glimi

生きること:過去と未来とエスペラントと

間もなく出発!

2009-07-13 05:30:26 | エスペラント
 昨日のボランティアは本当に楽しかった。
 仕事はスウェーデンの夏至祭の真似をするために飾る花作りから始まりました。
 
 展示室に来た子どもたちを集めたのですが、付き添いの親だけでなく、大人のグループも参加していて盛り上がりました。
スウェーデンの青年が自分の国の話をし、クイズをし、みんなで花を開いてポールに飾りポールの周りをカエルの歌を歌いながら踊りました。
 
 これで私はいよいよ夏休みです。そうそう、質問に夏休みの期間が出ました。スウェーデンでは6月、7月の2か月が夏休みで、宿題は一切出ないそうです。子どもたちの中から羨ましそうな歓声が上がっていました。

 明後日ワルシャワに向けて出発します。1987年ワルシャワで行われたエスペラント大会に参加しているので懐かしい街ですが、当時色々と工事が行われていましたし、様子が変わっているでしょう。

 この街について、まだ何も調べていない事に気が付きました。昼休みに本を2冊借りました。
 斜め読みしながら必要と思われる場所をコピーし、飛行機の中で読むことにします。

 今日と明日は旅に向けて頑張ります。
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エスペラント界の悪口は言いたくないけれど!

2009-07-10 08:03:13 | エスペラント
 どんな組織にも問題があるからごたごた言うのは嫌です。ましてや自分が好きな エスペラント世界について悪口的発言はしたくないのですが、やはり言いたくなることもあります。

 ネパールレンコンティジョのこと:
 私の友人はネパールが好きで何度かトレッキングの企画に参加しています。今年の会は情報が行き届いていなかったと嘆いていました。自分はどこに聞きに行けばよいか分かっているので困らなかったけれど初めての人は大変だったでしょうと。これでネパールの企画に参加する人が少なくならないようにと心配しているようでした。
 まず気の毒だったのはある日本女性。ポーターが荷物を持ってくれることを知らないで最小限の着がえだけ持参して参加。かと思うと韓国人二人は私のバック(38L)の2倍ものバックを持ってきていてそれを持つポーターが気の毒だったとも。 これを機に企画がもっと良くなりますように・・・。

 UEA(世界エスペラント協会)のこと:
 今年のエスペラント大会はロシア国境に近いポーランドのビヤイストックで開かれます。ここはエスペラント創始者ザメンホフの生まれた土地でそれほど大きい市ではありません。
 近年、エスペラント大会の宿泊代が高くなっています。インターネットで調べるとその高さは歴然としています。そんなわけでヨーロッパのE-sto(エスペランティスト)の間に宿を自分で探す人が増えています。ところが今大会に当たってUEAはこの市の殆どすべての宿を押さえたのだそうです。
 それに対する不満が続出。UEAは値段を下げたということでした。

 さて、値段を下げたとメールで確認書が来ました。
 だいぶ以前のことですが、支払いが多かったとUEAから言ってきたことがあります。いつまでも入れておきたくないので本を買うか寄付するかしてほしいと言ってきました。本代に満たなかったのでアフリカ活動に寄付しました。
 そんなわけで、初めて参加する人に、もし、返還を求めるなら確認書を持って行った方がいいですよと教えました。

 ところが確認書は来ていないということでした。もし大会前に彼女に確認書が届かなかったら差別と言いたいです!

 この確認書(konfrlmilo)はとても大切です。実はリトワニアの大会の時これが来ませんでした。この時息子の結婚があって大会を中途で切り上げました。私としてはお金を返してもらえる期日中に変更したつもりでした。大会前に出会った責任者に確認書をもらっていないと告げたら、そのうち届くでしょうという答えでしたが、届きませんでした。
 宿代は戻ってきませんでしたがそれはそれでよしとしていました。ところが3年後に支払金額が足りないと言ってきました。私は足し算と引き算を書き間違えたかと思い、詳細を見せてと言ったのですが、向こうはコンピューターにある合計の計算書しか示しません。こちらには確認書がありません。水かけ論となっています。

