのよ!』と答えました。
 昔、姦通をした女は数日間裸でこの檻に入れさらし者になったそうです。男性にはなんの咎めもありませんでした。どこの世界も女性には厳しかったのです!!

 小さな橋を渡り、カレル橋を上の方に見ながら川岸の公園を通って地下鉄の駅へ。公園で日向ぼっこしているのは地元の人ばかりです。風が菩提授の香りを運んできて楽しい散歩道でした。

 マクスが案内してくれたレストランは駅から数分のちょっと薄暗い店でした。天井近い壁にはどこかで見たような沢山のデッサンが飾ってありました。

 中学生の時だったでしょうか。≪兵士シェヴィクの冒険≫という本を読んだことがあります。覚えているのはシェヴィクがひとりで歩いていて、喉が渇きマルメロの実を取って食べる場面です。マルメロがみずみずしく美味しそうだったので食べたいなあと思い記憶していたのです。後にチェコ文学を研究している人からマルメロは日本のカリンと同じ種類だと教えられ、庭に実ったカリンを食べてみましたが美味しくありませんでした。

 この店はシェヴィクの話を書いたハシェックが通っていた店なのです。主人はエスペラントが話せないのに外国人がきたのを喜んで、料理を運んできてはハシェックの絵の話に余念がありませんでした。彼は凄い放蕩者でいつもお金が無く、また金が入ると仲間を集めてドンチャン騒ぎをしてすべて使い果たし食事代にこと欠くと代金変わりの絵を書いていたそうです。私たちが座った大きなテーブルは彼の書斎でもあったそうです。

 マクスが言ったように何クローネか忘れましたが値段も安かったですし美味しかったです。私は彼の勧めでサワーキャベツ付きのクネドゥリーキとビールでした。チェコ人はタマネギ付を食べる習慣があるそうですが、マリエが後で自分が作って食べさせると私のをメニューを変更させたのです。

 これで、プラハ散歩は終わりです。店を出て数十メートル歩くと古い街並みの上に長い橋が掛かっていてその橋はエスペラント会場まで続いていました。とても安く美味しかったので翌日もマリエ達とこのレストランへ古い街を下に見ながら歩いてきました。

午後も、またその後も、一日遠足を除く日々はまじめにエスペラントの会合に参加しました。
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また子どもが犠牲に・・・。

2005-05-18 08:16:43 | Weblog
 今の日本はどうなっているのでしょう。昨日また埼玉県で、6年生の女の子が母親に絞殺されました。昨日は今年1月3歳の長男を浴室で水死させたとして30才の母親が起訴されています。親以外の暴行・殺人事件を見ると子どもの被害は頻繁に起こっています。

 人は母性本能があると一般に言われています。それは希望的願望であって事実ではありません。母性本能は後天的に学んだものであって先天的に与えられたものではないのです。
 昔マリノウスキーという文化人類学者の本を読んだのですが、その中の一冊に母系社会を観察した本があったのです。そこでは女は一切子育てをしません。乳児期に授乳するだけで子どもの世話はすべて父親の仕事です。ですから、私たちが母性本能言うような感情は母親には見られず、父親が細やかな愛情を子どもたちに注ぐのです。

 サルの集団においても未婚の若い雌が子どものお守りをしたりして子育てを学んでいます。
 第2次世界大戦前、日本はとても貧しかったですし、兵隊を生み出すために女は沢山子どもを産むことを暗黙の内に国によって強制されていました。子沢山の中で上の子は下の子の子守りをしたり、近所の子を面倒見たりしながら子育てを学んでいたのかもしれません。女を子作りの道具と考える時代に戻ってもらいたいとは思いませんが、なぜ、親が育児放棄をする時代になったのが考え、早急に社会的記対策を取らなければならない時期だと思います。

 40年程前、夫の仕事で児童養護施設に住んでいました。私は保母(今の保育士)さんが病気の時に駆り出せれ、全部たしても経験は1年ぐらいのものです。
 当時も両親共にいない子どもは少数でした。ですから、入所時児童の構成は現在の養護施設とよく似ているでしょう。違いは圧倒的に多くの親が収入不足で子育てができなかったということです。
 現在圧倒的に多いのは子育て放棄です。虐待したといって引き離されたのに引き取りたがり、引き取ると虐待を繰りかえす親もいます。なぜでしょうね。

 責任は現在の親を育てた親、つまり私の年代にあるだろうと私は考えます。
 戦前・戦中の貧しい生活を経験した私達の多くは、豊かな生活を物質的豊かさの中にあるかと勘違いしたのです。ですから、高度成長の波に乗ってより高い収入を目指し、自分が得られなかった物を子どもに与えることで自己満足していたのです。物を与えるにも与える者の気持があれば良いのですが、気持ちがなければ、ただ子どもの物欲を膨らませるだけです。そうして育てられた子どもはすべての価値判断を物に置き換える事になるでしょう。そして物への要求が満たされない時、自分の欲望を押さえられなくなるのでしょう。

 彼らは例え自分が欲しくて生んだ子どもであったても、その子に人格があるということは考えないのだと思います。子どもも自分の所有物にすぎません。自分の言うなりになっている時は可愛いいでしょう。しかし自分の分身であるべき子どもに自我が芽生えて来た時、どう対処してよいかわからなくなるのです。

 将来我が子が自己中心的にならないように育てるには、周囲の親仲間や先輩の体験から学んだり、助言を得ることが大切と思います。
 子どもに自我が目覚めてきた時、自分をそれにどう合わせられるか、子どもに自分の考えをどう理解させることができるか、これは大変な精神的重労働です。子育ては常に自己の中で葛藤があり、子どもに理解してもらうための長い待ちの時間を要するものです。

 こんな時、愚痴が言える仲間、励ましてくれる仲間がいれば子育ては楽しい時間に変わります。信頼できる仲間を作りましょう!

