glimi

生きること:過去と未来とエスペラントと

昨日のできごと

2019-01-19 08:37:14 | rememoro: 思い出

 むかし、もう50年前になるでしょうか、横浜の田舎の児童養護施設に住んでいました。バスは1時間に一本あったでしょうか。食料を売っている店もなく、毎日子どもに何を食べさせるかさえ大変でした。週に3回ほどトラックで来る八百屋さんから野菜だけは買えたのですが!

 その近くに自然農法でお米を作っている人が人がいて昨日はその籾を精米するからと誘われて出かけました。彼は車で、わざわざ昔施設のあったところを通ってくれました。昔停留所名は○○小学校だったのが小学校が移転したので学園の名はバス亭名として残っていました。 

 バスを降りると田んぼの中の道を歩き傾斜地に立つ施設が着く。一番高いところには木々に囲まれた神社がありました。ですが、地形がすっかり変化し、平地になっていて、地形の確認さえできませんでした。

 子どもが熱を出した時は山を越えた荏田という地に開業している医師に往診を依頼するほど不便な横浜の僻地でした。収容されている児童が脱走し、暴力団につかまっているという事件がありました。男子職員総出奪還しましたがみんな報復を恐れていました。いざという時には私と私の子どもたちは自分で守るようにと警棒を渡されたたこと。風呂がなく児童用の風呂に子どもとはいるのですが、お湯が浴槽に満たされない前に入浴したこと。昭和21年に建てられた家屋は立て付けが悪く、真冬でもカーテンが揺れ動くほど風通しが良かったことな思い起こすものの、平地に化した広い道を走り案内されて車の中から眺める景色は記憶と重なることはありませんでした。

 

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歯科医院

2019-01-12 09:51:26 | 家族・友人・私

 前の歯科医院は治療を怖がる。昔(50年前の3月)、風邪薬を飲んで薬疹が出て苦しんだことがある。そのことを話したら治療らしい治療もしなくなった。ネットを調べたり、友人に尋ねてもすべてに満足しているという人はいない。そうこうするうちに歯茎が腫れてしまった。虫歯が悪化!友人に我が家から一番近い医院を勧められた。代替わりし、1年余り前に医院を新築した女性が経営する医院である。彼女はある有名歯科大を出て大学病院で勤務。その後横浜市内の大病院で働いていたという。評判が良いという。とにかく治療しなければ!ネットで予約し昨日初めて治療に行きました。

 歯科衛生士もてきぱきとしていました。医院長は年配者を置き、抜歯その他は外科医師(口腔)に月に何回か来てもらってやるのだそうです。私の歯茎は化膿しているので薬で治療、歯はかなり痛んでいるのでその後外科医の診断を受け、抜歯が良いか決めましょうとと言い、抗生物質を渡されました。それは6~8時間おきに飲み続けること(時間厳守)、もし異常が起きたら中止して次の手を考えるというものでした。

 この50年間、抗生物質は目の治療の時以外使っていないのでこわごわ飲んでいます。当分歯医者通いが続きそうです。

 幼児連れの女性がいました。予約しておくとおもり役もいるようで、若いスタッフに子どもを預けて治療室に入ってゆきました。治療室は中2階ほどの高さ。階段は数段ですが、車いすでは入れるようにエレベーターをもありました。


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vere aux fantazie

2019-01-07 08:33:49 | 

 今朝最後の2ページを読み終えた。どうしても好きになれない文章というものがある。ピロンの文章はわかりやすいのにどうしてだろう。でも、滑らかな文章の書き方とか教えられるところが沢山あったので何度か挫折した本であったが今回は読み通した。

 名詞を動詞化して使う方法にどうしても馴染めないの私だけだろうか。例えばvorto➡vorti, vino➡vini, biero➡bieri k.t.p.


 マフラーのこと

 Mに電話して感想を聞いてみました。’ありがとう、レインボーのマフラーだった!少しチクチクする。’ 

 彼が思い描いた虹色のマフラーとは違ったようでした。その違いが虹色とレインボーという言葉の違いに現れているように感じた。

 チクチクは薄くても暖かくと混入したモヘアがあだになったようである。



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虹色のマフラー?!

