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生きること:過去と未来とエスペラントと

報告

2021-06-29 20:13:24 | 家族・友人・私
 今日、2度目のコロナワクチン接種を受けました。前回は針を刺された時、チクッと痛みが走っただけでしたが、今回は針を抜いて数秒後にビッビと痛みが走りました。でも、今は特別に変わったことはありません。

 今年のゴーヤは弱々しっく見えます。枝を広げるために蔓の先を幾度も切ったので伸びは遅いですが、雄花は沢山咲いています。大丈夫かなと夕方眺めていたら、1センチほども実を見つけました。昔話、サルカニ合戦をもじっていうなら、早く大きくなれ柿の種ではなく、早く熟れ熟れゴーヤの実というところでしょうか。

 沢山なると多すぎると文句を言いつつ、やはり実がつくのは嬉しいです。
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眠られず!

2021-06-28 00:43:55 | rememoro: 思い出
 昼寝をしたわけでもないのに眠られず、起きてしまった。12時を回ったのでもう一昨日になるのだろうが、土曜日も畑に行き、ほったジャガイモを頂いた。
 ジャガイモにはいろいろと思い出でがある。そう、私の記憶にないジャガイモの話も。

 私たち、秋田の神宮寺という町に引っ越したのは昭和19年(1944年)でした。弟は前年の2月に生まれました。当時、男手を失った農家には耕作できなくなった農地がありました。食糧難だったので、引っ越して間もなく我が家も畑を借りて作物を植えたのでした。昼食は大根葉の雑炊にお米が浮いているなどと言うことも良くありました。油も手に入なかった。母はイワシなど油のある魚をフライパンで焼き、その油は他の器に取り、大切に使っていました。赤子に食べさせる消化の良いものなど手に入らないので離乳ができない。母はジャガイモを植え、秋に収穫し、ジャガイモで離乳食作ったと話していました。離乳を始めたのは弟が1年8カ月だったそうです。母は母乳だけでは弟が栄養失調になるのではと不安だったそうです。

 畑の私の思い出は、弟を遊ばせたこと。暗くなるまで母や小学生の兄たちが農作業をしていたこと。半日外にいた私は疲れ切って、暗い夜道は歩けない。兄に背負われて帰ったこと。子どもは眠ると重くなるのです。兄の背で眠ると、置いてゆくぞと大声で怒鳴られた恐怖の記憶。すぐ上の姉は病弱だったので家に残っていたのでしょう。彼女は私の苦しい思い出の中には出てきません。

 ジャガイモの思い出を書いたらいくつもお話ができるような気がする。戦争とか難民とかのニュースを見ると突然子どもの頃のことを思い出すのは私だけでしょうか!
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姉とピーマン

2021-06-24 12:51:13 | rememoro: 思い出
 先日、ユーチューブでピーマンの調理方法を見つけました。
 カナダに住んでいた姉は日本に帰省するともう両親もいなし、兄や姉の住んでいるところは不便なので滞在期間1カ月くらいの間わが家を拠点としてあちこちで歩いていました。

 出かけるときは駅への送迎。洗濯まで私にさせることがまるで当たり前でした。まあ海外旅行の際は宿の交渉その他、旅先の資料集めなど
英語のできない私に代りしておりましたので、まあ、お互いさまということもありましたが!

 彼女は私のピーマン調理を見ると種など捨てるとはもったいないといつも嘆いていました。姉の夫はハンガリー人ですからパプリカ大好き人間です。遊びに行くとナイフで削るようにして生で食べることが多かったです。そうすると残るのはヘタだけでした。

 チェコででも友人がパプリカを毎日に半個、食べると良いと言い、少し辛味のあるパプリカを毎朝半個食べさせられましたが!

 上記のユーチューブをみて姉がなぜもったいないもったいないといったのか理由がわかりました。種にも希少な栄養素が入っていたのです。

 昨日調理しました。ただ私は色どりが良い方が好きなので、ピーマン8個に柔らかなニンジンを1本千切りにして加えました。ニンジンが甘いので甘味は使いませんでした。種が少々口に残ることがありましたが、結構美味しく食べることができました。

 子どもの頃はピーマンなど栽培していなかったです。それでも食べるようになって、はや50年!どれほどの栄養素を無駄にしてきたのでしょうか。

 
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千里の道も

2021-06-23 17:10:43 | エスペラント
 今日、エスペラント訳したいぬいとみこ著”くらやみの谷の小人たち’をまた1章仕上げた。次の章が終わるとちょうど全体の4分の3終わることになる。とりかかったてちょうど4年になる。生きているうちに訳し終えるという保証もない。翻訳に取り掛かって一番身近に感じていた姉と弟が急逝した。ブログには書かなかったけれど、その後家族の病気、長姉の死、長兄の病といろいろなことがあった。前に訳したいぬいとみこ著´木かげ家の小人たち’は幾度も書き直し、手助けしてくれる人があらわれるまで30年近くもかかったしまった。それを思うと4年なんて本当に短い。この本が出版された時、私もこの著者の本が好きで翻訳したいと思っていたという方に出会った。私の命がいつまで続くかわからないけれど、途中で私が急逝しても続けてくれる人がいるかもしれないという可能性を信じて翻訳し続けている。

