先日ホームセンターで簾を見ました。90センチの長さの簾が98円。竹ひごでできています。織あげただけで金具も付いていませんが、安い、あまりにも安い。
我が家の食堂の南側には高い塀があります。ほんの少しだけですがそこから太陽が差し込みます。そこでレースのカーテンを外し簾を2枚かけました。不思議なものです。安物と言ってもし天然素材です。部屋が涼しげに見えます。
2階の私の部屋は西側の窓から強烈な日差しが入ってきます。ここにも簾をかけようかと考えています。
先日ホームセンターで簾を見ました。90センチの長さの簾が98円。竹ひごでできています。織あげただけで金具も付いていませんが、安い、あまりにも安い。
我が家の食堂の南側には高い塀があります。ほんの少しだけですがそこから太陽が差し込みます。そこでレースのカーテンを外し簾を2枚かけました。不思議なものです。安物と言ってもし天然素材です。部屋が涼しげに見えます。
2階の私の部屋は西側の窓から強烈な日差しが入ってきます。ここにも簾をかけようかと考えています。
先日弟に送ってもらった家族写真には長姉の姿がありません。昭和19年秋女学校5年生だった姉は看護婦養成所に行くか挺身隊として工場に派遣されるかの選択をしなければなりませんでした。その他の選択はなかったのです。
兄たちが出征する時はすでに東京大空襲を経験し、国民の多くは死が自分たちに近づいていることを実感していましたが、姉が家を出る時、日本が負けるとか自分たちが死ぬかもしれないなどと多くの人は思ってもいなかったでしょう。ですから19年11月姉が家を出る時写真を撮らなかったので姉は家族写真に写っていません。姉は仲間外れにされたと怒こっています。
戦時中の家族のことを語る時姉の事も話さねばならないだろうと当時の姉の写真を借りたいと電話したらなんと翌日届きますた。もうずーと以前に整理していたらしく写真に添えられた説明書きの紙は黄ばんでいました。
姉が看護婦養成所に入ったのは17歳の誕生日を迎えてすぐのことです。もうすぐ83歳になります。生存している当時の仲間たちも少なくっているでしょう。姉の青春も紹介したいですね。
1945年3月、兄たちが戦争に行くので行く者残る者、どちらが死んでも記念になるように写真を撮りました。本に挟んであったのですが引越しの際、飛び出たらしく破損してしまいました。以前田舎の兄に写真のコピーが欲しいから貸して欲しいと頼んだのですが、80歳を過ぎた兄は探すのが億劫らしく、どこだったかなあ出立ち消えていました。
今度中学生がきます。当時のことを話すのに何か目に訴えるものがあれば話し易いので二日前弟にメールしたら送ってくれました。当時の思いが浮かびあがります。考えてみると写真嫌いの私は家族写真を撮ったことがありません。
東日本大震災の後思い出を求めて写真を探す人々をニュースで見ました。人はいつ何時この世から消えるかもしれません。この不安定な時代に戦時中と同様、家族写真を残すべきかと考え始めています。
今度息子たちが帰国した時写真を撮ることにしましょう!
今朝はひどく寝覚めが悪かった。昨日のことが頭から離れない。昨日はボランティアであるイベントに参加しました。イベントの出来が良かれ悪しかれ翌日に持ち越すことは今までなかったのです。
子の気持ち悪さは何なのでしょう!と、布団の中で1時間も考えました。思い当ったのは私自身やりかねないようなことだったのです。
今日のブログは私への自戒ですので詳しい内容をかきません。
イベントの中で司会者の目が行き届かず、自分の目の前で反応する人たちにだけ語りかけ、その他はまるでいてもいあなくてもよい部外者のようだったのです。話の輪から外れた人達の不満が大きくなってゆくのが感じられました。たった10数分間一組減り、ふた組減りし、人数が半減してしまったのです。期待していた人には気の毒でしたと思う気持ちだけではこんなにいら立つこともないでしょう。
私自身、自分が話ことに集中するあまり聞き手のここに寄り添えないことはあり得ます。もしかして何かの集会で私も同じことをしていなかったのかとヘ反省することしきりです。これを自分への警鐘ととらえることにしたら気分は幾分落ちつきました。
学生時代、レクレーションという必修科目をい1年間受けました。遊びはともかく苦手なダンスもしなければならず、いつも楽しい授業とは言えませんでした。先生の口ぐちはリーダーが楽しむなだったのです。自分が先頭になってする時、楽しく見せようとし自分が楽しむと参加者に目が届かなくなるということだったのでしょう。
常に周りに目を向けましょう!くわばらくわばら!
