6月5日(日)東京で開かれた関東エスペラント大会に参加しました。
午後の遠足は東京代空襲・戦災資料センターが含まれていました。そこは私が一度行きたいと願っていた場所でしたので勿論この遠足に参加しました。私は、私の幼い時の友だちがどんな経験をしたのか知りたかったのです。
幼児期私はある田舎町に住んでいました。1945年、春、近くに住む6年生のお姉さんが私と同い年の女の子を連れて私の所にやってきました。彼女の名前はきょうこちゃん、戦災孤児でした。3月東京で空襲にあい、両親と弟(あるいは妹)を失ったのです。彼女の話によるとその空襲は日中でしたから、夜に襲われた3月10日の大空襲より前だったと思われます。
5才の女子が5才の友達から聞いた話しですから、強烈に響いたことしか記憶に残っていません。
そして彼女の話は・・・。
おとうちゃんとおかあちゃんがお芋を買いに行ったの。おにいちゃんと赤ちゃんと3人で留守番してたの。お昼が過ぎてから空襲警報が鳴ったの。お兄ちゃんが赤ちゃんを背負って外にでたら、通りの向こうからおとうちゃんとおかあちゃんが走ってくるのが見えたの。でも焼夷弾が沢山おちてきて、他所のおじさんたちが行っちゃダメって・・・。おとうちゃんとおかあちゃんのいる方じゃなく、反対の方にお兄ちゃんと一緒に走ったの。上野のお山に着いた時は暗かった。他所の人が直撃で赤ちゃんが死んでいるって言った。お兄ちゃんは赤ちゃんをお山に埋めたの。それから汽車に乗って伯父さんの家に私を連れてきて、学校に戻ったの。
夕陽を見る度に、きょうこちゃんは繰り返しこう話して大声で泣きました。5才の私には慰める言葉もなく、タダ一緒に声を上げてワァーワァーと泣き続けました。昭和20年(1945)はやけに夕陽が多かったように私には思えます。
後に私の母は、二人が泣いている時は手のほどこしようも無かったと話していました。その時きょうこちゃんのお兄さんは中学1年生でした。
彼女と友だちになって以来、私達は食事と寝る時以外はいつも一緒でした。私は兄弟が多くて食事もこと欠く時代でしたが、母は私と弟にオヤツをくれる時はいつもきょうこちゃんの分も忘れませんでした。朝、彼女が来ないと私は彼女を迎えに行きました。
きょうこちゃんの伯父さんは、いつもほんの少し明りが射し込む土間で木を削ったりしていました。指物師で病気があって兵役が免除になっていると大人たちは話していました。
私が覚えているその一家は、伯父さん、その妻、きょうこちゃんより一つ年上、当時国民学校一年生の女の子とおじさんの6年生の妹でした。
私が訪ねた時は、いつもきょうこちゃんは土間に続く暗い部屋で泣いていました。時には伯母さんが声を荒げていることもありました。あの時代に扶養家族が一人増えるということは大変なことだったでしょう。ですから、きょうこちゃんにとっては辛い日々が続いていたのです。それでも母は、夕方きょうこちゃんがどんなに帰りたくないと駄々をこねとても彼女をおじさんの家に送りとどけるのでした。母はそれがきょうこちゃんの保護者である伯父さんへの礼儀だと私に言いました。
翌年三月、父が転勤になりました。私達家族は山奥の村に引越しすることになりました。きょうこちゃんをどうなるか私にとっても大問題でした。私達の引越しについては大人達はきょうこちゃんに秘密にしました。私も話すことは厳重に禁止されていました。彼女が私達と一緒に行く事に伯父さんは暗黙の了解をしているようでした。後は私の両親の決断でした。初め二人は彼女を連れてゆく決心をしているようでしたので私は安心して彼女と遊び暮らしていました。
引越しの荷造りが始まると家の中では遊べません。彼女は異変に気づき、おばさん、おばさんと母にまとわりつくようになりました。
そして引越し当日・・・。
