glimi

生きること:過去と未来とエスペラントと

ヴァシュティラスの若者とグニッラのこと

2005-07-17 11:32:04 | Weblog
 私を宿泊させてくれた若者は27才と言っていました。顔と友人のオーバンは思い出すですが名前が出てきません。

 スウェーデンには兵役があることをご存知でしょうか。それも自由意志で拒否できるのです。彼は兵役を拒否しました。その場合、兵役期間と同じ期間社会福祉施設で働かなくてはなりません。彼は老人ホームで働いたそうです。
 軍隊は嫌いですが、少なくともある時期が来ると若者は福祉についても考える機会あります。ある意味では羨ましいと思いませんか。

 彼の用意してくれた食事はバナナとキュウリとトマとパン、それにヨーグルトに生のブルーベリーが添えてありました。白いきれいなホタテ型の皿に盛り付けて見栄えよく演出していました。日本語だと見せてくれたヨーグルトの箱にローマ字でonakaと書いてあったことです。

 彼はコンピュウター技師で冬でも30分の距離を自転車で出勤しているとの事。この地は地域暖房してあるので大通りは雪は積らないがたまに凍っていることがあるので危険だけれど、寒さの中を走るのは気持が良いので止められないということでした。

 朝8時ウィンが来てグニッラの所に連れて行ってくれました。今日は彼女の休日です。家も庭の広く羨ましい限りです。部屋は子どもの部屋3つ、広い夫婦の寝室、応接間と台所と食堂でした。
 応接間には彼女の祖母が織った15cm×40cmほどの花模様の壁掛けがかかっていました。彼女は当時90才で、83才から織物を始めたそうです。スウェーデン織りは道具を使わないので幾つになってもできるそうです。
 備考: スウェーデン織りは枠に縦糸を張り横糸は指で通し、ホークで押さえて織ってゆく。

 障害のある息子のためのトイレやバスに手すりがあります。それは折畳式で上下にも動きます。付けっ放しだと他の家族には不便だからと言ってました。

 庭には夫が実家の森から一人で切り出して建てたというログハウスがありました。白夜はほとんどそこで過すそうです。彼女はエングホルム生まれですが、ヴァシュティラスの方が白夜が長いのでこちらが好きと言いました。『いつ寝るの?』と訊ねると『疲れたら目をつぶり、ゆったりと過すのが良いのだとか。白夜休暇があるかどうかは聞き忘れました。
 昼頃、グニッラの車でバス停へ。リムジンで空港へ向かい日本へ。

 その後、5年ほどグニッラとは文通しました。スウェーデンには日本のようにコロニーという大きな施設があったわけではありません。それでも障害者を地域で生活させようと、福祉施設を縮小する事になったそうです。家族が障害者と一緒に暮らすことを選んだ場合世話をする家族に職員と同じ給料を与えるのです。今までも金土日に帰宅していました。グニッラは外で仕事をするより息子と共に暮らせる方がよいと息子引き取ることにしました。彼女が言うには常に医師、心理臨床士、ケースワーカーが、サポートしてくれているので心配ないし、家に居れる方が息子にとっても良いと考え決断したと言うことでした。
 グニッラが忙しくなったので文通も途絶えました。

 その後のウィン:
 本当にウィンは脳に損傷を受けているのかも知れません。数年後にあった時ウィンは親しげに私に話し掛けました。しばらくして『君は商売の話しをした中国人だよね。』と言いました。『嫌だ、私は日本人・・・。』というと『失礼!間違った、僕は日本人には知り合いがいなかった!』と去って行きまました。実は帰国後、歌をあまり知らない私の為に歌のテープなども送ってくれていたのです。

   

 さて、明日から8月1日まで恒例の主婦休暇です。みなさんお元気で!!


