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生きること:過去と未来とエスペラントと

エトゥルリア時代の町:コルトナ

2006-09-25 11:04:52 | Weblog
 7月27日紀元前3世紀頃、エトゥルリア時代に作られたという町に連れて行ってもらいました。

アレッツォを出てローマへの街道を走りこと30~40分。まさに田舎の街道を行く気分です。道路のところどころに赤い印があります。それは現在にあわせて作られたローマへの里程標でした。村(町?)の名前も面白い。そこの産物が主な名前になっているということです。例えば、靴とか酒の名前など。

 やがて街道をそれ荒地(?)とも見える畑の中を道はらせん状に登って行きました。大きな石の門の前の駐車場で車をを下りました。

石の門は大きな石が積んででありますが、城壁の下の部分は薄い板のようない石が積み重ねられています。これは紀元前3世紀頃に作られた城壁の名残なのです。
コルトナの町の中央に出るためにはやはりらせん状の石の道を登ります。ところどころに人が一人通れる位の急な坂や階段の道が主要道路であるらせん状の道を結んでいます。この細い路地にも名前があります。住民の家族名や職業名がついた道もあります。イタリア語で朝焼けとか夕暮れとはどう言うのでしょうね。

エスペラントではアゥローロ。ここには朝から日が入りますが午後には日陰になります。ヴェスペーロ(夕べ)ここには午後遅く日が入るというようなお日様にちなんだ名前がついている道もあります。
道の両側は石垣が高く聳え、その上から木や時には犬や猫が通りを歩く人を眺めています。
つまり、家には日が入るように工夫されているのでしょう。

この産物は陶器とワインです。伝統的模様はレカント(マーガレット)、三日月、太陽、星、野草などです。大きな10キロはあるかと思える赤土の壁飾りなどもありました。

小さな町なのに教会が数ヶ所あります。その中でも一番高いところにある立派な教会が聖マルガレータ教会です。マルガレータとはマーガレットのことです。カトリック教徒は生まれ月によって守護神がいるそうで、友人のレカントは自分の守護神マルガレータのエスペラント名を名乗っていたのです。

 聖マルガレータはコルトナで生まれました。彼女は50歳でなくなるまで、教会の近くの城壁から見下ろせる荒野に掘っ立て小屋を作って住み、薬草を採取しこの町の貧しい人々を助け、病院を作ったのだそうです。

 この町の陶器の絵がつい最近までマーガレットだけと言うのは人々の聖女への感謝なのだろうと推測できました。

 現在は冬にはアメリカの大学が二つ、市当局から建物を借りてコルトナで授業を行っているので、観光客が増え豊かなようでした。

 住民はローマ以前からこの地に住んでいる人々の子孫で彼らこそ混じりけの無いイタリア人とレカントはいいました。
日本酒の代わりにワインをレカントのお父さんに買おうとしたら、ここで売っているワインよりズーと安く美味しいワインを彼が持っているからと言われ、お土産にそのワインを持たされてしまいました。

 夕食の時コルトナの話になるとレンカントのお父さんがいいました。コルトナの冬は辛いと。レカントの説明によると1945年、イタリアが戦争に負けた頃です。兵隊がふざけて銃を乱射し流れ弾に当たって彼の父親が亡くなりました。母親は5人の子どもを育てることが出来ず、上の二人をコルトナにある孤児院に預けたということでした。私と弟は孤児同然に育ったとレカントの父親はいいました。父親が殺された時彼は10歳だったそうです。
 
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ヨーロッパの城塞都市

2006-09-20 10:42:09 | エスペラント
 アレッツォはローマ時代にすでに存在していた古い町で、フィレンツェから急行で40分ぐらいです。急行と言っても特別料金がいるわけではありません。
 ヨーロッパの城とはどんなものか知るにはこのような小さな町のほうが理解しやすいと思います。例えば、ローマなど7つの山に囲まれていたと言っても周りに山など見えません。あの巨大な建築物を作るために石を切り出しているうちに山は小さな丘になったのだそうです。

午後はアレッツォの町へ。町には駐車場がないというのでバスで出かけました。

なんと丘登ってゆくと辺鄙な場所でバスを降りることとなりました。バスの通らない坂を少し登ると空き地に出ました。その向こうに城壁が見えます。石の門の前に立つと下に今来た街並みと平野が広がっています。門から伸びる石の道がまっすぐにローマ方向に伸びています。