家は学校の近くにあったのですが、その学校の裏の土手できょうこちゃんと遊ぶように命じられました。誰かが迎えに行くまで決してその場を離れないこと、離れたら私を置いても家族は汽車に乗るだろうと。
私は家に居たがる彼女を誘って学校の裏に行きました。帰ろうという彼女をなだめてその場に居続けることは大変でした。
兄が迎えに来ました。私に家に走って帰れと言いました。私は驚いて家に帰ると空っぽになった家の前に母が立っていました。母は私に小さなリュックを背負わせて、手を握り駅へと走りました。すぐに汽車が入ってきました。きょうこちゃんを伯父さんの所に送り届けた兄も駈けてきました。兄が汽車に乗るとがたんと汽車が動きました。
その時です。大勢の見送りの大人の間をすり抜けてきょうこちゃんが現れたのです。
『伯母ちゃーん、私も連れてって!!Gちゃん私も連れてって!!』
彼女は木製の閉じられた改札口を通ろうとガタガタ揺すりながら大人たちに抱きとめられていました。デッキにいた私が飛び出さないように姉や兄達が私を押さえ込み列車の中に引きづり込みました。その泣き声は何年経っても、何十年経っても私の中で響きます。彼女のことを思いだすと私はひどい罪悪感を覚えます。私は友達を裏切り、大人は私に友達を裏切らせたのだと。
父は何度も私に弁解しました。問題は彼女の兄一郎さんの存在だったと。我が家で彼女を養子にすると家には同じ年代の男の子が3人もおり、かれは出入し難くなる。そうなるときょうこちゃんをたった一人の肉親から引き離すことになると。彼女をたった一人のお兄さんから引き離してはいけないと。
私は2度ときょうこちゃんに会うことはありませんでした。高校生になったある日、当時の私の友だちのお母さんが、近くに来たからと訪ねてきました。私にきょうこちゃんのことを伝えたかったとおばさんは言いました。
きょうこちゃんは中学2年生の時肺炎で亡くなりました。私は田舎に帰った時、その駅を通過することがあります。でも一度も下車したことがありません。
午後の遠足は東京代空襲・戦災資料センターが含まれていました。そこは私が一度行きたいと願っていた場所でしたので勿論この遠足に参加しました。私は、私の幼い時の友だちがどんな経験をしたのか知りたかったのです。
幼児期私はある田舎町に住んでいました。1945年、春、近くに住む6年生のお姉さんが私と同い年の女の子を連れて私の所にやってきました。彼女の名前はきょうこちゃん、戦災孤児でした。3月東京で空襲にあい、両親と弟(あるいは妹)を失ったのです。彼女の話によるとその空襲は日中でしたから、夜に襲われた3月10日の大空襲より前だったと思われます。
5才の女子が5才の友達から聞いた話しですから、強烈に響いたことしか記憶に残っていません。
そして彼女の話は・・・。
おとうちゃんとおかあちゃんがお芋を買いに行ったの。おにいちゃんと赤ちゃんと3人で留守番してたの。お昼が過ぎてから空襲警報が鳴ったの。お兄ちゃんが赤ちゃんを背負って外にでたら、通りの向こうからおとうちゃんとおかあちゃんが走ってくるのが見えたの。でも焼夷弾が沢山おちてきて、他所のおじさんたちが行っちゃダメって・・・。おとうちゃんとおかあちゃんのいる方じゃなく、反対の方にお兄ちゃんと一緒に走ったの。上野のお山に着いた時は暗かった。他所の人が直撃で赤ちゃんが死んでいるって言った。お兄ちゃんは赤ちゃんをお山に埋めたの。それから汽車に乗って伯父さんの家に私を連れてきて、学校に戻ったの。
夕陽を見る度に、きょうこちゃんは繰り返しこう話して大声で泣きました。5才の私には慰める言葉もなく、タダ一緒に声を上げてワァーワァーと泣き続けました。昭和20年(1945)はやけに夕陽が多かったように私には思えます。
後に私の母は、二人が泣いている時は手のほどこしようも無かったと話していました。その時きょうこちゃんのお兄さんは中学1年生でした。