 確認書の大切さが身にしみています。もし、安くなった計算がまだ届いていない方はUEAに問い合わせるとよいともいます。ただしメールは申込書に書いているメールしか受け付けないそうです…。
 
 日本人がゴネ得したといわれたくないので、寄付のつもりで今年決着をつけてくるつもりです。
 

 もう一つ:
 ドイツの友人がネパールのE-istojを大会中の全日遠足に参加させようとしたら、他の遠足を申し込んでいない人の全日遠足の申し込みは受け付けないと断られたそうです。
 今年は私も申し込んでいないので一緒に行動しようと約束しました。
 
 ですがおかしい!!
 私はベルゲン・プラハ・エーテボリの大会では全日遠足しか参加していないのです。 なぜ今回は受け付けないのでしょうね!

 
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旅の最後の日(ドイツ)

2009-07-09 08:36:39 | エスペラント
 前の夜彼女に言われました。
 みんな朝7時に起きるけど、みんなが学校へ行くまで寝ていてほしいと。
 6時に目が覚めたのですがまた一寝入り。呼ばれた時は自分の居場所もわからにほど爆睡していました。
 食後、彼女は洗濯物を干すなど家事があるというので私はベランダでねころんで読書。昼近く肉屋のワゴンが来ました。猫たちはもう出かけたようです。肉屋が来ると村の猫たちはご主人さまより先に出迎えに出るとのことでした。
 友人のところでは猫が2匹、ウサギが1ひき、それにモルモットに似ているのですがさらさらとしたタテガミを持ったもの静かな動物が2匹同居していました。

 肉屋は女性二人でした。私を見るといきなり“さようなら”と声をかけてきました。私は笑い、さようならの意味を説明しました。その後4人で大笑。’いらっしゃい!’という言葉を教えました。

 さすがドイツ、美味しそうなソーセージが沢山ありました。

 昼のメニューはジャガイモに牛乳をかけ、オーブンで蒸し焼きしたもの・煮た鳥肉・野菜サラダでした。
 娘のボーイフレンドは1番目にミニバイクで帰宅したのですが昼食が間に合わなかったらしく一人でパンを出し切り分けて食べ、そそくさと出てゆきました。

 午後は近くの森へ散歩しました。帰ってきたら、夫と娘もまた帰っており、コーラスの練習のために急いで出かけてゆきました。
 4時過ぎ、タクシーで駅へ。彼女に別れを告げフランクフルトへ。フランクフルトのホームに彼女の友人が待っていてくれ、空港内へと連れて行ってくれました。 
 この友人は毎年私費でネパールのエスペランティストを世界大会に参加させています。

 今回ほど楽な旅はありませんでした。いつも空港での乗り換えの際、あわてなくてもよいように長い時間を充てるのですが、行きも帰りもエスコート付になりました。
 来週はポーランドに行きますので、書くことを急ぎました。今回の旅の感想は次回で終わります。



 肉の切れ端をもらって喜びの挨拶をして帰宅する猫。2番目は露わな写真を撮られて憤慨しているのかも!


 友人のところでは良くベランダに座りぼんやり風に吹かれたり空を見たり。私がこうしている間に彼女たちはせっせと自分の日常のことをします。ずうずうしいと思うでしょうが寝ころんでいるのも私の気遣いです。
 写真の左下ベランダの破損個所が見えますか。実は私の座っていた椅子が壊したあとです。私は転げ落ちました。事故で死ぬ時の感覚はこんなものかと思うほどとっさに何が起こったかわかりませんでした。ベランダの奥の方は床が新しくなっていたのですがここはまだだったのです。
 友人の話ではほとんどの人が器だけ専門家に頼み内装は自分たちでするそうです。補修ももちろんです。
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昼食は家で (ドイツ)

