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生きること:過去と未来とエスペラントと

6月15日

2005-06-14 16:41:34 | Weblog
 明日は6月15日。そう言ってもわかってくださる方は少ないでしょうね。1960年6月15日は、東大生の樺美智子さんは安保条約に反対するデモを組織した学生の一人としてデモに参加していました。そして国会議事堂前で虐殺されたのです。彼女のお墓には次ぎのような詩が刻まれているそうです。

「最後に」

誰かが私を笑っている
向うでも こっちでも
私をあざ笑っている
でもかまわないさ
私は自分の道を行く
笑っている連中もやはり
各々の道を行くだろう
よく云うじゃないか
「最後に笑うものが
最もよく笑うものだ」と
でも私は
いつまでも笑わないだろう
いつまでも笑えないだろう
それでいいのだ
ただ許されるものなら
最後に
人知れずほほえみたいものだ

1956年 美智子作

 美智子さんが亡くなった後、あるエスペラントの講習会でお母さまの思い出話を伺いました。当時、彼女は母親に若い頃学んでいたエスペラントの学習を再開するように強く勧めていたと言うことでした。それはまるで、自分の死を予感していたようだったそうです。
 あの当時美智子さんのお母さまは50歳前後だったでしょうか。人はどんなに辛くとも生ある限り生き続けなければならないのですね。健やかに生活されておられることを念じます。

 もう一人珍しい方とお会いしました。その方は少年時代に大杉栄からエスペラント学んだ方でした。私の父と同じくらいの年齢の方でしたから、1900年頃の生まれでしょう。名前は長谷川…さん?あるいははやしさん?45年前のことです。どうしても思い出せません。

 彼は10才前後で植字工になったそうです。仕事は長時間。宿舎も相部屋で、みんなせんべい布団に包まって寝ていたそうです。冬は寒さで眠れなかったということでした。そこに若い日の大杉栄がいたのです。夜、冷え切った布団で縮こまっていると大杉栄が自分の布団に入れてくれ、自分の体で少年の体を温めながら、エスペラントを教えてくれたそうです。

 大杉栄(1885~1923)は21才の時エスペラント語学校を作りました。1923年9月1日関東地方に大地震が起こりました。いわゆる関東大震災です。9月16日、大杉栄は自宅から当時大手町にあった麹町憲兵分隊連行され虐殺されました。彼はとても心優しい人だったということでした。


           

コメント (11)
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