glimi

生きること:過去と未来とエスペラントと

脳の構造がおかしい?!

2005-06-11 07:44:30 | Weblog
 夕べは変な夢を見ました。今日はエスペラントの講習会だと言うのに出かけたら、リュックに教科書が入っていない、ああ、講習生は一人も来ていない!! 

 子どもの頃からこうなのです。なにかしなければならないと思うと必ず失敗した夢を見るのです。それならば失敗しないように事前の準備をきちんとし、繰り返し練習すればよいと親は言いました。でも、準備をすればきちんとできる人と、準備をすればするほど好奇心が拡がって、自分の考えをまとめられなくなる人もいることを知らない大人もいます。
 最近は添削する事でどうにか自分の考えをまとめられるようになりました。
 先ず気付いたことをドンドン書く。それと自分の持つ課題とを比べて、ドンドン削ってゆくのです。こうなるには半世紀に渡る修行があったといえるでしょう! 

 よく言葉を間違えます。例えば小学生になっても間違えていた言葉は≪洗う≫と≪笑う≫です。一度間違えたのを姉が面白がって、『ハーイG子、言ってごらん!!』 と繰り返すものだから、緊張すると言えなくなるのでした。今でも姉のようなことをする人を見ると虫唾が走ります。

 脳の伝達組織の発達障害といべきかも知れないこの癖は生涯直らないでしょう。
 エスペラントを人に教えることで困ることは、緊張するとこの発達障害出てきて、rとlを逆に書いたりするのです。また、エスペラントの発音ですが、子音と子音+uは日本人にとって良く似ています。例えば、bとbu、cとcu、dとduのように・・・。
 と言うことは、話すように書き、書いたように話すエスペラントにおいて、日本人は始終間違いを犯し易いという事になります。とりわけ私のような人間は間違いを犯しやすいのです!!

 そこで私の対処法ですが、例文を書く時はいつも辞書を手に持っていること。講習生が書き写す前に待ったをかけて、私の書いたつづりが正確かどうか確認すること。私がどれほど間違いを犯しやすいかを彼等に分かって貰らうためです。


 ああ、今日辞書を忘れたらどうしましょう!! 



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やっと織れました!

2005-06-10 14:33:08 | Weblog
 布を織るのが好きです。
 以前知的障害のある人たちと一緒に働いている時に、お金になって、楽しめる仕事は無いかと始めました。草木染めも独学で覚えました。 
 
 仕事を辞めたらエスペラントと織物三昧の生活をするはずでしたが、人生はいろんなことがあるものです。そんなに優雅に暮らせません。
 昨年は友人達と織物用に使っていた場所も引き払いました。どんなに忙しくても年だけは過ぎてゆくのです。みんなに体力があるうちにけじめを付けることにしたのです。

 今、織り機は狭い私の部屋にあり、私はその横で身を縮めて寝ています。 

 友人が茶色の布が欲しいと言います。色が無かったので昨秋月桂樹で染めました。化学薬品を使わず、触媒に氷酢酸に銅線を漬けて置いた液を使ったせいでしょうか、色が薄いようで繰り返し染めても中々濃くなりません。まあそれも良しとしましょう。


 今週は時間が作れそうと、3週間ほど前から、短い時間を見つけて糸を整経し、筬に通し、綜こうに通し準備をし、昨日と今日の午前中で、幅60センチ、長さ2メートル余の布を織り上げました。

 良かった良かった。 

 縦糸の色はコーヒーと月桂樹の茶色、お茶のグレイ、楢の葉のベージュです。横は月桂樹で。細い糸と太い糸で変化をつけました。でも、太陽光線でわかるくらいの微かな変化です。
 ああ、友人は気に入ってくれるでしょうか。 

 織物は気ままに自分の好みでやる方が楽しいですね!!
   
 
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我が家のネギ

2005-06-09 07:37:11 | Weblog
 我が家の庭はとても狭いのです。それでも野菜を植えるのが好きです。

 5月の連休の頃でした。郵便局員が生もですと小包を持って来ました。こちらが上ですと手渡された箱には矢印が書いたあります。矢印の先には『こちらが上。』とマジックで大きく書いてあります。受け取るとやけに軽い・・・。

  中には、姉が育てたねぎの苗が入っていました。プランターに生ゴミで作ったたい肥が入れてありました。それを2分して二つのプランターに植え込みました。

  ピンと伸びたその苗は真っ直ぐにぐんぐん大きくなりいました。抜いてしまうのが可哀相で、つい緑の部分だけ切ってしまいました。

 そしたらまたそこから若い葉が出て・・・。 

 きっと夏中薬味として活躍してくれるでしょう!!
  