 全ての道はローマに通じるというのが分るでしょうとレカントがいいました。

 町へは10人乗りくらいの小型のバスで入る事もで来ます。石畳を歩いて坂を上って行きます。当然建物も石造りです。厚さは50センチぐらいでしょうか。商店が有ります。商店の入り口には石が切り取られた跡があります。昔出入口は裏だけだったのです。現在の正面の入り口は出窓のようになっていて、それがショーウインドウであり、お金や品物を受け渡す盤台でもあったのです。近世になり石を切り取り出入り出来るようにしたのです。
ですから、切り取られた石の跡と以前からの石の面とでは空気に触れていた時間に数百年の違いがあるのです。

トスカーナ地方の石は砂岩が主で大理石は産出しません。ですから色もとても地味です。

丘の上には教会があり、沢山の宗教画が飾ってあります。レカントは画家の説明も丁寧にしてくれるました。確かに彼らイタリア人には貴重な財産であるけれど、クリスチャンではない私にとっては受胎告知とか同じ様な画題が多いのでどれがだれの作品か認知できなく、混乱し、知識としては覚えられないでした。

教会を出て、少し下るとこの城塞都市の広場にでます。もしかしたら貴族たちはここで政治論争などしたのかも知れません。その丘の北には石の建物があり柱廊があります。

 エスペラントではKolonaro ― kolono(柱)+aro(群)

つまり石の柱が並んでたちその上に石の屋根、或は建物があるアーケードのような通路です。これは中世の初期にはまだなかったそうです。

そしてこの建物には貴族達が住んでいました。建物にはトイレも浴室もありませんでした。彼らは汚物を窓から広場に向って捨てました。広場に届くはずもなく道路に落ちます。運悪く通りかかると汚物のシャワーを浴びる事になります。女性たちはもっと大変でした。乾燥の早い土地とは言っても、濡れている時もあるわけですから、スカートの裾が汚れます。そこで考え出されたのがこの柱廊だったのです。

 ですが、外に捨てられた汚物は乾燥すると宙に舞ます。ですから、空気が汚染されました。その結果中世のヨーロッパではコレラとかペストとか疫病の流行が後を絶ちませんでした。その後正面ではなく横の道の上に建物を付けたしてトイレつき洗面所を作ったのだそうです。

 ということですので、柱廊のある建物で、横にも出っ張っている建物を見たらそこは後から洗面所を付け足したのだと考えてください。そんな見方をすると街歩きも結構楽しくなります。

こうしてみると日本の城とヨーロッパの城との違いが良くわかります。日本の城は支配者のみが住んでいました。ヨーロッパの城は商人とか当時は市民権があったかどうかわかりませんが、一般人も一緒に住む都市そのものだったのです。

 こう言う知識は(?)海外文学を読む時に役に立つなどと悦に入っております。
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アレッツォでは

2006-09-16 10:27:30 | エスペラント
 7月26日午後1時40分駅に着くと友人のレカントが待っていました。駐車場が満杯で汽車が遅れた25分間駅の周りを走り続けていたそうです。

 彼女は兄と弟がいて二人とも結婚しています。ガイドが本職です。ガイドとして博士号を持っていると言うのです。日本とは制度が違うのでしょう。英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、エスペラントを話します。ベルリンには2年間留学していたということです。エスペラント歴はまだ4、5年でしょう。

 父は宝飾職人。母は数年前に脳血管障害を患い少し子ども返りをしています。誰も家にいないと寝てしまうそうで、その日もソフアで寝ていました。
 父は71歳ですが、技術があるのでまだ働いています。

娘は母を名前で呼びます。母親は私に何かしてやりたくて色々試みるのですが失敗すると『アンナマリア!』と娘に叱られ悲しそうな顔になります。ネックレスやブレスレットをを私に貰って欲しくて次々に持ち出して来ます。等々一つ貰わざる得ませんでした。4角く細工されたキラキラ光るネックレスです。

 私が通された昔子どもが使っていたであろう部屋にはベットが二つと人形や絵本が沢山飾ってあり、3人の孫たちがここに泊まってゆくそうです。孫の一人エンマが私の歓迎の為に作ったダンボールの上にESPERANTOという文字の入った絵も飾ってありました。

 家に着くなり彼女はピザを焼き始めました。汽車の中でパンを食べたと言えずじまいだった私は無理に食べました。彼女はヴェジタリアンなのでトマト味だけでしたのでまあ食べきれました。午後着の汽車で来たのは私としては昼食でレカントを煩わしたくなかったからですが。