 


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ウィンの話:遠い島スマトラ

2005-07-16 06:25:23 | Weblog
ウィンはお茶を飲みながら言いました。
『あなたはいつ私に賠償金を払ってくれる?』私はビックリしました。少し話しを聞いて判ったのですが、これは私への要求ではなくて日本人に対する要求でした。エスペラントでは単数でも複数でも2人称はviなのです。

 ウィンはオランダ人だったのです。彼はスマトラ島で生まれました。現在のインドネシアです。3才の時に日本がスマトラ島を占領し、男達は強制労働に借り出され、女と子どもは強制収容所に収容されました。ウィンの母親の話によると劣悪な環境で多くの子どもがチフスその他の病気でなくなったということです。
 ウィンは収容されてすぐに熱病に罹り、母親の必死の看病で命は取りとめたのですが、8才での記憶が全く無いと言うのです。
『僕は少し狂っているんだよ。頭がおかしいんだよ』と彼は淡々と言いました。静かな森のキャンプ場でそう言われると、私は背筋が寒くなるようは感覚に襲われました。
 訴訟を起しているが埒があかないとウィンは嘆きました。

私は以前、日本人が作った強制収容所に関する本を読んだことがあります。題名は多分『遠い島 スマトラ』だったと思います。作者も訳者の名前は忘れてしまいましたが、二人ともエスペランティストで、作者はオランダ人の女性で収容所にいた時はまだ10代の少女でした。
日本人はナチスのように死刑執行はしなかったのですが、豊な支配者であった収容された人々にとって、その生活は耐えがたく過酷なものだったに違いありません。
 衛生状態がわるく弱いものが次々と病気になるので、生水対策とかシラミ対策とかで女性たちが協力する様が描かれていた記憶があります。

 このアジア侵略について日本人がヨーロッパ人からアジア人を解放してやったという人が現在でもいます。それはアメリカがイラク派兵を正当化しているのと同じです。私は日本の侵略を正当化するつもりはありません。日本は自分がアジアの覇権を握りたかっただけで、アジア人解放と言うの単なる方便であると思っています。

 ですが、このオランダのエスペランティストの書いた内容にも、私を反発させる所がありました。表現は違っていますが『私達は文化的水準の低い人達を啓発し、助けるためにこの地にやってきた』と言うような内容が書いてあったのです。私はその傲慢さに腹を立てながら複雑な思いでこの本を読んだのでした。

 その日私はウィンに案内されてヴァシュテラスの民族村に出かけ、古い生活様式(?)を見学、夕方、引越しでキャンプ場に来れなかった若者ところに行き、3人の若いエスペランティストとおしゃべりをして、その晩そこに宿泊させてもらいました。

つづく
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ヴァシュティラス:キャンプ場の夜

2005-07-15 09:35:52 | Weblog
やって来たポーランド人は夫婦と妻にエスペラントを教えている女性の3人でした。夫は車の持主兼運転手でエスペラントは全く話せませんでした。その指導者の名前を思い出せないのですが、Mとしておきます。
 これ以来、東ヨーロッパからの便りを時折り受けるとるようになり、どうしてかと思っていたら、ある時名前しか知らない日本人から電話が来ました。彼が援助している子どものための教育組織の機関紙に私の名前が載っていたと言うことでした。

 夕食に何を食べたのが全く記憶がありません。多分パンとチーズとお茶でしょう。Mは私達にコーヒーを勧めました。私は遠慮しました。コーヒー漉しが無いのにどうやっていれるか興味津々で見ているとカップにコーヒーの粉末を入れてお湯を注ぎウィンに渡しました。一口飲んでウインはこれ『インスタントじゃない、どうやってのむの?』Mは笑って上手に上澄みだけ飲んで見せました。

東ヨーロッパの一般的コーヒーの飲み方
 カップはガラスが一般的でした。勿論持ち手がありません!お湯を注いだら、ゆっくりとかき回します。コーヒー滓がそこに沈むのを待ちます。ミルクを入れたいときは静かに入れます。コップの縁に親指をかけ、底に人差し指その他をかけてそっと持って飲むのです。とても熱いのでしっかり持つことなどできません。チェコの森を歩いた時にもこれには苦労しました。すい方にも要領があるようで、私の飲み方は滓が口に入ると言われましたが、上手に飲むのは難しいですね!当時砂糖は貴重品なので殆ど入れてなかったようです。

 キャンプの夜の過ごし方は昔、囲炉裏を囲んで子ども達がおじいさんやおばあさんの話しを聞いていた頃を想像して頂けたら良いと思います。
 長い黄昏の時間を近況を話したり、『機関車が山を上って行くよ・・・。』などというエスペラントの童謡を歌って過して、暗くなった11時過ぎ、ウィンは自宅へ戻り、私達はテントへ。二人の女性は隅がよいと言う私に、風が入ると可哀想だからと二人の間に寝かせてくれました。
翌朝、かれらは北上するのだと勇んで出て行きました。3人で数週間エスペランティストの所に泊めてもらいながら旅をするということでした。

