最近、昔の写真を私の死後捨てる箱に入れたとこのブログに書きました。その写真にはボランティアだけでなく障害を持つ子・その親・兄姉も映っているので公開するのはふさわしくないと思ったのでした。 でもまた取り出しました。きっかけは’すずちゃんののうみそ’という絵本と出会ったことでした。
この本は作者竹山美奈子さんが娘さんの日常をテーマに自閉症とはどんなものかを子どもにもわかるように説明している絵本です。(岩崎書店、定価1600円 書店には並んでいませんでしたの私は注文して買いました。)
https://takesuzu.exblog.jp/ すずちゃんのブログ
長男が小学校2年生の4月PTAの会合で、横浜の戸塚区で障害児の訓練会が作られそれに参加するので役員は引き受けられないという人に出会いました。彼女はある大学の児童科出身で福祉を専攻していました。私も児童福祉科専攻、それに2男を早産しました。彼は母乳も吸えず、乳児期には反応がなく、歩きだしたら多動になり果たして正常に育つかどうか不安になり、当時出版された’正常児’という本を買って調べたりしました。私のそんな子育て経験を活かしたいと彼女に頼み込み、下の子を連れて会に参加しました。駅までバス、電車を乗り換えて。上の子たちはまだ小学低学年。上の子どもたちの世話はアパートの隣人たちが協力してくれました。
もう46年も前のことです。記録をとっていないので参加した子どもの人数など覚えていません。最初の子どもが何人でボランティアが幾人いたかも覚えていませんが、私が辞めるころには、福祉専攻した者3人、保育所勤務経験のある保育士2名、学生2名、いわゆる専業主婦の方5~6名、数年後には別の場所を見つけて会も週2回に増えていました。
これらの多人数をまとめ上げ、それぞれの生活経験を発揮させた保育者のまとめ役(チーフ)は素晴らしい人でした。穏やかで活動的で、保育者と子どもとその親たちの気持ちを即座にくみ取れるような人で、共に育て、共に働くとはどういうことなのかこの7年間で一生役に立つ経験を私はさせてもらいました。学費を払って大学の授業を受けても決して得ることのできない経験でした。ボランティアは報酬があるのとよく聞かれます。参加するときはもちろん出費覚悟でした。隣の市から通う私には交通費には足りませんでしたが、親の方たちはお礼として500円出してくれました。数年後、寄付金とか、助成金とかが出るようになり、交通を上回る額になった記憶があります。
訓練会というと何をするのかと疑問に持つ方もいるでしょう。障害を持つ子は成長に時間がかかります。外出もままならないことがあります。当時は幼稚園、保育所で受け入れて貰らえませんでした。家族以外の人と接する機会がないので生活経験も少かったのです。生活経験を増やしてやること、また、生活経験を増やせる場に出てゆけるように自信をつけてやること。それが訓練の目的ですから当然楽しく遊ぶことが主な訓練です。他の子と遊べるようになって、幼稚園に受け入れて貰えた子が出た時、私たちは本当に喜びました。
下記に紹介する写真は1973年~79年にかけての一部で、詳しい年は覚えていません。親たちの多くはもう70代でしょう。子どもたちも50歳前後です。写真の姿から現在の容姿を想像し、個人を特定することはでいないでしょうし、もし特定できたとしても当時の子どもたちの生活の一部を知ってもらうためなら許してくれでしょう。プライバシー侵害と抗議がきたらその時に写真を削除してもよいと考えました。
子どもは遊びで育つ
母親たちは子どもを保育者に子どもを託して学習したり、子どもが遊ぶ姿を眺めて楽しげにおしゃべりをしたり。
餅つきも楽しかった!