2019-01-05 09:54:14 | 家族・友人・私

 昨日は捨てられなあかった残り毛糸を探し出しマフラ―を編んだ。虹色と言えるかどうかはわからないが多色です。これで捨てようと思っていたものが少し減りました。子どもなので首の回りがゴロゴロしないように細いモヘアに一部変えて薄くしました。

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孫の日

2019-01-03 08:38:18 | 家族・友人・私

 今日は夫の誕生日。10時半ごろ駅に着くと息子から電話があり駅まで迎えに行く。Nの自作のパウンドケーキと共に親子4人やってきました。家に着くともう誕生日どころではなくなります。一年生のMがお土産と取り出したのは祖父母と伯父を描いた絵。我が家な壁にはドイツの孫たち描いても持ってきた絵や送ってきた絵が壁いっぱいに張ってあります。来訪のたびにじっと見ていたので自分の絵も貼てほしいと思ったいたでしょう。良く見えるようにと言いながらすぐにその絵も張りました。彼は小さな箱を出しました。4センチほどの長さの紙の筒が数えるのも嫌になるくらい沢山入っていました。Ⅿ自作の鉛筆のサックだそうです。お土産はもう一つ、折り紙で作った飛ぶネズミ3匹。立たせて尻尾を押すと40~50センチ飛んでゆきます。何かで見たのか自分で考えたのか…

 ドイツの孫もそうですが、子どもというのは自分が上げたものは忘れません。必ず後でそれが保存されているか確かめます。物を置くことで自分の居場所を確保しているように見えます。Mもあとからそれが保管されているかどうか確かめるでしょう。夜彼らが帰った後で鉛筆のサック入りの箱と折り紙をかなり大きなお菓子の箱に入れました。しばらくはまた不思議なものを作ってくること間違いなしです。

 

 おせちを食べて一休み。息子の家はテレビ無し。うちに来ると録画されたテレビ番組をみるのが楽しみです。でも、録画もそんなに大量にあるわけでは無し。散歩にでも行ってくれればと思うものの息子は動く気配なし。仕方がないので散歩に行こうというとⅯは誕生日に伯父に贈られた双眼鏡を持ってきたという。わが家の近くの川にいるカワセミが見たいという。弟のTは魚が大好き魚が見たいという。祖母・伯父・母・M・Tの4人で散歩へ。

 カワセミなどそんな簡単に見えるわけはない。川岸に老年の人たちがかなりの人数でカメラを持って立っている。他の人と少し離れたところに立っている人に声をかけてみました。みなさん、カワセミが現れるのを待っているという。孫もカワセミが見たいと双眼鏡を持ってきましたがそう簡単には見れませんよねと私が言うと彼はMを呼び止めて自分が写したカワセミを見せてくれました。昔住んでいた家の近くまで来たので隣接している市民の森に行こうと昔のわが家の方へ川から長い階段を上る。子どもたちは元気ですが私はもう限界。200メートルほど離れた児童公園で休憩をとることにする。昔は鉄棒と水飲み場だけでしたが、幼児用の可愛い滑り台・砂場・ブランコ・東屋と東屋の下にベンチ、その他にもあちこちにベンチを配置し子どもが遊べるよう老人が休めるようになっていました。私も役員をしていたのですが、この自治会費は高く自治会は凄いお金持ちだったのです。建て替えようかと言っていた自治会館はそのままでした。(当時も地主さんと交渉しましたが、将来の遺産相続などを考えると契約しなおすかどうか迷うということでしたがまだ再契約できていないのでしょう。)