2009-07-08 07:28:36 | エスペラント
 友人の家はケルンから支線で入った村にあります。でも、私の乗り換えを少なくするためにケルンの手前のリンブルクの駅まで迎えに来てくれました。この駅はまるで荒れ地に作られたような広い殺風景な駐車場に囲まれていました。家は駅から20分ぐらいでした。到着は13時ぐらいだったでしょうか。
 夫と娘が帰りすぐに昼食。なんと娘のボーイフレンドも現れて食器の準備など娘以上に慣れた手つきで手伝っていました。
 この日の食事は庭でとれたという野菜を入れたキーシュと野菜サラダ。水はこの村でとれるミネラルウォーター。食後にコーヒー。
 健康に良いという水は不思議な濃い味がしました。この水を村人は月曜日午前中に2Lビン20本持ち帰ることが許可されているのだそうです。ですから、毎週村人はそこで出会うのだそうです。

 昼食後、サクランボ取りに行きました。近くに村人共有のサクランボの木が20本ほどあり、村民は自由に収穫してよいのだそうです。
 
 教師をしている長女が私のために来てくれました。友人が雑用している間片言のエスペラントで私とおしゃべり。彼女が帰った後二人で先ほど収穫したサクランボと庭で摘んだ苺でお茶をしました。

 夕食は黒パン・生ハム・チーズ・サラダ。食後にアイスクリ-ムとコーヒー。
 パンは週に1度パン屋が売りに来るのでその時買うのだけれど今週は足りなくなったので夫が焼いたというパンと両方でました。両方食べましたが手製のパンも結構美味しかったです。
 食後、夫・娘・そのボーイフレンドはコラースの練習があると学校へ。
 
 彼女は6時にダンス教室の生徒が来るからと大忙し、私も踊るようにと私に衣装を着けさせ基本の踊り方を伝授してくれました。

 ダンスが終わると車で学校へ。コーラスの練習を見に行きました。
 多くの生徒や大人が帰途についています。学校は社会教育の場としても使われています。夜は色々なサークルの活動の場となります。

 日本の学校ももう少し社会に開放し、年代を超えたサークル活動が行えたら、若者と大人の断絶などということも少なくなるかもしれません。

 コーラスの発表会が2日後に迫り、ミュージカル風の振付がうまくゆかず、11時過ぎても練習が終わりません。子どもたちをおいて帰宅し家に着いたのが12時でした。

 


 この写真、どうしてもサクランボと苺を見せたかったのです。苺はいつも朝摘むそうですが、私に新しいのを食べさせようと食べる直前に摘んでくれました。ベランダの上にはまだ青いサクランボの実とブドウがありました。長女は寝ころんだままでこれらの実を摘んで食べるのはとても楽しいと話していました。


 彼女が教えているのはアラビアダンス。アラビアダンスには2種類あり、一つは女性が自分の健康のためにするもの。それは踊ることで背骨や内臓を整える。もう一つはそれをアレンジして人に見せる踊り。家でやっているのは1の方だそうです。この教室のほかに場所を借りて3教室開いているそうです。
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ぶり返してお礼は言わない!

2009-07-07 08:46:08 | エスペラント
 火曜日朝、全日遠足に行く人がいるというのに頼んであったボランティアの車が来なきませんでした。朝食が一緒でエスペラントに興味を示したドイツ人旅行者が出発しようとしていたのでヘルツベルクのバス停まで同乗させてもらいました。このことで日本人の感覚とヨーロッパ人の感覚の違いに気付きました。
 翌朝、また食事で一緒になりましたが誰も、昨日はありがとうなどとは言いませんでした。”お早う”そして別れ際に“あなたと会えてうれしかった!楽しい休暇を。”ぐらいしか言わないのです。

 以前、日本人の挨拶はくどいと言っている言葉を耳にしました。日本人ならこんな時は“昨日はありがとうございます、とても助かりました!”位は最低言うと思いますが・・・。その上細部にわたりいかに助かったか状況報告をする人もいます。

 この日は私がここで過ごす最後の日です。午前中講演を二つ聞きましたがあまり面白くありませんでした。
 一つはエスペラントを発展させるためにエスペラント界の経済の活性化を進めようというのが趣旨のようでしたが、ジョージ・ソロス氏を利用しようという話に聞いていた者たちはあきれ顔でした。
 (私の記憶では’80年代だったと思いますが)エスペラントを軸にして翻訳機の開発がすすめられました。その開発者がソロスだということでした。そして、その翻訳機は今でも大きな国際機関で使われているということです。ですが、他人の懐をあてにしようという姿勢はあまりにも情けない!もっと独創的なアイデアを期待していたのに…。