私とウィンは湖から水を汲んできてテントを洗いました。今年はもう誰も来ないかテントはお蔵入りすのです。

洗ったテントを干しながら私達はお茶を飲むことにしました。でも、お茶が無かったのでエスペラントの敵の友だちからウィンがティーパックを貰いました。

そして広い森の中でのんびりとお茶を飲みながらウィンが奇妙な事を言い出しました。

つづく




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エングホルムからヴァシュティラスへ

2005-07-14 09:56:39 | Weblog
 ヴァシュティラスはストックホルムと湖で繋がっています。その距離100キロと言うことでした。初めここへ行く予定はなかったのですが、施設探しをしてあちこち便りを出していたら、この地のエスペランティスト、ウィンとグニッラが遊びに来いと声を掛けてくれました。グニッラは身体的にも知的にも障害のある息子がおり、また織物をしてました。

 エリザベス・オーバン夫妻の所には4泊したのですが、滞在が短いので忙しいと言われました。独身のMsan はいつも夏の終わりとクリスマスに3週間滞在するのだそうです。母屋に余分な寝室が1つしかないので離れに夏用として10畳ほどのログハウスが建ててあり、ベットが二つ入れてありました。今度来るときはもっと長く滞在しなさいと説教めいた事を言われ3人に送られて汽車に乗りました。

 汽車の中では焼津にペンフレンドがいるという若者が声をかけて来て、自分もヴァシュティラスに行くからとストックホルムでも私がホームを間違いないように案内してくれましたし、ヴァシュティラスでおりてからも、ウィンが来るまで自分を迎えに来た人と一緒に私と一緒にいてくれました。エスペラントしか喋れない私にも、なぜか彼らの喋る英語がわかるのです。英語を喋れない私はうまく答えられないのでちょっと残念でした。

 私は反英語論者ではないので簡単な英語が話せたら良いと思いました。ただ、日本人がどんない頑張って英語を勉強しても、英語で自分を主張し、外国人と議論しあう事ができるほど上手になる人は日本人の数%に過ぎないだろうと言う思いがあります。それなら、同じ土俵で話し合い、時には議論しあえるエスペラントのほうが有効だと思うのです。そんなわけで英語は中学から、大学まで授業を受け、若い時には仕事のために英語の専門書を読んだのですが、この40年の内に構文はおろか簡単な単語さえ忘れてしまいました。もはや英語を復習時間は私に残されていませんし、エスペラントで海外の人たちと交流を重ねるより方法はないと硬く決意をしているのです。  

 ウィンは手紙で、私を primitiva domo(原始的家)に泊めると言っていました。長靴下のピッピが好きな私は映画で見たゴタゴタ荘を想像していたのですが、なんとそれはキャンプ場のテントでした! 
 広い敷地にキャンピングカーが点在し、配線は空中には見えないのに、所々の木にコンセントがぶら下がっています。多くのスウェーデン人は夏の数週間このようなキャンプ場で過すのだそうです。欲しいものがあっても、買い物い行きたくなければ事務所に頼んでおくと取り寄せてもらえるので、ただただのんびりと過せるそうです。シャワー場と手洗いは少し離れた所に男女に分かれて建っており、かなりの人が同時に使用できる環境でした。

 私たちのテントの隣はウィンに言わせるとヴァシュティラスにおける『エスペラントの敵』の友だちだそうで、声をかける時も『amiko de malamiko de Esperanto』(エスペラントの敵の友人)と呼んでいました。かれらは家族4人でした。3週間滞在しており、後1週間いる予定だと言うことでした。理由は水が冷たくなってきたのでもう泳げなくなるからとのことでした。ヴァシュティラスでは、夏中テント暮らしで、休暇が無くなるとテントから勤めに行く人もいるそうです。

 ウィンはポーランド人を迎えに行くと出かけました。私はひとり湖に行きました。鴨です!10羽ほどの鴨が一列に並んで数メートル先から飛び立ちました。丸々と太った鴨。その大きさは『鴨とり権兵衛』さんの話はあながち嘘ではなかったのではと思えるほどでした。