フラワーセンターへの遠足
十数年後、高校生になったこの男の子は作業所の集まりに参加して、私を見つけると走ってきました。
夏は合宿もしました。
水に入りたいが海は怖い。でも好奇心の方が強かったようです。
合宿にはボランティアの子どもたち、訓練会に参加している障害児の姉妹や兄弟も参加しました。
1991年世界エスペラント大会はノルウェーのベルゲンで開催されました。初めての一人旅でオスロが首都になる前にノルウェーの首都だったというコングスベルグのエスペランティスト訪ね、当地のディーケア(日中の家庭:Tagohejmoと呼んでいました)を見学していました。自閉症の幼児が散歩から帰ってきたところに出会いました。帰るとその子は床に置かれたマットに横になりました。カーテンが天井からつるされていて、小さな三角形のテントになるのです。そしてテントの上からはその子の愛用のおもちゃがいくつかぶら下がっていました。そこは彼専用の休憩場所でした。散歩の付き添いは二人。ひとりはまだ小型化されない大きなビデオカメラを担いでいました。職員会議でビデオを職員全員で見て子どもの発達状態、その後の処遇について話し合うのだということでした。もっと知恵のある子には朝、来所した時に自分のカード自分の予定を張り付けるなどさせていました。(マジックテープのついたA4のこの予定表は先日処分してしまいました。)
その後スウェーデンのへルシンボリのエスペランティストを訪ね、作業所やグループホームを見学しました。私は私に作業所づくりに手を貸してと仕事を持ってきてくれた方の仕事場を見学させてもらったことがあります。そこにはグループホームが併設されていましたが、利用者は6畳間に二人でした。土地が広いとはいえ部屋の広さは驚きでした。一つのグルーホームは広い庭を持っていました。もう一つは町の中の集合住宅の2階でした。自立し、アパート住まいをする準備としてホーム内で調理できる台所もありました。(話は飛びますが、2003年スウェーデン・エーテボリで行われた世界大会の時はコングスベルグの世話人のガールフレンドのところに宿泊しました。その時彼女は87歳だったでしょうか。老人用アパートで暮らしていました。しかしそこには数名の学生が住んでいました。もしの災害が起きた時に弱者を手助けできる体制が整っているのでした。)また、ヴァシュテラスに住む、重度の障害児を持つエスペランティストが来たらどんな生活をしているか家を見せてあげるというのでヴァシュテラスへも。
時々感じるのです。もっと知識があったら幼児期にいろんな経験をさせてあげられたのではないか。その子たちが大人になった時現在よりも、もっと豊かな心で暮らせる下地を作る手助けができたのではないかと。
1990年11月末、カナダにいる姉から仕事の関係で凄く格安い航空券が手に入る、私の生活を見に来て!と電話があり。休暇をとって1週間だけでしたが、冬のカナダへ出かけました。姉は自分が住んでいるナイアガラフォールスの作業所を見学できるように準備していました。
その作業所では身だしなみを教えるのは言葉ではなく、たとえばシャツをはみ出したり、靴下がきちんとなっていないというような写真を画面に映しまう。モデルはそこに通っている利用者たちでした。それを見てみんなは可笑しなところを話し合い、最後にきちんとした身だしなみ同じ利用者が映し出されます、するとわいわい言っていた利用者もイエス!イエス!と満足するのでした。作業所ですが学習も継続していました。一人は文字が書けないと言っていました。パソコンを操り、国語の問題を解いていました。質問を読み、イエスかノーの枠にチェックを入れるのです。文字は書けないけれど読むことはできるのです。もう一人は隣で算数をしていました。日本でも小学一年生が5飛びの数を枠に入れるとか学習します。パソコンで枠に数字を入れていました。一人につき週に2回ほど学習指導をしているということでした。学習指導の一つとして物の名前を教えるカードがあり、それをお土産にといただきました。私の作業所にはそれほど重度の利用者がいませんでしたので、エスペラントの会話練習にでも使えないかと考えて今でも持っています。
またここでは造花を作ったり料理をしたりもしていました。ライオンズクラブの会合が夕食付で月に1回開かれるのだそうです。夜になるのですが、料理・配膳・後片付けも利用者が中心でやっているそうです。私が訪問したのは午後早い時間でしたが、会合の開かれる日に当たり、数人が準備に取り掛かっていました。
付記
カナダでの指導員が作業所で青年に国語・算数を教えていることに驚いた私に言った言葉を付け加えます。この人たちは成長は遅いけれど確実に成長しています。成長し続ける限り、私たちは手助けし続けます!
姉の疑問:日本に落第という制度がどうしてないのだろう。カナダの小学校では、1年生のクラスに6年間在籍する子はいる。1年生の勉強を6年間繰り返し卒業する子もいる。たからといって誰も差別しないのに。学習能力でクラス分けされていたら特殊学級(現在の特別支援学級)は、いらないかも知れないのに!
パソコン不慣れです。写真を取り入れたり、どこに入ったかわからなかったりと苦心しました。時間を費やしました。伝えたいことは沢山あったのですが、まとめるのが難しく、これでやめます。この長文を読んでくださったかた、ご苦労さまでした。感謝します。