今年になって赤毛のアンの再放送がテレビであったと思ったらまた放映された。ついつい録画して見てしまった。赤毛のアンはこの度再放送されたもの以外にも違ったフィルムがと二つほどであったが私のイメージっ違っていたので途中で見るのをやめてしまった記憶がある。
アンに出会った時、私は中学生でした。高校生の姉が友人から拝借したものを読んだのでした。訳者は村岡花子だったと思う。私の記憶違いでないとすれば本は4巻でした。正確であるという自信はないのけれど、題名は赤毛のアン・続赤毛のアン・アンの青春・炉辺荘のアン。
その中にアンが新しい出発を決心すときに口にした言葉があった。`曲がり角には夢がある’。私と姉は困った時、新しい決断を迫られた時いつもこの言葉を口にしました。
なぜこれほどまでにアンが私たちを奮起させたのか。それは私たちが生まれ育った時代背景があるかもしれない。姉は1938年生まれ、私は1940年生まれ。戦争中の食糧難も経験している。日本が戦争へ突き進んでゆく中で兵力増強のために兵隊が必要であり、国策として女性が、子どもを産むこと、特に男子を産むことが奨励されていた。男子を沢山産むと表彰されたという話も聞いたことがある。そんなわけでどこの家も子沢山でした。私もも8人兄弟の7番目で、兄が四人と弟が一人でした。私の行動は他の女性たちと同様に、幼い時から’女のくせに!’、’女だてらに!’と言う言葉で制限されていました。小学校入学は1946年で、民主主義教育が唱えられ、学校教育の方針が変わた年だったけれど、教科書は無く、ノートの鉛筆も不足していて、教師は、ほとんどが旧制女学校や旧制中学校を卒業した経験不足の若い人たちでした。
民主主義は唱えられても風習というものは変わらないもので、家では兄たちに小間使いのように雑用をさせられる日々は続いていました。姉は虚弱体質で10歳まで生きられるかどうか保証できないと生まれた時に言れたそうで、私とは全く違う待遇を受けていました。学校を休むことなかったけれど、授業中でも疲れたと言い、学校の宿直室で大半は寝て過ごしていたようです。当時は保健室などありませんし、警備員もいません。夜の警備は男性教師が交代で行い、その就寝場所として宿直室がありました。姉のそんな生活は高校卒業まで続きました。
私にはもう一人、12歳年上の姉がおりました。長姉が、いつも次姉の世話をしていました、彼女が家を出てからは次姉の布団の上げ下ろしも、私の仕事でした。
私はいつも毎日家族からも社会からも抑圧されていると感じては抵抗して敗北していました。時にはみんなに保護されている姉を羨ましいと思うこともありました。姉は姉で、なんにでも抵抗を試みる私が羨ましかったようです。姉も後にエスペラントを学び、私の仲間になりました。友人たちに姉妹喧嘩はしなかったのかと幾度も聞かれましたが、本当に喧嘩をしたことがないのです。今になって思うのはもしかしたら、私が我を通していたのかもしれません。
私はいつも閉そく感のある生活から抜け出したいと思っていました。母でさえ、頑張ってここから出てゆきなさいと言っていました。
アンの行動力に私たち強い刺激を受けました。意志さえあればある程度の困難は切り抜けることができると信じるようになっていました。
親は県内の大学を勧めました。家を出たら授業料以外は出さないとも言いました。そんな親に反抗して大学は東京を選びました。高校3年生の秋、予約奨学金の制度ができ、教師の勧めで申請して志望大学に入ると奨学金をもらえることとなりました。それだけが私の生活を保障してくれるお金でした。後の生活はアルバイトと、時に兄たちがくれるお小遣いで賄っていました。
同じころ、体が弱いにもかかわらず姉にはいろいろと縁談が舞い込んでいました。こんな田舎で私は飼い殺しになるような生活をするなんて嫌だ姉は嘆いていました。