つづく!
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エングホルムのディケア施設とグループホーム

2005-07-12 15:58:36 | Weblog
ディケアの利用者は20数名でした。この施設の窓から見える所にモンテソリ学校がありました。

 モンテソリ方式についてはご存知ない方もいるかもしれませんが、子どもの自主性を伸ばすことを目指した教育方法で知られています。パズルに似たおもちゃ等沢山あって障害児の訓練にも使われています。

 その日はちょうどモンテソリ学校から、ディケアに移って来た男の子がいました。移る時その学校で使っていたパソコンも一緒に持ってきたので、今日はそのデモンストレーションをすると言うのです。

 彼は体の自由が利きませんでした。自分の意志で動かせるのは右手の親指だけだそうです。両手首は椅子からずれないように車椅子の肘掛にマジックバンドで固定されていました。手のあるところにパソコンの端末を固定してもらい、自由な親指を使って彼はパソコン操作を始めました。先ず私によくいらっしゃいましたと挨拶を書いてくれました。書いた言葉は音となって私たちの耳に入ってきます。ですから、彼が冗談を言ってハハハハと書くとそれは笑い声となって、まるで話しているように周りに人に響くのです。
勿論これらのことはMsan のスウェーデン語からエスペラントへの通訳のお蔭で私は理解していたのですが。

 突然他の青年が入ってきました。彼は言語障害で話ができないということでした。車椅子の男の子は彼に聞きました。『君も話したいのか。』青年は興奮のあまりウーウーと唸っていました。『僕が教えてやるよ。』男の子はそう言って『ハハハ・・・。』と笑いました。この機械はスェーデンでも最新のもだったのかも知れません。それにしてもこの少年のおおらかさ、屈託のなさは驚きでした。自分を表現できると言うことがこの男の子に自信を与えていたのでしょう。

 廊下ではダウン症の男の子がごねていました。他の部屋でやっている部品の組み立てのような作業をしたくなかったらしいのです。そばを通る人たちは彼を自由にごねさせておき、『ハーイ』と声をかけ、笑顔向けて通っていました。こんな時日本では働きなさいと説教する、あるいは説得しようとする人が現れるでしょうね!     
 
 別の部屋では織物をしていました。ひとりの女性が私に織物は易しいよと声を掛けて樋を飛ばして見せたり、織物の巾を固定する道具を使って織って見せてくれました。

 エリザベスは30cm×45cmほどのテーブルセンターを二つ買いました。縦糸は細目の凧糸でしたが、横がジャージ地の裂き織りです。日本ではTシャツの裂き織りなど見たことがなかったのですが、足拭きマットなどに良いかも知れません!

 彼女は記念にと私に一つくれました。

 グループホームはまるで原っぱの中にあるような印象を受けました。平屋で勿論個室です。土地があるということは羨ましいですね。

 あの少年の部屋もありました。他の部屋と違うのは寝る場所が車椅子からすぐに横になれるように高床式になっていました。また移動させる時は補助としてバンドで固定して吊り上げるのです。日本では重度障害者の介護で腰を痛める話しを良く聞きますが、援助者の健康に対してもきちんと配慮がなされていました。バスも同じ方法で使わせているということでした。

 少年がひとり残っていました。今日はディケアに行きたくないとホームに残ったのだそうです。することがないと指導員に言ったら、したいことがあるからとホームに残ったのでしょうと言われ『絵を書く』とかなんとか言っていました。本当は客が来るというので残りたかったのだと指導員は笑っていました。

 指導員は、ホームの周りに柵があるのが恥ずかしいと言いました。その柵は高さ70~80cmでそれほど高いものではありませんでした。彼女が言うには自閉症の子がいて飛び出すと足が速く大人は追いつけず、近所総出で探し回らなくてはならなかったのだそうです。そのため、彼の動きを止めるために柵を作ったと言うことでした。庭が広い上にどの家にも柵がないので、広い原っぱに家が点在している感じだったのです。

 土地の広さがゆとりを生むのでしょうか。

 エリザベスの話しでは、これらの施設の利用対象者はエングホルムを含めて近隣の町村人口3万人いうことでした。

 帰りにエングホルムのショッピングセンターに行きました。大きなジャガイモを焼いたのが売っていました。大きさ8cm×12cmほどの楕円形です。ハムとかチーズとか好きなのを挟んでくれます。皮は少々黒くこげていましたがほくほくして美味しかったです。