 公園には先客。母親とおぼしき女性が黙々と砂のケーキを作っています。幼児がひとり砂場の周りを駆け回っています。二人とも楽しそうに見えません。私たちはベンチにかけて持参のバナナを食べジュースを飲みました。その後MとTはブランコや滑り台で遊びその周りを男の子がアニメソングを歌ったり、独り言言いながら駆け回ります。Tは砂のケーキを作っっている「女性に気が付きそばにより、貸してちょうだいともいわず砂場遊びの道具を取り上げて遊び始めました。男の子が水を運んで来て、水いる?とTに声をかけました。こうして子どもたち3人の遊びが始まりました。Tは不思議な子で人の遊びの輪にスーッと入ってゆくのです。Tが水!というとその子がまた?と言いながら水を汲んできます。その子が滑り台で変な恰好をしたので私が気を付けてね!と声をかけると僕慣れてるよう!との返事。ハイと言いなさい。と女性。やはり母と子でした。私は砂場により彼女に声をかけました。勝手におもちゃ使わせてもらってごめんなさいね。この子(T)すごくちゃっかりしていて、どこへ行ってもこうなんです。女性は大きなマスクをずらし、いいんですと言ながら笑顔を見せてくれました。

 私たちが帰るというと彼女もおもちゃを片付け始めました。早く帰らないとおばあちゃんに怒らる!女性はそんなことないと返事しながらおもちゃをすべて袋に入れてお礼を言う私たちに笑顔であいさつしてくれました。多分姑さんと同居していてちょっとした行き違いがあったのかという思いが私の頭をよぎりました。

 帰り道Mはマフラーの話。虹色は駄目と思ったようです。次から次へと色も組み合わせをしゃべりつ続けていました。この子は何か想像すると次々と空想を広げてゆく面白い子です。

 私たちが留守の間MとTの父親はのんびりと2階の部屋でラグビーの試合を観戦していたようです。彼はが学生時代ラガーマンでした。

 4時ごろN手製のケーキをみんなで食べ、私は居間のソファで昼寝(歩いた歩数6500)。子どもたちは録画の深海の生物の映像を感嘆の声をあげてみていました。お風呂に入り、夕食。大好きなお汁粉用あんこも手に入れ、4人は満足し、私の車で帰ってゆきました。車は日曜日に帰しに来る予定です。その時マフラーがもらえると期待して来ることもあり得る。さてどうしますか。

 

 

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おめでとうございます

2019-01-01 10:05:45 | taglibro: 日記

 今朝、後20日ほどで89歳になる兄の夢を見た。元旦早々気色が悪い。兄弟が多いといつ、何が起こるかわからない。みんな元気で今年も過ごせることを願うのみ!

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2018年最後の日

2018-12-31 23:19:31 | taglibro: 日記

今年が良い年であったかどうかはわからないが無事に過ごしたことに感謝。

クリスマス前ザメンホフの論文を読んだメモを残して置くことにしました。

 Gentoj kaj Lingvo Internacia

 Memuaro verkita por la kongreso de Rasoj, 26.-29. De Julio 1911

  リンス氏の講演の中に出てきたのでこの機会にと読み始めた。約9ページ。5日間かってしまった。目が疲れると休憩ばかりしていた。衰えているのは視力だけではない。できるだけ声を出して読み、重要なところはメモしながら読んだけれどこの記憶いつまで残っているのか心もとない。

 それでも読む価値があったと改めて感じている。ザメンホフは他民族に対する憎しみや軽蔑、あるいは優越感がどうして生まれるかを一つずつ論じてゆく。そして最後に民族が違っていてもお互いの文化、その中には言語や宗教も含まれるのですが、を尊重すべきであると説く。それを実行できる手段はどの言語にも属さない中立言語だと結論づけている。また、宗教の統一も彼の願いであった。しかし、これは中立言語を広めるよりも難しい。

 100年以上も前にこのように主張し、運動を起こしたザメンホフはやはり素晴らしい!こういう本は読み返し初心に帰ることが大切だとはわかっているが、なかなか実行できません。


 残念なのは暇暇にピロンの'vere aux fantazie' を読んでいたのに20ページほど読み残したこと。新年は心新たに別の本を読みたかったです。

 最後に私のブログを訪ねてくださった沢山の方に感謝します。新しい年も皆さんにとって良い年であってほしいと願っています。私の脳細胞の中にいまだに眠っている細胞があると信じ、それらの細胞が活性化することを私は願いつつ新年を迎えます。