翌年の春、つまり私が2年生に進級したころ姉が友人の手を借りて家出し、箱根の旅館で働きはじめました。仲居としての労働は大変な重労働だったようです。当時、兄が3人と長姉も東京に住んでいました。姉は4人に助けを求めました。長姉は谷中に住んでいて古い土地を手放して移住しようと動いている最中なので、妹の世話までできないと断りました。兄たちは家事でもしてくれるなら考えるけれど、料理も掃除もできない妹とは一緒に暮らせないと断りました。そして私に言いました、’あの子は必ずおまえをたよってゆく。絶対に家に帰せ。一緒に暮らしたら共倒れになる!’と。
あの閉鎖された社会で一生を終える!私には耐えられないことでした。そのことを姉に強いることはできないと思い、姉に二つの約束をさせました。夏休みの2カ月間アルバイトして部屋代を貯めるから、少なくとも2カ月待つこと。姉は調理ができない。お金がないから食費も節約しなくてはならない。予算内で私が作った料理は文句を言わないで必ず食べること。
姉は本当に偏食で、魚が苦手なだけでなく、食べられない野菜も沢山あったのです。ですから私が一番心配したのは食事でした。姉が同意したので夏休みはアルバイトに明け暮れて、京王線だったと思うけれど方南町ということころに小さな部屋を借り、兄たちの困っても助けてやらないという声の中で共同生活をはじめました。
当時大学は原宿にあり、新宿で乗り替えます。授業が5時ごろ終わると新宿で下り、三越にの地下に行きます。運がよければ、5時半の安売りに間に合って、半額セールのハンバーグなどを買うことができました。冷蔵庫など一般家庭には無い時代でした。お弁当のおかずには良く鯖缶を使いました。苦手でしたが、鮭缶の半分ぐらい値段で4缶100円でした。ラーメンとキツネ蕎麦は40円だったと思います。私と暮らすようになってから姉は一度も寝込みませんでした。丈夫だと言われた私は時々熱を出していました。
数カ月後長姉は板橋区に建売住宅を買い、近くに6畳4部屋のアパート建てました。よく頑張った!家賃は半額してあげるから、引っ越しておいで!と手を差し伸べてくれました。頑固だった父も折れて、昔の教え子に頼んで姉にきちんとして定職を捜してくれました。この間、困ったことがあると私たちの合言葉は’曲がり角には夢がある’だったのです。
姉がエスペラントを始めた時、学業で忙しくなった私と交代するように、私が所属していたグループに入りました。仲間たちはあんな活発な(お転婆!)妹さんがいたのでは、毎日大変でしょうねと言ったそうです。でもね、私のせいで妹が苦労しているという必要もないと思うので、そんなことは無い、大丈夫と答えて言うと話していると言ってきました。みんな。表面しか見ていないのよねとも。
姉がエスペラントを使って使って日本を脱出したのは1966年でした。エスペランティストの手助けで、スイスで2~3年働き、その後カナダに渡りました。いつか、アンの故郷のプリンスエドワード島に行こうねと私たち話し合っていました。
姉が素晴らしいガイドがいると言いました。個人で1カ月のツアーを組み、友人の息子に運転させて旅するのだそうです。彼女が参加者を募集するとほとんど同時に埋まってしまうので参加が難しいとのことでした。席があれば数日間の参加も可能だということでした。
1997年6月、私たちは義姉とその友人と共にプリンスエドワード島が含まれるその女性のツアーに6日間だけ参加しました。私にとっては2度目のカナダ旅行でした6月6日に成田を経ち、19日に帰国しました。
出発の2~3カ月前,グリーンゲイプルズは放火されました。悔しいことに中に入ることはできませんでした。
プリンスエドワード島で迎えてくれた透明のアンと共に。
57歳!私も若かった!
1992年。初めてのカナダ訪問で買ってしまった本です。いつか読みたいと思ったけれど単語を忘れ、発音がなっていないのでもう読めません。いつかと言いう日は永遠に来ない日のことをさすと身にしみて感じてます。
誰かに読んでほしい634ページです。
付記
当時私たちは家族内でグレン隊を名乗っていました。映画の紅蓮隊にちなんでですが、文字は燃え上がる紅蓮の炎の紅蓮隊です。両親・兄姉たちは'我ら紅蓮隊’と言う言葉にいつも苦笑いをしていました。