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エングホルムの福祉施設

2005-07-11 11:29:21 | Weblog
 エングホルムの福祉施設を私が訪ねたのはもう14年前です。その後色々と改革があったので現在は多少違っているかも知れません。また、日本でも障害を持つ人の権利に対する考え方が変わってきています。当時のスェーデンとの差は縮まっているかも知れません。

 エリザベス・オーバン夫妻の息子さんの友人がグル‐プホームで働いていたので、彼女の案内で3つの施設を見学しました。
複雑なことは通訳できないとエリザベスが言うので通訳はフランス人のMsan がしてくれました。彼はエスペラントだけでなくスウェーデン語もわかり喋りもします。エスペラントをやる方は他民族の言語に興味がある人が多いようです。エスペラントの世界大会は各国で開かれますので、彼は大会で友達になった人にいつもその国の言葉に付いて聞いていました。自国語に興味を持たれて嫌な人はいませんし、政治や宗教問題について話し合うより友人になるのは簡単のようです。ですから、彼はヨーロッパ言語だけでなく中国語も片言ですが喋ります。私といる時は始終日本語ではどういうかを質問していました。日本語も今ごろは上達しているかも知れません。

 出かける前にエリザベスが言いました。『障害を持つ人の中には『写真を撮られるのが嫌な人がいるかもしれないので、写真は写さない事にしましょう!』と。
 ですから、私は写真機を持って行きませんでした。そんなわけでこの訪問の時の写真は一枚もありません。

 はじめに訪れたのは4階建てのアパートです。大都市は別としてスウェーデン人は平屋が好きなようで、集合住宅は少ないように思います。その施設は自立支援の施設でした。すべてが施設ではなく、2階部分だけです。つまり、障害者が普通の人達の目の届く所で暮らしているのです。但し2階に通じる階段とエレベーターは専用で一般人は使用できません。また、身体障害者と知的障害者の区別がありませんでした。

 利用者は6名ほどで、部屋の広さに驚きでした。1室15畳ほどの広さでベット、テーブル、大きな家族の写真が飾ってありました。また、入所する時は今まで使っていた愛着のある家具を持参させているということで、書棚などを置いている人もいました。慣れ親しんだものを置くことは、利用者が安心して快適に暮らす為に必要な事だと話していました。
 この利用者の部屋と比較すると従事者の部屋は6畳位で、2段ベットが2台おかれていました。また、彼等が働いている時でも職員が一人常に待機しているのです。
 ここを利用している人たちはそれなりの仕事に従事していています。ここで訓練するのは日常の生活の為のこと、調理・洗濯・掃除などです。共同の調理場食堂の他に個人で調理できる一般サイズの調理場のついた食堂もありました。ここでの生活はそれほど長くなく次に自立した生活が待っているのです。

 次はディケアについて書こうかなと思っています。
 こう言う話はなんとなく口説くなるのが難点ですね!


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テロで未来は拓けるか!!

2005-07-09 08:59:59 | Weblog
― 英ロンドン中心部で起きた同時爆破テロ事件で、ロンドン警視庁は8日、死者が50人を超え、このほか収容できない遺体が依然多いと発表した。一方、事件直後に国際テロ組織「アルカイダ」の関連組織名で犯行声明が出されており、クラーク英内相はこれを重視し、犯人の割り出しを急いでいると言明した。―

 7日夕刻、ニュースでロンドン中心部の駅で同時に数ヶ所が爆破されたと言うニュースが流れた時、10年前の地下鉄サリン事件の恐怖が蘇りました。

 この事件は聖戦アルカイダを名のるヨーロッパに住むイスラム教徒の犯行であると断定されました。地下鉄サリン事件も自称宗教集団を名乗るオーム真理教の犯行でした。どちらも、乗客が逃げ場を持たない狭い電車と言う空間であり、地下鉄という更に人目をひかない場所を選んでいると言う卑劣さです。
 
 地下鉄サリン事件がおきた同じ年、1995年、イスラエルのラビン首相は同じユダヤ人の青年に暗殺されました。

 宗教の存在意味は何でしょうか。人を幸福すにする為のものではなかったのではないでしょうか。現在の多くの争いが、宗教の名のもとに行われるのは何故でしょうか。

 現在の争いは単に宗教の仮面を被っているに過ぎないと私には思えます。経済を手中に収めたい者が、権力を我が物にしたい者が、伝統的宗教を信じる者たちに、自らの宗教が脅かされていると教え込み、聖戦の名ももとに戦いに駆り立てていると思えるのです。