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三浦大根

2018-12-30 20:23:18 | taglibro: 日記

 今日あるグループが自然農法で栽培している野菜の大根ほりをするという。年末なのになんで大根堀と思ったけど参加した。鍬は使わない。大きな大根を手で掘った。なかなかの作業でした。なぜこの時期に大根ほり?大根は横浜の労働者の街、寿町の越冬者の炊き出しとして使われるのだそうな。正月三ガ日は行政の援助はない。その間元日の餅つきなど、労働組合や地元のボランティアグループが炊き出しをするのです。私も2度ほど手伝いに行ったことがある。

 私も大根一本と切り落とした葉っぱをいただきました。葉っぱは痛まない内にと蒸し野菜の料理方法を応用し、火を通しました。40~50センチに育った大きな葉でしたがみずみずしく柔らかでした。大きく育った大根はどんな調理法が良いのか思案中。先ほどスーパーで三浦大根を見つけ、その値段の高さに驚てしまった!

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リンス氏の講演覚書

2018-12-29 11:13:03 | エスペラント

 

 26日はリンス氏の講演の要旨の後半を読んだ。

 国際連盟加盟国の混乱と連盟の弱体化で国際主義は根付くことができなかった。

 1923年無民族協会(SAT)が創設される。この協会の参加者の多くは無政府主義者・共産主義者的労働者が中心であった。

 (私が昔読んだ本による記憶;レーニンは世界の継続的革命を唱えていた。ですから初期のソヴィエトではエスペラント運動は盛り上がった。しかし、世界同時革命は無理と見たスターリンはトロツキーなど反対者を追放、粛清し、一国社会主義政策をとる。エスペラントで革命の成果、労働者の世界的同盟を示そうとしていたソヴィエトのエスペランティストはスパイ容疑をかけられ粛清や流刑など、犠牲となりソヴィエトのエスペラント運動は衰退する。

リンス氏著 ’La Dangxera Lingvo'(危険な言語)1988年版の後半の大部分(p.190~423)はこのソヴィエトでの出来事に充てられています。

 1933年に出版されたV.Varankin著 'Metropoliteno'にもドイツとソヴィエトの労働者の交流が書かれている。)

 

 SATの活動は労働者の運動を盛り上げたが、民族主義に反対する、あるいは新しい国際主義に一致して反対する力をそいだ。(エスペラント運動を労働者たちと一般市民とに分断した。)

 エスペラント運動は戦後盛り上がったがジュネーブ(国際連盟)であまり成果をあげることができなかった。世間はエスペランティストの真面目さに気付きはすれど彼らを変わり者と見るようになった。

 ホドラ-は1920年に亡くなり、その友人プリバーは世界エスペラント協会(UEA)の自由な国際主義を発展させようと1935年に著:Interpopola konduto で内在思想を守ろうとするがそれはエスペランティストの失笑をかった。国際主義が民族主義に反対するする有効な手段であると気が付くのは遅すぎました。これに似た考えを持ったのは日本の田中耕太郎です。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%80%95%E5%A4%AA%E9%83%8E

 プリバーは1930年代、あまりにもUEAの組織的仕事にかかわりすぎました。1932年からはヨーロッパ委員会委員長であるガンジーを助けあちこち旅をしていました。 

 国際連盟での失敗後のエスペラント界の動きをしっかり見て取ったのは盲目のエロシェンコでした。・・・

 

 長くなったので最後は割愛しました。

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年末は忙しく

2018-12-29 09:26:12 | taglibro: 日記

 昨日はブログ書きかけて餅づくりを始めてしまった。あれやこれやとしているうちに一日が終わったしまった。今日はこれから昨日の続きを書くことにしましょう。書くことは沢山あるのに時間が過ぎて反故にせざるを得なくなる。体力気力の問題でしょうね。今年ももうすぐ終わりです。

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虹色のマフラー

2018-12-25 09:16:24 | 家族・友人・私

 夕べは息子家族が来て夕食を一緒に食べました。孫のⅯはマフラーがほしいと言います。七色に光る虹色のマフラーがほしいと。母親はおばあちゃんに頼みなさいと言ったそうです。ラメ入りの七色の毛糸なんてあるのでしょうか。