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平和な社会!

2005-06-08 09:26:46 | Weblog
 東京の空襲で両親を無くした友達のきょうこちゃんの事を書いたところ、鈴木Pさんからコメントを頂きお訪ねしました。
 蓮花ブログと言って海老名香葉子さんの作られた歌に関するブログでした。
 
http://blog.goo.ne.jp/tbinterface.php/df1aa1eeb946aebbe0d062985794e1ea/01

 先日記念碑の序幕のニュースをテレビで見ました。このブログを読んで戦争で亡くなられた方々への思いを歌に託す一族の心が伝わって来ました。
個人は小さいですが、戦争は嫌だという思いが集れば大きくなります。ガンバッテください。

 平和な社会とは戦争が無い社会である同時に、子ども達が安心して大人達の保護に身を任せることができ、力の無い人達が安心して生きていける社会だと思っています。 



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焼夷弾

2005-06-07 09:06:59 | Weblog
 集束焼夷弾についてはある程度の知識があったのですが、東京大空襲・戦災センターで初めてM64型のカプセルの大きさを見ました。

 集束焼夷弾とはどんな物か知らない人もおられると思いますので説明します。
 小さな焼夷弾がカプセルに沢山入っていて、投下されると数秒後にカプセルが開き、小さな焼夷弾が蜘蛛の子のようにちりじりに飛び出すのです。飛び出した焼夷弾には爆発用の信管があり、中にはナパームというゼリー状の油が入っています。また、空中でで互いににぶつかり合って爆発しないようにバランスをとる細長い麻布が付いていたそうです。ちょうど凧の足のようなものです。

 集束焼夷弾の場合、形は6角形です。蜂の巣と同じくまとめると丸に近くなるので丸いカプセルに収めることができるのです。E48集束焼夷弾は小ぶりです。M64のカプセルは長さ140センチだそうでこの実物大の模型は初めて見ました。納められている焼夷弾の長さは50cm強で、19本が一まとめにしてあり、カプセルには2段になって入っていたので、カプセル一つに38本入っていました。

 3月10日未明に東京大空襲の際におちてきた焼夷弾の数は一秒間に45本。まさに降りしきる雨のようだったそうです。

 以前横浜市の鶴見で空襲を経験した女性に話しを伺ったことがありました。彼女は坂の上近くにある防空壕から声を掛けられそこに逃げ込んだということでした。空襲が終わった時、傾斜した地形の下方は全て燃え尽されていました。そして倒れて亡くなったている人の顔はやけに白くとても不思議でしたと彼女は話していました。

 その理由がわかったのです。焼夷弾は燃える時、熱さは2000℃に達するそうです。そのため酸欠が起こりなく、亡くなった人の顔が白く見えるのだそうです。

 しかし、この爆弾がポーランドを攻撃するためにソ連が開発したこと、日本が被害を受ける以前に中国で使用していたということは始めて知りました。

 今も次々と残虐非道な爆弾が開発されています。そして死の商人達は富を集めています。いつ、私達はこの死の商人達にとどめを指すことができるのでしょうか。暗澹たる気持になりますが、平和を願うことを諦めるのは嫌ですね。


 
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東京大空襲

2005-06-06 09:57:00 | Weblog
 6月5日(日)東京で開かれた関東エスペラント大会に参加しました。

 午後の遠足は東京代空襲・戦災資料センターが含まれていました。そこは私が一度行きたいと願っていた場所でしたので勿論この遠足に参加しました。私は、私の幼い時の友だちがどんな経験をしたのか知りたかったのです。

 幼児期私はある田舎町に住んでいました。1945年、春、近くに住む6年生のお姉さんが私と同い年の女の子を連れて私の所にやってきました。彼女の名前はきょうこちゃん、戦災孤児でした。3月東京で空襲にあい、両親と弟(あるいは妹)を失ったのです。彼女の話によるとその空襲は日中でしたから、夜に襲われた3月10日の大空襲より前だったと思われます。 