 多くの良識ある人はこれら権力を握ろうと躍起になっている者から一般も人を切り離そうと努力していると思うのですが、その目的を達成するには長い年月に及ぶ教育しかないように思えます。

 そんなことを考えると絶望的気分になります。事件から目を背け日常の安穏の中で生活したくなります。

 エスペラントを作ったザメンホフは自分の人生の最後にホマラニスモ(HOMARANIMO)― 人類人主義 ― を唱えました。私はこの主義を信奉しているわけではありませんが、彼の詩の一節を紹介します。なぜなら、これ以外に言葉が見つからないからです。

Kuniĝu la fratoj, plektiĝu la manoj,
Antaŭen kun pacaj armiloj !
Kristanoj, hebreoj aŭ mahometanoj
Ni ĉiuj de Di’ estas filoj.
Ni ĉiam memoru pri bon’ de l’ homaro,
Kaj malgraŭ malhelpoj, sen halto kaj staro
Al frata la celo ni iru obstine
Antaŭen, senfine !

≪意味≫ 
 兄弟達よ集れ、手をつなごう
 平和的な武器で前へ!
 クリスチャンもユダヤ教徒もイスラム教徒も
 私達はみんな神の子です。
 人類に対する神の祝福をいつも覚えておきましょう。
 そして邪魔があったとしても、止めず、立ち止まらす
 私たちの共通の目的に向かって頑固に 
 際限なく前と進みましょう。

 これは Preĝo sub la verda standardo (緑の旗の下での祈り)と言う詩の最後の一節です。

 宗教は嫌いですが、今、私の気持を鼓舞してくれるのはこの言葉くらいでしょうか。
      
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スウェーデン・エンゲホルムへ

2005-07-07 09:19:26 | Weblog
 1991年ベルゲンで開かれた世界エスペラント大会参加後、ノルウェーのコングスベルグに立ち寄り、スウェーデンに行きたかったのですが、エンゲホルムのエリザベスに日をずらして欲しいと言われましたので、ゴングスベルグからオスロを通り北へ行き、ナルヴィクからバスでスウェーデンに抜けてエンゲホルム(日本の地図にはヘルシンボリと書かれてる)に着きました。エリザベスとオーバン夫妻が駅で待っていてくれました。汽車の中では変な英語を話す日本人と同席者に言われ、かなり緊張していた私も、エスペラントが通じる夫妻に会えて、言葉が通じるとはこんな嬉しいものかと感動しました。

 エンゲホルムはデンマークと最も至近距離にある町です。
 私が、デンマークに行かないと知ると夫妻は最後の日に(4日目)フェリーでコペンハーゲンに連れて行ってくれました。
 
 フェリーはスェーデンのエンゲホルムからデンマークのエンゲホルムに行くのです。二つの町は書くと一字違いですが、呼び方は同じなのだそうです。その時、私より一日遅れでやってきたフランス人のMsan も一緒でした。彼は詳しく歴史を話してくれたのですが年代も、デンマークの女王の名前も忘れてしました。
16世紀、スウェーデンがデンマークから独立しようとした時、最後の戦いは凍てついたこの海の上で行われたそうです。当時、デンマークを統治していたのは女王でした。その女王はデンマーク人に対しては非常に慈悲深く名君と慕われていたそうです。しかし、スウェーデン人に対しては苛酷な税金課しました。戦いの年、スウェーデン人は餓死寸前で、どうせ死ぬなら闘って死ぬことを決意しデンマークに戦いに挑んだのだそうです。表情は真っ赤に血に染まり、倒しても倒しても怯まないスウェーデン兵士に強大なデンマーク軍は恐れをなして敗走しました。こうしてスウェーデンは独立を勝ち得たという事です。

 スウェーデンは福祉国家と言われ私達の憧れの国です。その福祉国家の理念の元は生死を共にすると誓ったこの戦いの時に生まれたのだと彼は話してくれました。
 時々、スウェーデンの国家財政は破綻するのではないかという事を言う方がいます。しかし、共に助け合って生きてきたスウェーデン人達が利己的になり、他者を見放すことを私は想像できません。

エングホルムの港近くに高い塔があります。塔の中にはいるには木製の橋を渡ります。入ってからも、塔に上るにはらせん状の道をぐるぐると回らなければなりません。中央には底が見えない真っ暗な大きな穴があるのです。所々道は穴の端を通る木の橋なっています。多分いざという時にこの橋を外そうと考えていたのでしょう。戦いに負けて塔の上に逃げたとしても生き残れるはずはないのに、少しでも敵にダメージを与えたかったのでしょう。

 このような戦いの歴史があっても、人は時間をかければ歩みより、友人になれるのです。  

         
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作ってみよう!

