第2次大戦後の数年はみんな大変な生活をしていました。1946年(昭和21年)山奥の村に父が転勤になり、知り合いも無く闇米を手に入れる事さえ難しかったようです。
村には貸家も無く、私達家族は山の中腹にある元国民青年学校の修練道場に住みました。家を一歩出ると目の前は谷、下のほうに川が流れその近くにツタに覆われた白い発電所がありました。敵機の目を眩ますためにツタを這わせたのだそうです。その発電所の上には直径1メートルはあるかと思える土管があり、発電のために発電所に水を運んでいました。
その土管の周りにはイタドリや蕗がはえていたので上の姉に連れてゆかれ、ご飯に混ぜるためにイタドリや蕗を取らされました。
多分47年ですが、お米の替りにザラメの配給があったのです。10人家族でしたので樽一杯分ありました。
砂糖など大きくなってから口にした事はなかったのです。母はストーブの上に大きな鉄鍋を置いてザラメを溶かして練り、熱いうちに台に広げて細い棒状にして包丁でチョンチョンと切りました。母が子どもの頃家ではそうやって飴を作ったとか、自分の母の話をしながら・・・。
道場の前とか、谷の反対側のに畑を作っていました。多分そこで収穫したと思われる大豆を母はストーブの上の鉄鍋で煎りました。コーヒーが飲みたくなったと言うのです。そこで彼女は代用コーヒーを作ることにしたのです。
マメを中まで薄茶色になるまで良く煎り、それをすり鉢で粉になるまですり潰すのです。みんな張り切ってガンバリました。小さい私達は両手でしっかりとすり鉢を押さえて動かないようにしました。
家中に香ばしい香りが漂います。みんなみんな待ち通しかったです。
お湯を沸かし、鍋に入れた豆の粉にお湯を注ぎ、それを布で漉したのでしょう。砂糖を入れて湯のみ茶碗で飲みました。
今飲んでいるコーヒーのような強い香りも味も無かったでしょう。でも、香ばしい茶色のの飲み物をとても美味しく思いました。
一人の兄か東京に出てパーコレーターとコーヒー豆を買ってきたのは1954年頃です。それまで我が家のコーヒーはこの大豆コーヒーでした。
今思うと、大豆をそのまま料理して食べた方が栄養的には良かったと思うのですが、このコーヒーは戦後の苦しい生活中では母の唯一の贅沢だったかも知れません。
村には貸家も無く、私達家族は山の中腹にある元国民青年学校の修練道場に住みました。家を一歩出ると目の前は谷、下のほうに川が流れその近くにツタに覆われた白い発電所がありました。敵機の目を眩ますためにツタを這わせたのだそうです。その発電所の上には直径1メートルはあるかと思える土管があり、発電のために発電所に水を運んでいました。
その土管の周りにはイタドリや蕗がはえていたので上の姉に連れてゆかれ、ご飯に混ぜるためにイタドリや蕗を取らされました。
多分47年ですが、お米の替りにザラメの配給があったのです。10人家族でしたので樽一杯分ありました。
砂糖など大きくなってから口にした事はなかったのです。母はストーブの上に大きな鉄鍋を置いてザラメを溶かして練り、熱いうちに台に広げて細い棒状にして包丁でチョンチョンと切りました。母が子どもの頃家ではそうやって飴を作ったとか、自分の母の話をしながら・・・。
道場の前とか、谷の反対側のに畑を作っていました。多分そこで収穫したと思われる大豆を母はストーブの上の鉄鍋で煎りました。コーヒーが飲みたくなったと言うのです。そこで彼女は代用コーヒーを作ることにしたのです。
マメを中まで薄茶色になるまで良く煎り、それをすり鉢で粉になるまですり潰すのです。みんな張り切ってガンバリました。小さい私達は両手でしっかりとすり鉢を押さえて動かないようにしました。
家中に香ばしい香りが漂います。みんなみんな待ち通しかったです。
お湯を沸かし、鍋に入れた豆の粉にお湯を注ぎ、それを布で漉したのでしょう。砂糖を入れて湯のみ茶碗で飲みました。
今飲んでいるコーヒーのような強い香りも味も無かったでしょう。でも、香ばしい茶色のの飲み物をとても美味しく思いました。
一人の兄か東京に出てパーコレーターとコーヒー豆を買ってきたのは1954年頃です。それまで我が家のコーヒーはこの大豆コーヒーでした。
今思うと、大豆をそのまま料理して食べた方が栄養的には良かったと思うのですが、このコーヒーは戦後の苦しい生活中では母の唯一の贅沢だったかも知れません。
すばらしい思い出のコーヒーですね。大豆のコーヒーはどんな味なのでしょう。glimiさんのお母様の味なのでしょうね。なんだか温かい気持ちになりました。
家族との思い出は、ずっと消えることのない大切なものですよね。ほんと、大事にしていきたいです。
今黒マメコーヒーとかいうのが売られています。多分似ていると思います。
人はどんな時でもそれなりの楽しみを見つけることができるという見本でしょうか。