自分の今していることを見直すことにします。
昨日はいつも同様友人とエスペラントの本を読む。いつもの場所。公的施設の場所なので子連れのグループがたくさん集まります。多くは保健所などでの保育グループ。それから幼稚園帰りのグループ。母親たちは子どもたちとおやつを食べおしゃべりに余念がりません。子どもたちは好き勝手に走り回ります。誰に気兼ねおなく過ごせる場所があるということは本当に幸せです。
あるグループの母親たちの会話が聞こえてきました。今度の子は『男の子だって先生が言っていたわ。でも、うちはもう3人いて、男も女もいるからどちらでもいいのよ。・・・二人以上なら3人でも4人でも同じよ!』よく見るとみんな妊婦のようでしたが、帰る時に見ると乳母車に小さな子を乗せていました。この時期に出産ブーム?
実は先日、お隣の奥さんが乳母車を玄関に入れているのを見ました。『あれ?』と思ってみると質問しないうちに彼女が言いました。『生まれました。』全く知りませんでした。今の家は防音が聞いていいるから赤ちゃんの声が漏れてくることはほとんどありません。それに上の子はもう中学生なのです。2番目の子とも10歳も離れているのです。今度は男の子だそうです。
それにしても最近出産が増えているのでしょうか。嬉しくもあり心配でもあります。日本の国は安全性においては底の見えない深淵の上を綱を頼りに進んでいるような気がするのです。
JEI で行われた講演の日『エスペラントの日』古本市がありました。そこで見つけた本。
SXANCO POR FELICxO 『幸福になるチャンス』 とでも訳しましょうか。。中身を確かめるでもなくなんとなく中の写真や挿絵に誘われて買った本です。読みだして思わず笑ってしまいました。文明に慣れ親しみながら不満タラタラな生活をしている人を揶揄しているような内容です。昨日読み始めたのですがすいすいと読めます。
まるで昔の賢人が書いた格言のようでもあります。まえがきを読むと1957年に経済力のある人が家のない人や貧困に苦しんでいる家族を助ける運動を始めたベルギーの作家 Phil Bosmas という人の本でした。
エスペラントでは『 Movado sen Nomo 』 (名のない運動)というのだそうです。
心やさしい言葉で微笑みを誘い、時には良心をチクリと刺すそんな内容です。JEIの図書からの除籍本でした。
今朝の新聞の見出しに’東電支援策『来年度料金16%値上げ』’と活字が躍っていました。便利さを求め続けたツケがとうとう回ってきました。
もう、20数年も前のことですがアメリカから帰ってきた息子が笑って言うのです。『アメリカではね、缶詰をあけるにも電気を使うんだよ。』開ける方を磁石で吸いつけて回しながら蓋を切り取るということでした。『蓋が開いても落ちないの?』『落ちるから手で支えているんだよね!馬鹿げてる!手で開けたからってそれほどの労力でもないのに』私たちは笑いましたが、そんな馬鹿げた便利さが私たちの中にも当たり前としてはびこってきていたかも知れません。
そんなツケが今回ってきています。会社が損を承知で商売するはずがありません。資本主義社会であれ、社会主義社会であれ最後に支払い義務を負わせられるのは一般庶民なのだと痛感しています。
イタリアでは原発反対派が勝ちました。良かったですね。地上から核関連施設は減少してほしいです!