2005-07-05 17:12:33 | Weblog
  自分で作れるものは何でも作ってみましょう!それが私の信条です。

  先日息子の家からキダチアロエを一株もってきました。今日は化粧水を作りました。 


 アロエの化粧水を作ってみましょう。

用意するもの。
 A:消毒用エタノール。油こし紙2枚。アロエ適宜

 B:まな板、アロエを仮に入れる入れ物二つ(小さなボールと計量カップ)ミキサー。化粧水入れ。紅茶用   茶漉し。すべて熱湯ですすぎ、消毒した気分になります。

1.アロエをすべてバラして洗います。


2.アロエは両縁を取り、それから皮をむいて透明なゼリー状だけにします。

3.ゼリー状のアロエをミキサーで砕きます。私は、胡麻などを砕くミルを使っています。

4.茶漉しに油こしの紙を敷き、砕いたアロエを漉しながら計量カップに入れます。

5.計量カップで計ったアロエにアロエの10%アルコールを加えます。

6.アルコールを加えたアロエジュースをもう一度茶漉しを使って油漉し紙で漉します。

 これでアロエの化粧水は出来上がります。化粧水ビンに入れて冷蔵庫で保存します。

 実は、私は肌が弱いので作業の途中で手が痒くなってきます。それが3~4日経つと、化粧水として使っても大丈夫なのです。

  アロエアレルギーの方は真似をしないでください!  

 もう2年間、自家製化粧水です。美しくはならないけれど、醜悪にもなりません。!

 今日はアロエ石鹸を作る分のアロエジュースも取り、冷凍庫に保管しました。手づくり石鹸についてはまたいつか!? 
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ふしぎな関係

2005-07-04 10:02:04 | Weblog
 オラフとドーリーのふしぎな関係について少し述べます。

 オラフはノルウェーに住んでいましたし、ドリーはスウェーデンのエーテボリに住んでいました。二人は結婚しているわけではありません。でも、頻繁に行き来し、互いの家に1ヶ月とか2ヶ月とか一緒に暮らしていたのです。勿論、一人暮らしの時間もあるのです。ドリーがオラフの所にいる時は、彼女の娘さんから毎日元気にしているか電話が入っていました。

 若い頃、サルトルとボーボワールの生活、同じアパートで階の違う部屋に暮らす二人に私は憧れていました。結婚という事にこだわらず、こんな形の人生の同伴形態があっても良いと思っていたので、何の不自然さも感じませんでした。

 この出会いから3年後だったでしょうか、オラフの娘さんが肺を犯されました。なんとかいう菌が肺に付き肺が機能しなくなる病気です。彼女は言語治療士でその夫は小児科医でした。助かる道は肺の移植しかないということでした。その時ドリーはこの娘さんに呼ばれました。そして、父が一人になるのは可哀想なので結婚してやって欲しいと頼まれ、随分悩みました。でも結婚に踏み切れませんでした。結果を見るとドリーの選択は間違っていなかったと思います。
 娘さんが亡くなった後、その夫はオスロに出てゆき、オスロにいた孫娘が結婚して同居し、その後下の孫娘も結婚し、祖父の近くに住みました。5人の曾孫がオラフの所に出入りし、彼を慰めてくれていたようでした。
 北欧の人たちは親子でも独立していて、個人主義的で、家族関係は冷たいように見えます。しかし中味は干渉はしないが支えあうという暖かさが感じられます。
 それと比較すると日本の家族関係の方か、べったりとくっ付いているわりには利己的で、相互の思いやりに欠けているように私は感じる事が多いです。