 いぬいとみこ著:木かげの家の小人たち。その物語の中で小人のアイリスはクモの糸を七色に染めてきらきら光るリボンを編んでいます。Ⅿまだこの物語は知りません。どこからそんな考えが浮かぶのでしょうか。彼が夏に着ている洋服は奇抜です。ほとんどが原色に近い大胆な色と模様です。スパイダーマンとかウルトラマンとか(もしかして著作権侵害かな?)。学校へ行くときは目立たない服装ですが。

 派手な服のほとんどはラオスに行った時、伯母さんが買ってくれたものです。色彩感覚が違うのでしょうか。

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ゆず

2018-12-22 08:47:23 | taglibro: 日記

 今日は冬至。隣家の子がゆずが大好きと言っていたのを思い出しました。我が家のゆずは小さいですが先ほど10個ほど枝ごと切り取りお隣の郵便受けに入れてきました。

 ゆずは馬鹿ゆずというそうです。馬鹿は差別語ですが植物に使うのは許されるでしょう。10年ほど前姫ゆずを植えました。この木は放っておくと伸び放題に伸びる。もともと我が家の地面は狭いので木を大きくしたくないのだが気が付くと道路の上に伸びてゆく。ゆずを馬鹿ゆずと表現するのは実が豊作の時は沢山収穫できるが、不作の時は全く実らないからと聞いたことがある。ところが我が家のゆずは疲れも知らず毎年沢山実をつけ続けている。10月の台風のせいで南側の実は変色しているが葉影の実は変色を免れました。

 海老で鯛を釣ってしまいました!

 午前9時過ぎ訪問者あり。チャイムがなりました。お隣の夫人。大きなカボチャをいただく。これこそ海老鯛ですね。

 

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リンス氏の講演

2018-12-20 16:49:36 | エスペラント

 12月19日エスペラントの音読を'La nanoj en domo kun granda zelkovo' ザメンホフ祭でもらったリンス氏の講演要旨 'Antaux cent jaroj: esperoj pri nova monndo'に変更する。物語はいつでも読めるけれど運動とか歴史とかに関する話に接することは少ない。読み返し、講演内容を確認することは私にとっても有用ですし、参加しなかった友人にはもっと刺激になるような気がするので!  私たちは近況とかいろいろ駄弁ることが多いので全部読み切れなかった。26日いつもはお休みにするところですが残りを読むことにしました。

   読んだか所の覚書:第一次世界大戦は世界を揺るがし激しく変化させた。1914年以前、平和主義師子王は全く弱いというわけだはなく非常に楽観的であった。パリのエッフェル塔に象徴されるパリ万博の時にエスペラントは注目され平和主義者達に支持された。  エスペランティスト達は文化的な国際主義に協力していた。例えば1911年ロンドンで開かれた第一回世界人種会議にザメンホフは‵人種と国際語´(Gentoj kaj Lingvo Internacia ザメンホフ全集P.345)という研究論文を提出した。歴史的に最も重要なのはこの会議が人種差別と植民地主義に反対する国際的宣言をしたことです。この会議が人権宣言を受け入れたということは全く先駆的な成果でした。

  1914年(第一次世界大戦)国際主義は壊滅的な打撃を受けました。しかし大戦後その芽は再び発展し安全な平和のある世界を作ろうと呼びかけます。新しい世界秩序の構想をアメリカの大統領ウッドウ・ウイルソン(国際連盟創設に尽力した第28代アメリカ大統領ノーベル平和賞受賞)が広めようとします。ヘクター・ホドラーとエドモンド・プリバーはエスペランティストとして彼を支えました。ホドラーは論説で、プリバーは行動で。

 ホドラーは平和主義者たちが大衆をあまり指導しないことを批判しました。ある者たちが幻滅し、またある者たちが民族主義に回帰しましたが、ホドラーは国際連盟が持つ素晴らしい役割を説く努力をし、楽観的でした。ホドラーは(参加する)政府の数を数えるなと助言しました。ホドラーは平和主義達が見落としている平和主義者の団体による表面的な純粋に法律家的問題を広めること狙っていました。そして様々な国に所属する人たちの個人的関係を多くすることの必要性を強調しました。