後藤 斉氏『エスペラント文化史の試み』の中でエスぺランティストとしての柳田国男と梅棹忠夫に触れました。
彼らのエスペラント発展への功績は一般に知られていないという話から二人について書いてみたくなりました。
昨年亡くなった梅棹忠夫の思想について先日NHKの衛星放送だったでしょうか関係した人々が彼の人柄と思想の発展性などについて話していました。放送ではエスペラントについては誰も触れませんでしたが、柔軟な発想はエスペラントと無関係ではないかもと感じたのでした。いつだったでしょうか日本エスぺラント大会で彼の講演を聞いたことがあります。
ウキペディアより : また、エスペラント運動家(エスペランティスト)であり、世界エスペラント協会の名誉委員である。詳しくは編著『日本語の将来 ローマ字表記で国際化を』(NHKブックス:日本放送出版協会 2004年)。
梅棹忠夫は世界に名の通ったエスぺランティストであったことが分かります。
柳田国男について昔先輩から聞いたことがあります。先輩はもうなくなっているので名前を挙げても良いかなと思います。
藤沢に住んでいた足立長太郎さんはY校(横浜商業高校)の出身です。当時は旧制中学校だったでしょう。Y校には4年生になると入部を許されるエスペラントクラブがありました。多分1925年ぐらいのことと思います。2年間の課程を修了した時横浜のエスぺランティスト達がホテルで盛大に祝ってくれたそうです。そこに紋付き袴姿の柳田国男が朝日新聞記者の椎橋好を伴って駆けつけてくれたそうです。そんな有名人の登場に中学生たちは驚き喜んだということでした。
椎橋好は昭和3年(1928年)日本エスペラント学会から共著ですがエスペラントと対訳の(ハイネ詩集を出しています。ウキペディアで柳田国男の経歴を見ると1922年、国際連盟で世界の公立校でエスペラント教育をしようという議案を可決する努力をしたようですが、世界のエスペラント界で新渡戸稲造は有名ですが、柳田の話は話題にならなかったように思います。日本人として彼を世界に示す努が必要かもしれません。
ウキペディアより:(大正9年)8月 - 東京朝日新聞社客員となり、論説を執筆した。全国各地を調査旅行。
1921年(大正10年) - 渡欧し、ジュネーヴの国際連盟委任統治委員に就任。国際連盟において、英語とフランス語のみが公用語となっていることによる小国代表の苦労を目の当たりにする。
旧知の足立さんのことを実名で書いたので、もう一人先輩であり友人でもある森田玲子さんについて:
講演の最後に土岐善麿について質問した方がいました。 土岐善麿も熱心なエスぺランティストでした。森田さんが三田の女学校に通っていた当時、彼の娘さんも同じ学校に在学しており、彼は保護者会の会長でした。当時の校長ととても親しく、ここでもエスペラント教育が行われたのです。森田さんは10代からエスペラントを学び、若いころは熊本で活動していたようです。80歳超えたころから読書会への参加をやめました。その後彼女は癌を病み、突然私たちの前から姿を消しました。ホスピスで亡くなったと風の便りに行きました。本当に潔い方でした。
その他ハンセン氏病患者収容されていた多摩全生園の話などこれも聞いたことがあるななどと、私には思い出をめぐる講演でした。
昨日の講演は二つです。
1.野間秀樹氏『ハングル文字という奇跡』
2.後藤 斉氏『エスペラント文化史の試み』
講演内容は『エスペラント』 La Revuo Rrienta に掲載されるそうですが、1.の野間氏の講演は短い時間にハングルの持つ歴史的意義、その機能などをなどすべてを伝えるかのように超特急で進むので理解しながら内容についてゆくのはなかなか大変でした。いや理解したかどうかは度外視して、言語学という学問を垣間見ることができとても楽しかったです。そういえばハングルを作った王さまのテレビドラマを放映していたことがあったと思い当りました。野間氏の講演を先に聞いていたら、私もそのドラマを見たかもしれません!