 5才の女子が5才の友達から聞いた話しですから、強烈に響いたことしか記憶に残っていません。

 そして彼女の話は・・・。
 おとうちゃんとおかあちゃんがお芋を買いに行ったの。おにいちゃんと赤ちゃんと3人で留守番してたの。お昼が過ぎてから空襲警報が鳴ったの。お兄ちゃんが赤ちゃんを背負って外にでたら、通りの向こうからおとうちゃんとおかあちゃんが走ってくるのが見えたの。でも焼夷弾が沢山おちてきて、他所のおじさんたちが行っちゃダメって・・・。おとうちゃんとおかあちゃんのいる方じゃなく、反対の方にお兄ちゃんと一緒に走ったの。上野のお山に着いた時は暗かった。他所の人が直撃で赤ちゃんが死んでいるって言った。お兄ちゃんは赤ちゃんをお山に埋めたの。それから汽車に乗って伯父さんの家に私を連れてきて、学校に戻ったの。

 夕陽を見る度に、きょうこちゃんは繰り返しこう話して大声で泣きました。5才の私には慰める言葉もなく、タダ一緒に声を上げてワァーワァーと泣き続けました。昭和20年(1945)はやけに夕陽が多かったように私には思えます。

 後に私の母は、二人が泣いている時は手のほどこしようも無かったと話していました。その時きょうこちゃんのお兄さんは中学1年生でした。

 彼女と友だちになって以来、私達は食事と寝る時以外はいつも一緒でした。私は兄弟が多くて食事もこと欠く時代でしたが、母は私と弟にオヤツをくれる時はいつもきょうこちゃんの分も忘れませんでした。朝、彼女が来ないと私は彼女を迎えに行きました。
 きょうこちゃんの伯父さんは、いつもほんの少し明りが射し込む土間で木を削ったりしていました。指物師で病気があって兵役が免除になっていると大人たちは話していました。
 私が覚えているその一家は、伯父さん、その妻、きょうこちゃんより一つ年上、当時国民学校一年生の女の子とおじさんの6年生の妹でした。

 私が訪ねた時は、いつもきょうこちゃんは土間に続く暗い部屋で泣いていました。時には伯母さんが声を荒げていることもありました。あの時代に扶養家族が一人増えるということは大変なことだったでしょう。ですから、きょうこちゃんにとっては辛い日々が続いていたのです。それでも母は、夕方きょうこちゃんがどんなに帰りたくないと駄々をこねとても彼女をおじさんの家に送りとどけるのでした。母はそれがきょうこちゃんの保護者である伯父さんへの礼儀だと私に言いました。

 翌年三月、父が転勤になりました。私達家族は山奥の村に引越しすることになりました。きょうこちゃんをどうなるか私にとっても大問題でした。私達の引越しについては大人達はきょうこちゃんに秘密にしました。私も話すことは厳重に禁止されていました。彼女が私達と一緒に行く事に伯父さんは暗黙の了解をしているようでした。後は私の両親の決断でした。初め二人は彼女を連れてゆく決心をしているようでしたので私は安心して彼女と遊び暮らしていました。
 引越しの荷造りが始まると家の中では遊べません。彼女は異変に気づき、おばさん、おばさんと母にまとわりつくようになりました。

 そして引越し当日・・・。
 家は学校の近くにあったのですが、その学校の裏の土手できょうこちゃんと遊ぶように命じられました。誰かが迎えに行くまで決してその場を離れないこと、離れたら私を置いても家族は汽車に乗るだろうと。
 私は家に居たがる彼女を誘って学校の裏に行きました。帰ろうという彼女をなだめてその場に居続けることは大変でした。
 兄が迎えに来ました。私に家に走って帰れと言いました。私は驚いて家に帰ると空っぽになった家の前に母が立っていました。母は私に小さなリュックを背負わせて、手を握り駅へと走りました。すぐに汽車が入ってきました。きょうこちゃんを伯父さんの所に送り届けた兄も駈けてきました。兄が汽車に乗るとがたんと汽車が動きました。
 その時です。大勢の見送りの大人の間をすり抜けてきょうこちゃんが現れたのです。
 『伯母ちゃーん、私も連れてって!!Gちゃん私も連れてって!!』
 彼女は木製の閉じられた改札口を通ろうとガタガタ揺すりながら大人たちに抱きとめられていました。デッキにいた私が飛び出さないように姉や兄達が私を押さえ込み列車の中に引きづり込みました。その泣き声は何年経っても、何十年経っても私の中で響きます。彼女のことを思いだすと私はひどい罪悪感を覚えます。私は友達を裏切り、大人は私に友達を裏切らせたのだと。