彼女と友だちになって以来、私達は食事と寝る時以外はいつも一緒でした。私は兄弟が多くて食事もこと欠く時代でしたが、母は私と弟にオヤツをくれる時はいつもきょうこちゃんの分も忘れませんでした。朝、彼女が来ないと私は彼女を迎えに行きました。
きょうこちゃんの伯父さんは、いつもほんの少し明りが射し込む土間で木を削ったりしていました。指物師で病気があって兵役が免除になっていると大人たちは話していました。
私が覚えているその一家は、伯父さん、その妻、きょうこちゃんより一つ年上、当時国民学校一年生の女の子とおじさんの6年生の妹でした。
私が訪ねた時は、いつもきょうこちゃんは土間に続く暗い部屋で泣いていました。時には伯母さんが声を荒げていることもありました。あの時代に扶養家族が一人増えるということは大変なことだったでしょう。ですから、きょうこちゃんにとっては辛い日々が続いていたのです。それでも母は、夕方きょうこちゃんがどんなに帰りたくないと駄々をこねとても彼女をおじさんの家に送りとどけるのでした。母はそれがきょうこちゃんの保護者である伯父さんへの礼儀だと私に言いました。
翌年三月、父が転勤になりました。私達家族は山奥の村に引越しすることになりました。きょうこちゃんをどうなるか私にとっても大問題でした。私達の引越しについては大人達はきょうこちゃんに秘密にしました。私も話すことは厳重に禁止されていました。彼女が私達と一緒に行く事に伯父さんは暗黙の了解をしているようでした。後は私の両親の決断でした。初め二人は彼女を連れてゆく決心をしているようでしたので私は安心して彼女と遊び暮らしていました。
引越しの荷造りが始まると家の中では遊べません。彼女は異変に気づき、おばさん、おばさんと母にまとわりつくようになりました。
そして引越し当日・・・。
家は学校の近くにあったのですが、その学校の裏の土手できょうこちゃんと遊ぶように命じられました。誰かが迎えに行くまで決してその場を離れないこと、離れたら私を置いても家族は汽車に乗るだろうと。
私は家に居たがる彼女を誘って学校の裏に行きました。帰ろうという彼女をなだめてその場に居続けることは大変でした。
兄が迎えに来ました。私に家に走って帰れと言いました。私は驚いて家に帰ると空っぽになった家の前に母が立っていました。母は私に小さなリュックを背負わせて、手を握り駅へと走りました。すぐに汽車が入ってきました。きょうこちゃんを伯父さんの所に送り届けた兄も駈けてきました。兄が汽車に乗るとがたんと汽車が動きました。
その時です。大勢の見送りの大人の間をすり抜けてきょうこちゃんが現れたのです。
『伯母ちゃーん、私も連れてって!!Gちゃん私も連れてって!!』
彼女は木製の閉じられた改札口を通ろうとガタガタ揺すりながら大人たちに抱きとめられていました。デッキにいた私が飛び出さないように姉や兄達が私を押さえ込み列車の中に引きづり込みました。その泣き声は何年経っても、何十年経っても私の中で響きます。彼女のことを思いだすと私はひどい罪悪感を覚えます。私は友達を裏切り、大人は私に友達を裏切らせたのだと。
父は何度も私に弁解しました。問題は彼女の兄一郎さんの存在だったと。我が家で彼女を養子にすると家には同じ年代の男の子が3人もおり、かれは出入し難くなる。そうなるときょうこちゃんをたった一人の肉親から引き離すことになると。彼女をたった一人のお兄さんから引き離してはいけないと。
私は2度ときょうこちゃんに会うことはありませんでした。高校生になったある日、当時の私の友だちのお母さんが、近くに来たからと訪ねてきました。私にきょうこちゃんのことを伝えたかったとおばさんは言いました。
きょうこちゃんは中学2年生の時肺炎で亡くなりました。私は田舎に帰った時、その駅を通過することがあります。でも一度も下車したことがありません。