 
 それから数年後、オラフからは同じクリスマスカードが届き、3度目の時にはクリスマスカード送りましたか、と書いてありました。その後、便りはありません。

 日本も長寿国になりました。10年ぐらい前までは老人の恋愛関係が話題になりました。最近あまり話題の上りませんが、日本もこのような自由な関係が認められるようになったのでしょうか。

 最近結婚を敬遠する女性が増えていると聞きます。一人で肩肘張っておらず、もっと真剣に男女が共に生きる生き方がないか模索しても良いのではないでしょうか。

 以前、若い女性が≪男性は信用できないから老後のために小金を溜めて一人で生きる。その方が気楽≫と言っているのを聞きました。確かに一人暮らしは気楽でしょう。でも、火花を散らしながら共に生きることも気楽とはいえませんが味のある(?)人生といえるかもしれません!!

  
 
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雨の詩(うた)

2005-07-03 10:06:10 | Weblog
 雨のせいでしょうか、気分がすぐれないのでテンプレートでも替えようとあれこれ試しました。でも、字が読みにくくなったので結局元に戻しました。今日はザメンホフの詩を書き間込みました。エスペラントに興味の無い方は伊東三郎氏の訳詞でその気分を味わってください! 

 Pluvo(L.L.Zamenhof)

1.Pluvas kaj pluvas kaj pluvas kaj pluvas
 Senĉese, senfine, senhalte,
 El ĉiel’ al la ter’, el ĉiel’ al la ter’
 Are gutoj frapiĝas resalte.
2.Tra la sonoj de l’ pluvo al mia orelo
 Murmurado penetras mistera,
 Mi revante aŭskultas, mi volus kompreni,
 Kion diras la voĉo aera.
3.Kvazaŭ ia sopir’ en la voĉo kaŝiĝas
 Kaj aŭdiĝas en ĝi rememoro…
 Kaj per sento plej stranga, malĝoja kaj ĝoja,
 En mi batas konfuze la koro
4.Ĉu la nuboj pasintaj, jam ofte viditaj,
Rememore en mi reviviĝis,
Aŭ mi revas pri l’ sun’, kiu baldaŭ aperos,
Kvankam ĝi en la nuboj kaŝiĝis?
5. Mi ne volas esplori la senton misteran,
Mi nur revas, mi ĝuas, mi spiras;
Ion freŝan mi sentas, la freŝo min logas,
Al la freŝo la koro min tiras.


  雨
 しとしとと しとしとと、ふりつづき ふりつづく、
 小止みなく いつまでも 晴れ間なく、
  空から地面へ 空から地面へ
 しずくの群れが 打ちつけて はねかえる
 雨の音を とおして わたしの耳に
 しみこんでくる ふしぎな つぶやき
 うっとりと聞き入って 私は聞きわけてみたい、
 空の聲(声)は何というのか
 なんだかその聲(声)に といきがひそんでいるようだ、
 そこに思い出が 聞えてくる 
 かなしいような うれしいような ……  伊東三郎訳
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困った臭木

2005-07-01 09:36:19 | Weblog
 臭木 という木をご存知ですか。ちょっと嫌な匂いのする木です。青い実を付けるのです。その色で絹を染めると晴れ上がった空のような色になりす。


 もう十年以上前のこと我が家にハートに似た葉っぱを持つ木が生えてきました。『小鳥の贈り物!』。どんな花が咲くのかとそのままにして置きました。8年ぐらい経った時、木は突然ぐんぐんと大きくなり源平蔓に似たエンジと白の花を咲かせました。花が散りだすとさあ大変!!
 まるで吹雪きのように散り積る。近所迷惑と夫は怒る。掃除しても掃除しても散り積もる。そして、小さな実をつけました。直径5ミリほどです。そこでようやく臭木と分ったのでした。

 実が青くなるとヒヨドリがやって来ました。ヒヨドリに負けないように私も必死で実を摘みました。

 染めると素敵な空の色。ところがこの木は‘沢渡り’といって4メートル以上に伸びる元気ものなのだそうです。散る葉の量も半端ではありません。等々枝をジョキンジョキンと切り取りました。

 この狭い庭に‘沢渡'とは!

 枝を切り取られた木はもう実をつけなくなりました。すべて切り倒そうと思っていたら今年またぐんぐん伸びてきました。実が収穫できるかも知れません。切るべきか切らざるべきか、生い茂る臭木を眺めて、ハムレットの心境です。 

コメント (9)
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