 父は何度も私に弁解しました。問題は彼女の兄一郎さんの存在だったと。我が家で彼女を養子にすると家には同じ年代の男の子が3人もおり、かれは出入し難くなる。そうなるときょうこちゃんをたった一人の肉親から引き離すことになると。彼女をたった一人のお兄さんから引き離してはいけないと。

 私は2度ときょうこちゃんに会うことはありませんでした。高校生になったある日、当時の私の友だちのお母さんが、近くに来たからと訪ねてきました。私にきょうこちゃんのことを伝えたかったとおばさんは言いました。

 きょうこちゃんは中学2年生の時肺炎で亡くなりました。私は田舎に帰った時、その駅を通過することがあります。でも一度も下車したことがありません。

 
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○○○探検隊

2005-06-05 00:51:24 | Weblog
 私がボランティアをしている施設には展示室があります。子ども達に外国の文化を理解してもらうための展示、戦争についての展示や私達が世界から孤立しいては生きていけない、つまり世界の人たちと共存してゆくために何をしたら良いか、教えるのではなく訪問者に考えてもらう資料などが展示してあります。 

 ここでは年6回のコースで子ども達の探検隊が組織されます。参加者は1年生から~4年生までです。勿論公募です。

 今日は数名欠席者がいましたが子ども達が22名集りました。

 
 今年は1年生が多かったです。毎月1回の集まりですが、4.5回すると幼児ぽかった低学年生がしっかりしてきて、自分の意見を述べ始めるのです。そこに至る変化が面白くて子ども達との付き合いはは辞められません。

 今日印象的だったのは4年生の女の子です。昔の教科書の表紙が横書きなのに右から書いている事に気がついたのです。それはひどく彼女には印象的だったようです。

 『どうして昔は横書きを右から書いたのですか。』と質問しました。

 『これはね、横書きじゃなくて縦書きなの! 1行に1字書いただけのなのよ。』との説明を受けました。

 『ふ~ん?』そしての子は感想にこう書きました。

 『昔の人は、横に書きたい時は縦に1字書いて横書きだと思っていたのです!!』

 凄いですね。彼女の回答が固定観念で縛られている大人より正確かもしれません!!
 


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 木造りのSYCHROV城

2005-06-03 08:07:11 | エスペラント
 もう思い出の話は終わりにしましょう! 

 8月1日はヤブロネツの商店街で買い物をしたり、家の裏庭から続く森や泉を散歩して過ごしました。
 私は記念にマリエが使っていたものと同じ形のパン切り機を買いました。現在は電化されているので残っていた手動の最後の物でした。
 でも考えてみると、日本ではハムもチーズもほとんど薄切り、堅い黒パンは面白いように切れるのに、日本の食パンは柔らかすぎて潰れてしまうのです。実用品ではなく、まさに記念品となってしまいました。
    

 夕食は私が街で調達した材料で炊き込みご飯を作りました。長男も付き合ってくれました。

 翌8月2日、ヤブロネツ最後の日です。
 長男が車でお城まで送ってくれました。ライネとマリアンネもやって来ました。
 驚きましたね!なんとマリエとライネが切符売りの人と交渉して私がサイン帳に日本文字でサインすることを条件に私の入場料をタダにしてしまったのです。

小学生が見学に来ていたので、私達は20分ほどまたされました。城の中で鉢合わせしないようにです。

 内部は立派な石造りのお城に見えました。外へとで出る広い階段もまるで大理石です。ところがこれはすべて木で出来ているのです。
 この城を作った貴族は石で作るほどのお金がなかったので木製の城を石造りに見せて作ったのですが、それでも破産してしまい、一クローネも払わなかったそうです。
 この城の維持費は莫大でチェコ政府にとって重荷です。そこで現在、スイスに住んでいる城主の孫に、この城を返還するので、借金を支払うように申し出ているが、相続人は相続を拒否しているということでした。
  

 帰りは汽車で帰りました。これは自分で払ったので切符が残っています。6クローネでした。

 夜遅く、明日汽車でドイツへ帰るというライネとアネマリエがやって来ました。ライネは私がチェコの記念品を買わなかったろうとチェコ民謡のCDを買って来てくれたのでした。私は最後に運良く残っていた手拭いと絹のスカーフを二人に渡しました。