エスペラントをしていて onomatopeo (擬音) が少ない、もっとあったら楽しいかもと思ったことがありました。ところがです、韓国語は日本より onomatopeo が多いのだそうです。どんな音を出すのでしょうか。日本と韓国両国のonomatopeo からエスペラント的 onomatopeo が生まれたら面白いのにと思うのですが・・・。ぜひ韓国の音を聞いてみたいです。
哀しい歌ですが Julio Baghy の Siberia Lulkanto (シベリアの子守歌)が私は好きです。そこには日本のネンネンコロリヨ オコロリヨ と同じようなロシアの間投詞が使われています。その音 baju,baju,bajusxki ・・・(バーユ、バーユ、バユーシュキ・・・)が凍てつく風の音に聞こえてくるのです。
私の思いはハングルと全く違ったところに行きつきましたが、楽しくまた朝鮮民族に興味を抱かせてくれる講演でした。10月に行われる日韓共催のエスペラント大会でどんな経験ができるか期待し始めています。
今朝は激しい雨の音で目覚めました。雨音は人をセンチメンタルにし、いろんなことを考えさせます。
木曜日は根岸線本郷台駅近くの地球市民プラザで開かれているアンネ・フランク展を見ました。アンネの生涯を追った写真と解説展と言えます。アンネの日記を始め部分を読むと彼女が自信に満ちた高慢とも思えるほどの誇り高い少女だったように感します。それだけに最後の解説に心が痛みました。ベルゲン・ベルゼンで彼女と壁越しに会話した友人はアンネは衣類がなく寒いこと、食べ物がないと嘆き、昔のアンネとは全く違った語っていた。未来を夢みていた数知れない人々がアンネと同じように絶望の中で死んでいった名も知れぬ人たちがあわれに思えます。
平和な時代が築けるだろうと思っていたのに今放射能に怯えている私たちの社会はなんなのだと不安に思うのは私だけでしょうか。
アンネは1929年6月12日生まれ、生きていれば明日、82歳でしょうか。
アンネ・フランクの家だけでなくいくつかのナチの強制収容所、ワルシャワゲットー、ヴァンぜー会議の開かれたブランデンブルク湖のそばの別荘などいくつもの場所を訪れ歴史的資料を見たのですが大量虐殺(ホロコースト)についてどうしても理解できないのです。
ただただ今は、原発が大量虐殺の兵器とならないこと願うだけです。私の思い、考えの行き着く先はいつもそこです。
節電に協力しようと思ったのですが人の生活習慣は即座に変えkることはできません。初めにしたことは、玄米を炊くと時間が長いので5分挽きにしました。その分雑穀を多く入れて栄養を補うことにしました。精米はなるべく夜間料金の時間に行うように努力。夫は1日中いなくてもパソコンの電源がつながっています。スイッチで切れるようにしてあるのにです。夫が外出したら、私が気がついたときには切ることにしました。最近ようやくスイッチを切って出かけるようになりました。我が家は客が殆ど来ません。夜8時過ぎたら家人が家にいる時には玄関の灯りも消しました。
昨日電気料の請求と余剰購入電力のお知らせがきました。5月分支払金額:4827円、購入金額3072円とありました。差額は1755円です。支払い分2000円切ったのは初めてです。節電が習慣になるには時間がかかりますが、気がついたときにコツコツとあせらずやっていれば結構できるものなのですね。後はどんな節約ができるでしょうか。
太陽光発電を始めた時ご飯は夜に炊いておくと良いと言われましたが、ご飯ぐらい炊きたてを食べたいのでこれは実践していません。
話は変わります。政治家は大連立か挙党態勢とか大騒ぎしていたようですが権力闘争にしか見えません。いざとなったらだれが頭になるかでまた揉めるのでしょう!震災被害者そっちのけで権力闘争をしている議員達にはただただあきれます。
昨日の不信任案提出はいったいなんだったのでしょうね!なんという茶番!
大山鳴動ネズミ1匹にもならなかったですね。迷った一人が除党処分になっただけですか。大切な時間を無駄にすること甚だしく、あきれています。
今年は梅をつけるのをやめます。梅は九州ものが出ており地元のものも出始めました。私の梅干しを喜んでくれる海外の友人が数人いるのですが、放射能を気にされるより漬けないほうがよいと考えました。家での消費分は後2年余りの分あります。
でも悔しいですね!