 物に頼らず、子どもと楽しめる時間を作りましょう。悪いことをしていても、他人の子どもはどうでも良いというようは風潮をなくして、みんなで協力しあいませんか。

 実は私も、子どもと会えるボランティアをしています。
   
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プラハ散歩: LA DUA

2005-05-17 12:50:00 | Weblog
 大会2日目朝からプラハ散歩です。ドイツ人のアネマリエとチェコ人のマクスが同行しました。グループは8人ほどでした。地下鉄の中で目の鋭い男が私たちに近づきました。電車が止まった時、体の大きいアネマリエがすばやく私の前に立ちました。男はイジナのバックを引っ張りました。アネマリエより小柄といってもイジナも背たけは170cmはあるのです。アネマリエがその男を突き飛ばしました。男は引ったくりに失敗して電車を下りました。自由社会になってからこうゆう輩が増えたという事です。
  

 イジナはエスペラント学習まだ6ヶ月、込み入った事は表現できません。旧市街では歴史や建設の説明をチェコ語でしてくれました。それをマクスがエスペラントで通訳してくれます。有名な時計のこと、オーストリアの支配に抵抗して、オーストリア皇帝に処刑された人々を公に祭ることができないので、広場のタイル(レンガだったかな?)の色を変え、十字を描き記念碑とした事、だからチェコ人はそのタイルを踏まずに歩く事。市役所はもとスラブの貴族の所有で彼はドイツ嫌いで彼に窓から放り出されたドイツ人が、下がたい肥置き場だったので臭くなりながら命拾いした話など。
  

 傑作はユダヤ地区散歩。観光客は何がしかのお金を払ってユダヤ人墓地に入っていました。イジナはただ墓を見るのにお金を払うのはもったいないと言います。彼女は私達を墓地の裏手に連れて行きました。なんと墓地を囲むレンガの壁が2メートル近くも崩れ落ちていました。狭い墓地は見渡せますし、お金を払って入ってくる人達もすぐ目の前にいます。ちょっとばつが悪かったですね。
  

 カレル橋を渡る時、彼女はすべての聖人の名前の経歴を覚えています。もちろん彼女はクリスチャンではありません。私は日本の歴史上の人物、その時代背景などすっかり忘れています。自分の文化を他国の人に伝えるのにはそのような知識が必要だと深く反省。ただ反省だけですが・・・。

 王宮横の庭園で交替に向かう衛兵と会いました。写真を撮ろうとしたら近寄ってきて、一緒に写真に収まってくれました。
 
 ≪途中から半分書いた文が消えています。おかしいですね!?≫
 もう休憩!!
 
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エスペラントは西欧至上主義か?

2005-05-16 09:22:28 | Weblog
 今日は朝から燃えました。
               

 Lignponto さんのブログのコメントに≪エスペラントは西欧至上主義≫ではないかという書き込みを見たのです。そこで、自称エスペランティストの私は、自分のブログを書くくらい張り切って真剣にコメントを書いたのです。ですから今日はこのブログはお休みです。
                 

 是非、Lignpontoさんのブログに書いた私のコメントを読んでください。お願いします。

 Lignponto さんのブログへは私のブックマークから行けます。

 記事は:
 5月3日 ≪横浜エスペラント会入門講習会のお知らせ≫ です。
  
  
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アンゲレに会う

2005-05-15 09:29:39 | Weblog
 プラハ大会一日目の夕方、会場前でアンゲレを待ちました。アンゲレはリトアニア人でカトリック系の学校で宗教とエスペラントを教えています。リトアニアではエスペラント国際教育機関で行う試験に合格するとエスペラント教師としての資格を得ることができるそうで、彼女はいつも数人の教師を引率しています。
 
 夫のDVが原因で離婚し、といってもカトリック教徒ですから正式に別かれることはできませんが、一人で息子を育てました。
 手紙の内容は、息子の事、菜園のことなど日常生活のことが主です。この学校では年に1~2回国外旅行に行くということでした。国外といっても以前は東ヨーロッパが主な行き先でしたが、常に国外に目を向けた教育が行われているようです。
 先日、ロシアが第2次世界大戦勝利の祝賀会を行ったのに対し、リトアニアは支配者の交替と位置付けて出席しませんでした。彼女の自分の意志を貫く頑固さはリトアニア人の典型かもしれません。ダンスが好きで音楽に合わせて、踊って踊って踊りまくります。まるで戦いの踊りのように激しく踊るのです。

 アンゲレは数人の仲間と一緒に出てきました。紹介されたり自己紹介したりとにぎやかな声が飛び交います。ヨーロッパ人のしゃべり方の早いこと、頭で文を組立てていたのでは会話に入り込めません。
 思わず『ああ、私にも話させて!』と私は絶句・・・。周りは静まり返り『ボンヴォルゥ、ボンヴォルゥ』(どうぞ、どうぞ)とみんなの視線が私に向き会話は中断となり・・・。

 二人だけになって写真を撮ろうとしたら、傍に誰もいませんでした。数メートル離れた所で私達を眺めていた男性に写真を撮ってくださいと頼みました。
 『今のがエスペラントかい?私は6ヶ国語話せるけどエスペラントは始めて聞いたよ。』
 彼は私達のカメラを受け取り写真を撮ってくれました。

 この話しをしたら、友人達は彼が何語で話したかと聞くのです。私には全く記憶がありません。英語だったのでしょうか。私は英語は話せないのです!!
    
コメント (2)
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