  翌朝、大きな犬達と記念撮影をしてプラハヘ。
 バス停には心配したハナとイジナが待っていて飛行場へ連れて行ってくれました。

    私は無事機上の人となりました。 

  

 私は成田空港で3万円をクローネに換えて行きました。プラハ・ヤブロネツで使ったお金は2万円強でした。お金の額とは比較にならないほど沢山のことを経験し、人の優しさを頂きました。残ったお金はエスペラントの集まりがある時に使って欲しいとイジナに手渡しました。
 後にマリエからはお金は受け取った、みんなで使わせてもらいますという便りが届きました。

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また森へ!KRUSNE HORY

2005-06-01 09:09:16 | Weblog
 7月31日また森へ。イジナのくれた絵はがきによるとそこは温泉保養地で有名なカルロヴィ・ヴァリの東に位置する深い森でした。
 7時過ぎ駅へと走り列車で30分。鍾乳洞を見学。これはヨーロッパで1番目とか2番目とかに大きいと彼らは自慢していました。

 鍾乳洞の裏山から森に入ります。森の美しさ、空気の爽やかさについてはもう語らないことにします。大きく伸びた針葉樹と緑の大地をひたすら歩きました。時には空も見えません。いくつか休憩所はありましたが、途中2回休憩しました。一回はコ-ヒーを飲み、一回はビールを飲みました。コーヒーは粉に(インスタントコーヒーではありません)直接お湯を注ぎ、かき混ぜ、粉が底に沈むまで待つのです。飲みにくい・・・。      
 渓流に沿って歩いているといつのまにか川幅が広くなり、川は深く、激しく流れとなっていました。
 イジナが対岸の建物を示し、世界で初めに作られた水力発電所で、今の稼動していると自慢します。

 マリエはポツンと言いました、。『娘はこの川に飛び込んだの・・・。』
 彼女は娘がどこかで助け出され、記憶を失ったまま生き続けていると信じたがっています。この深さと水量では助かる見込みはなく、遺体が見つからないのは当然とわかっている筈なのに、20年経っても諦め切れないのです。母親とは哀しいもです。

 いつか日の光が差し込むようになっていました。ボブスレーの競技場に出ました。マクスはこちらが近いからとボブスレーの滑る樋の上を歩き出しました。銀色に光るその道は狭くて磨き上げられているのに彼は上手に歩いて行きます。マクスはボブスレーの選手だったそうです。

 森を抜ける時、マクスに聞きました。『今日は何キロぐらい歩いたのですか。』とたんに彼は不機嫌になり言いました。

 『そんな事を気にするのは日本人だけだ。森を歩く時は時間を気にしないし、距離も計算すない。体に合わせた歩く。疲れた人がいたら途中で中止する。それが基本だ!』 そして木の幹についている印を示しました。雪が降っても見えるようにとかなり高い位置ですが、赤、青、黄、白などの線が引いてあります。それが道しるべです。それをたどればいつでも森から抜けられるということでした。それでも、経路の距離を教えてくれました教えられた距離だけでも23キロでした。

   

 夕方8時頃、マリエが帰宅し、私達はマクスの別荘にゆきました。それは渓流の傍に立っていました。マクスは石積み工だったそうで、数年掛けて外壁の石を積み、内装もほとんど一人で仕上げたと言うのです。水道も引いてあり、バケツで水を流す方式ですがおnecesejo(必要な場所)も水洗でした。

 バーベキューをするとイジナが張り切っていました。崖に囲まれた小さな庭に焚き火をしました。70~80cmの長さの柄のついたホークにソーセ-ジを刺して火にかざし、焼くのです。日本でいうウィンナーソーセージより少し大きめのが一人2本、後はパンと生のパプリカときゅうりとビール。日本で考えるバーベキュー・パーティーとは違いとても質素でした。
 マクス・ライネ・マリアンネ・イジナは何曲もエスペラントの歌を口ずさみます。その歌は日本人である私にははじめての歌ばかりですが、なんとなくハミングで合わせる事ができるのです。

 数時間後、今日はここに泊まってエスペラントの学習をし、翌日帰宅するというイジナとマクスに別れて、私達3人は最終列車で帰路につきました。ヤブロネツの駅についたのは夜半でした。

 まさにブログ中毒です。
 今日は10時~14時ボランティアです。なんとか書きました。これから弁当を作って出かけます!! 

   
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