 午後、遠足以外にすることもなくみなさんの後から散歩。夕刻からお城では宴会が開かれるらしいが申込しませんでした。
 夕食にピザを注文しましたその量の多いこと、悩んでいたら後から来たクロアチア人が持ち帰りなさいと進めてくれました。
 持ち帰ってどう処分するか悩みつつ持ち帰ったのですが、同宿者たちがお茶にしようと喜んで付き合ってくれました。
 明日はいよいよ友人のところです。

 私はインターネットですべての切符を用意してもらっていました。
 同宿のペテロはこの大会を皮切りにポーランド国内をめぐりビヤイストックでの世界エスペラント大会に向かう予定でした。2か月の旅です。ですが、ここでは切符が手に入らなかったということでした。彼は73歳。大したエネルギーです。
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パレード (ヘルツベルク)

2009-07-06 08:38:38 | エスペラント
 5月31日と翌6月1日がこの町のお祭りでした。31日日曜日午後、市内を練り歩くパレードがありました。この日は日差しが強くうだるような天気でした。こんな炎天下歩く気にはなれませんでした。会場では参加するのがエスペランティストの義務だろうなどと議論している人達が多く見られました。

 パレードのは市の様々なサークルが参加していました。市の中心街から住宅街に進み大回りしてまた中心街に戻り広い公園で流れ解散でした。私がビ-ルを1っぱい飲み、焼けたソーセージを食べ公園を出た時、まだ沿い後尾は見えませんでした。(ただし、ビールはなまぬるく、ドイツで飲んだビールでは最悪の味でした。)

 公園にはどこの祭りでも見られるようなゲームや遊具が設置され賑あっていました。

 この市が小さいというのは私の勘違いだったと思えるほど沿道には多くの人が立ち並びを手を振っていました。老人ホームや病院の前では車いすの上から手お振っている人も沢山いました。
 SALUTON という挨拶に SALUTON と返す人たちも多くいました。行進は2時間弱で終わりました。
 私が写真を撮ろうとして苦心していたら誰かが声をかけてくれました。

 下の2枚は知り合った人が送ってくれた写真です!


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展示会(ヘルツベルク)

2009-07-05 07:22:47 | エスペラント
 大会期間中お城ではエスペラント展示会が開かれていました。初期の活動家から最近出版された童謡の本までありました。
 エスペラント以外の会場にはもちろんここに住んでいた城主や庶民の生活用品があります。
 私が気に入ったのは△耳の鋭い眼をしたヤマネコ。現在は生息しているのでしょうか。

 この城の主はのちのイギリス王の祖先だそうです。ある時この城が火事になり、ひとりを除き焼け死にました。助かったのは2階(日本的には3階)の窓から飛び下りた人だったそうです。窓の下に肥い溜めがあり、その中に落ちたので助かり、後にイギリス王になったとか。



城主の名前
 大きなヤマネコでした。

 もうひとつの展示会は市内で行われたドイツに住むポーランド人エスペラント物愛好家のものでした。
 初日の昼に出会ったので人の入りはと尋ねるとまだ誰も来ないということでした。午後訪ねたら私が一番最初の訪問者だととても喜んでくれました。書籍・写真・切手・手紙・お金など個人でよくもこれほど集めたものと驚きました。またその整理の行き届いていること。インドにエスペラントを持ち込んだシンハの直筆もありました。
 この蒐集物の置き場と彼の死後誰が引き継ぐのかと心配になるほどの量でした。

 帰国後写真を送ってくれましたがそれはお見せできません。
 翌日はとても盛況だったそうです。
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講演の中から(ヘルツブルク)

2009-07-03 09:13:08 | エスペラント
詩について:
 IMRE SZABO' 氏が自分が訳したハンガリーの詩人ATTILA J'ZSEF の詩集 PURAKORE(けがれなき心で ?)とその詩人について話しました。ハンガリーでは有名な詩人のようです。
 彼は言います。 Kalocsay が 同じ詩を翻訳しているが原詩がina(女性型)なのに彼はvira(男性型)にしているので、自分はinaに訳したと。
 帰ってからHungara Antologio みるとKalocsay が Kun pura koro と言う題で訳したのを見つけました。しかし、inaとviraの違いは何なのか私にはわかりません。誰か教えてください!