 ポーランドの独立を長期間にわたって支持いていたプリバーへの評価がホドラーの論文を補完しました。1916年ホドラーはローザンヌで開かれた 多民族による第三回会議(?:Tri aKonferenco de Naciecoj)に参加ししました。プリバーは1918年不幸な人々の権利に対する燃えるような支持を表明しました。彼はその場にいた東ヨーロッパの国家(たち)を歓迎しましたが、新しい論争に反対すると付け加え、また国家(たち)は憎しに基ずく愛国主義を行わなみいようにと完全にザメンフ的助言を付け加えました。

 今日私たちはよくわかっています、ウイルソンの弁明が民族自己決定のためという素晴らしい意図があったにもかかわらずどれほどの害をもたらしたか。

 1915年の’Alvoko al deplomatoj' (ザメンホフ全集:p.353)の中で要求した、政治家はヨーロッパ地図を単につくろったり作り直したりする以上のことをせよというザメンホフの要求は称賛に値します。これは現代的民主主義に対するふさわしい助言であったのですが全く無視されました。

 プリバーは植民地で忘れ去られた人々、あるいは現地民といわれる人の権利を守る国際委員会創設に協力しました。国際連盟におけるプリバーの働きはエスペラント運動にとって良い機会となりました。1920年学校におけるエスペラント教育を歓迎するという計画が提案されました。この陣営に有名なアジア人やヨーロッパ以外の人々が加わりました。フランス人はフランス語には国際的使命があると考えていました。

 フランスの強い憎悪によってエスペラントの採用は拒否されました。国際連盟事務次長であった新渡戸稲造はそれを批判しています。1919年パリにおける平和会議で人種の平等原則を正当化しようとした日本の努力は失敗します。1923年フランスのエスペラントに対する反対が決定的勝利を収めた時、新渡戸稲造は国際連盟に知恵がかけていたと後日人々は記憶しているだろうと予想しました。」それ以後に彼は国際連盟は次から次へヨーロッパの問題にのみかかわっている、そして国際性は単なる神話であると残念がっています。

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ザメンホフ祭

2018-12-16 10:41:17 | 平和
 今日神奈川県のザメンホフ祭が根岸線の本郷台駅から徒歩1分のところにある神奈川県立地球市民プラザで午後1時から開かれます。講演者は岩波新書の「危険な言語」の原作者:ウルリイッヒ・リンス氏です。内容は第一次世界大戦後の世界情勢とエスペラント・ザメンホフの先進的な思想についてとのこと。中学生の時エスペラントの平和志向を知りどうしてもエスペラントを知りたくなった私。大人になってエスペラントを知り、いまだにエスペラントにしがみついている私。そして現在、世界情勢は混とんとしています。世界は協調できるのか、中東の戦争は拡大するのか、アメリカと中国の覇権争いはどうなるのかなど私たちに未来は読み取れません。リンス氏はどんな話をしてくれるのか楽しみにしています。
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小鳥の寿命は?

2018-12-14 15:57:41 | taglibro: 日記
 以前ブログに書いたことがあるのですが、シジュウカラが一羽雀のグループに交じってやってきました。プランターの縁にとまり、捲れているプランターの縁の裏側までのぞき込みながらぴよこぴょこ動く。なかなか可愛い。雀たちは細い枯れた雑草の茎にとまって穂先の種をついばんでいる。どう見てもこのシジュウカラは雀グループの一員です。郭公鳥は托卵して鶯に卵を孵化させるというがシジュウカラにもそんな習性があるのだろうか。彼らの来訪はもう数年続いていいるように思う。野生の小鳥の寿命は何年くらいなのでしょう?

 昨日友人に贈り物をもってゆきました。牛乳パックで育てたサラダ菜を添えました。種を播いたのは10月20日ごろでしたのでもうすぐ2ヵ月です。サラダになる種が混じっているものを買ったら一番成長したのは水菜でした高さ20センチぐらいです。少しは楽しんでもらえるでしょうか! 
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