 アパートは4階建ての4階。かなり広いです。両親の寝室、レカントの部屋、6畳ぐらいの台所、17~8畳の居間.夏には夕食はベランダで食べるようになっています。洗面所ももちろんトイレ・バスと一緒ですが、かなり広く、洗面所の鏡の前には花のほかに、口紅、香水のビンなど幾本も並べて飾ってあります。

居間の壁には写真や絵。その他ドライフラーワーなど。飾り付ければつけるほど掃除が大変と無精者の私には思えます。

アンナマリアは、私と話すのが嬉しくてアルバムなどを見せて、昔のことを色々と話し、亡くなった両親お写真を見ては涙していました。涙もろくなっているのです。

 午後には町に散歩に出かけましたが、今日は土曜日です。エスペラントの学習の準備をしなければなりません。アレッツォについては次回ということにします。

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エスペラントとイタリア語

2006-09-14 09:47:48 | エスペラント
 26日朝、2泊分の宿泊料を支払う。80ユーロ。
 買い物、パドバへの送り迎え4回、夕食2回は計算外なのでその分も支払いたいと申し出たがアルホンソ氏は80ユーロ示して譲らない。レカントのお父さんにと持ってきた日本酒があったのでそれ差し出すことのいました。レカントとはこれからも付き合いがありお礼の機会はあるけれど、アルホンソ氏とはもう会うことはないでしょうから・・・。

 彼の喜びは大変なものでした。すぐにノルマに連絡したようで、彼女が電話で直ぐにその喜びを伝えてくれました。

 イタリア人は自分の感情を直ぐに素直に伝えるのが上手です。日本人はその点は下手ですね。

もっと素直に自己表現をする努力をしますしょうよ、みなさん!!

   ただし私は正直すぎると言われます。

 彼は駅への途中でパン屋さんによりお昼に食べなさいとパンを買ってくれました。

 イタリア語の文法その他勉強したわけではないので分りませんが、言おうとすることはよく分かるようになっていました。

 中国語と英語を教えていたらしいアルホンソ夫人は、:イタリア語は形容詞が後に来るけれどエスペラントは前に付くのねと分析していました。

 例えばイタリア語で青い色はコローロ・ブルーア、エスペラントではブルーア・コローロと言うように。

 語尾の微妙な発音を捉えることはできませんが、語根だけで多くは理解できるのです。

 アレッツォへの列車の中でも、イタリア人同士の世間話も結構面白かったですし、列車が30分近く遅れているという車内放送も自然に受けとめていました。同乗者たちは私が分っていないのではと気が気ではなくて、荷物を通路に出した方が良いとかヤキモキしていましたが。



      

 この記事を書いている途中で義姉が亡くなりました。78歳の誕生日を迎えたばかりでした。姉妹弟たちは早すぎると嘆いていました。一口に78年。彼女の人生にはいろいろなことがありました。とても穏かな顔をしていました。双子の妹たちが、とても穏かに逝ったと・・・姉の事を誇らしく語ってくれました。
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アルホンソ氏の夕食

2006-09-04 15:35:30 | エスペラント
 7月25日私がヴェネチアに遊びに行った後で夫人は娘さんの所に出かけたということでアルホンソ氏が夕食を作ってくれました。

 昼食は沢山戴いたのでお腹が空くということは無かったのですが、イタリアの夕食も簡単でした。夫人は英語と中国語を研究していただけあって、知らない言葉にも臆する事はなく、充分にコミニケーションが取れたのですが、アルホンソ氏は自分はイタリア語で話し掛けるのに私のエスペラントには拒絶反応を示すので、パスタの名前は聞けませんでした。

8センチぐらいの四角なパスタで中に具が入っているのです。まるで水餃子のようにそれを茹でてくれました。

それに添えたのは夕張メロンと同じ感じのメロンを4つ割りにしたものを2切れ.その上になんと生ハムをたっぷりと乗せてくれました。生ハムがとても美味しいので、分けて食べたら、メロンを包んで食べなさいと手本を見せてくれました。飲み物は水です。

 この食べ方は一般的なようでレカントのお父さんも勧めてくれました。

夜は翌日移動するための列車の切符を買いに駅へ行きました。ところが、もう一人の犬連れの客が、道に迷ったと電話を寄越したので、出かけるのが遅くなり、窓口が閉まっていました。自動販売機で買うのに四苦八苦、とうとう見かねた若い女性が手伝ってくれました。年寄りはどこでも機械に弱いようです。
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