 おもしろかったのはedkado.netを主催する(多分ね!?) Katalin Kovats の講演でした。lernu.netが学習者を対象にしているのに対しedukado.netは指導者を対象にしているということです。edukado.net 有料であること。指導者育成のために3年間の教育も行っていること。この資格はエスペラント教師としてヨーロッパでは認められているとなど話しました。愉快だったのはスウェーデンのIdoの団体が補助金を出しているそうです。
 Ido とは昔エスペランティストの一部がエスペラントを改良し新たなことばを作ろうとエスペラント界から離れて行った人たちが作った団体です。

 彼女は最後に参加者を数人のグループに分け、ひとり1枚、新聞やネットに載った記事を手渡しました。これを与えられた3分ほどの時間で読み、内容を要約しはグループ内で発表し、どれが一番おもしろいか話し合います。そしてそれを全体に発表するのです。
 日本人である私を意識したのか発表された記事には、日本では600万台のピアノが使われず眠っているというような記事もありました。
 日本でこのような学習を取り入れているグループがあるかどうか知りませんが、予習なしでできる点、学習者には楽しいかもしれません。

http://www.edukado.net/  

 後に、昼食の時であった女性に ILEI(エスペラントの教師の組織)であなたを見たことがないと言われました。私はエスペラント教師の資格を持っていないというと、そんなことは重要じゃない、ぜひ参加しなさいと言われましたが、この組織にどんな人が参加しているのでしょうね。
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ひとりでもひとりぼっちではない! (ヘルツベルク)

2009-07-01 08:36:13 | エスペラント
 エスペラント界は不思議な社会です。
 見知らぬ人の中に一人で飛び込んでも、顔があった時'SALUTON'とあいさつをする勇気さえあれば、一人ぼっちになりそうな時に誰かが声をかけてくれます。食事をしようと店に一人で入ると居合わせた人が席を作ってくれるなどよくあることです。

 まあ、そんな一こまです。
 旧東西ドイツに住んでいたドイツ人、韓国人と日本人が一緒に中食を取りました。

 韓国からの若い女性は国費で留学しているということでしたが、残念ながら詳しい話を聞く機会が持てませんでした。

 東ドイツではみんな平等に暮らしていると思っていた…。
 それに対して西ドイツから東ドイツのエスペランティストを訪ね時の驚きがいろいろと語られました。まず、自動車がすべて灰いろだったこと。どうして同じ色かという質問をそれが当たり前と思っている友人は理解できなかったこと。

 旧東側が答える:あのトラバンはみんなが持てる自動車ということだった!

 私が質問:ボール紙でできていたという自動車のこと?
 
 旧東側:えっ、日本でも知られているの?
 いやあれはボール紙ではなくてプラスチックだったよ。いま思うとおかしいのは、申込に年齢制度があって48歳(?)になれば誰でも申し込めた。ただ生産が追いつかないので手にするのに18年かかった。
 労働その他で功績が認められると申込年齢が早くなった。だから党幹部とかは若くても車を持つことができたがそれを不平等とは思わなかった。
 壁が崩れてからわかったのだが、町々の住民の構成も統制されていたのです。同じ位の給料の人を同じ町に住ませる。すると、みんな生活程度が同じになるので、誰も不平等とは感じない。

 アジアの共同通貨の話になった。

 第二次世界大戦で日本がアジアでしたことを思うとアジアの国々は日本に対して警戒心があるでしょうし、だからと言って、日本抜きでアジア通貨を作ることができないでしょう。無理でしょうと私。

 私たちも大戦中はヨーロッパのほかの国々と敵対し、日本以上に悪いことをしたかもしれない、それでもユーロを持てた!

 それはドイツが隣と国境を接した大陸にあるからでしょう!日本は島国、孤立させておけば安全とアジアの国々は考えるかもしれないし・・・。千年後のことはわからないけれど…と私。

 韓国の女性は何も言いませんでした。

 いろいろな出会いがありました。
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