 著者から翻訳権を頂いたあとで、なんと無茶なお願いしたものと思ったけれど今はただコツコツと翻訳に励む、というより翻訳することを楽しんでいる。

 前述の本の出版日は’17年7月7日。私の年齢77歳。ラッキーセブンが5つも続く。

 次の目標は’23年3月3日。あるいは3月12日私の83歳の誕生日を目指そうと思っている。

 もし、気力体力が持続するなら、神沢利子著’銀のほのお国’を訳させてもらえないか著者にお願いしてみたいですね。本当に欲張りな私です。

 子どもの頃から児童文学と言われるものを沢山読みました。日本人の作品がどれだけ海外の人に読まれているのでしょう。ぜひ外国の人にも日本の作品を知ってほしいと思うのです。子ども向けのお話の中に日本人の心が詰まっているように私は感じるのです。
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農と福祉の未来:ハコベ6月21日('21)

2021-06-22 08:16:16 | ボランティア
 気温が29℃くらいまで上がるというので午後遅くに行くことにしていましたが曇り空だったので2時に出発。1時間ほど草刈りをしました。

 前に草を刈った畑は柔らかな草が20センチも伸びていてまるで草原になっていました。
 5月に植えた茄子が実を付けていました。地面についているので雨で腐ったり割れたりするともったいないと思い、3個ほど収穫。丸茄子で直径9センチほど。5~6センチのものが数個あったので地面を手で掘って一応空間を作ってやりました。雨が降ったらまた地面に着くかもしれません。

 出かける前に風呂を洗い、栓までしてすぐお湯をはれるようにしての出発です。夕食準備はは先日作ったチリコンカンに茹でジャガイモとチーズを入れすぐ焼けるようにしたもの、冷凍した葉大根・ちりめんジャコ・新ショウガを炒り煮にし、みそ汁のだしを取り具と味噌を入れれば出来上がるようにして出かけました。あとは頂き物のパプリカでも炒めようと思っていましたが、茄子を蒸し煮して保存していたピックルスや煮豆で夕食を済ませました。

 調理なども一度にしようと思うと疲れが来ます。出かける時はいつもある程度の下準備をしておいて出かけるのが私の習慣です。
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エスペラントの日

2021-06-21 06:42:28 | エスペラント
 1906年(明治39年)6月12日は日本にエスペラントの団体としてエスエラント協会が設立された日です。日本エスペラント協会はこの日をエスペラントの日と定めています。そして1年おきですが6月に早稲田にあるエスペラント会館で講演会を開いています。今年はコロナで集まることができないのでユーチューブを使って行われました。
 
 講演者:東北大名誉教授・仙台エスペラント会会長 後藤斎氏

 エスペラントの歴史を通して共同体としての弱点と強味について。未来の展望も聞きたかったけれどそこにはあまり踏み込みませんでした。

 以下は私の感想です。

 エスペラントは人工語と言われるが、エスペラント発表以前に現れた言語はその言語を作った個人のもの(所有物)であった。しかしエスペラントは創始者ザメンホフが言葉の基礎を作ると所有権を放棄し、大衆に委ねた。つまり、エスペラントはザメンホフがひとりで作ったものではなく、彼の考えに賛同する人たちがそれぞれの思いや立場で言葉作りに参加し作り上げたものである。賛同者がそれぞれの思いや立場でエスペラントの発展に尽くしたことでエスペラント界に生まれたのはボランティア精神・自立性・多様性。そして、現在もその営みが継続しているからこそエスペラントは生き続けている。
 弱点は新しい参加者が少ないことや、地域的に見れば散在していること。

 エスペラントを発展させるために一般エスペランティストのできることは何でしょうね。この前関東エスペラント大会で佐々木照央氏も言っていましたが、今自分のできることをして自分のエスペラント力を高めるということでしょうか!

 私はエスペラントに出会えて幸せといつも思っている。外見はどう変化しているかわからないけれど、自分的にはまだまだ若い、まだまだ元気と感じている。肉体的限界が来るまで心は若々しく過ごせるように感じる。まさにエスペラントさまさま!
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細いサツマイモ

2021-06-19 20:45:45 | rememoro: 思い出
 醤油麹が無くなった。乾燥麹はスーパーで売っているけれど生麹が美味しい。とっても出来立てではない。今回も秋田の道の駅に頼んで冷凍したものを買うことにした。送料とクール代がかかる。いつも友人に一緒に買ってもらう。昨日麹を受け取りに来た友人が、地方の友人から頂いたという沢山のパプリカ・茄子・サツマイモを持ってきてくれました。

 今回のサツマイモはとっても細くてと彼女。泥付きなのでとても新鮮でした。太いところで直径2センチほど。

 戦争中のことを思い出しました。秋田の神宮寺というところに住んでいました。住所は変わったと思うけれど鉄道の駅名は今もあると思う。

 隣のおばさんは農家出身でした。私たちは食料に苦労していました。隣の家には娘が多分3人で、その下が私と同い年の男の子がおり、アボチャンと呼ばれていました。おばさんはGちゃんアボチャンと遊んでねとおやつをくれました。きれいに洗った生のサツマイモでした。私たちはそれをポリポリと食べたのでした。
 飽食の時代と言われる現代、生のサツマイモを喜んで食べる子供の心は信じられないことでしょう。当時は燃料もなく茹でるなどと言いう贅沢はできなかったのです。母はこのおばさんに誘われて薪ひろいにも出かけていました。その時、弟とアボチャンの子守は私の役目だったのです。

 

 今は生で食べる勇気はありません。蒸しました。
まったく繊維もなく、美味しかったです。
 でも子どもの私が、そのサツマイモをどんなに楽しんで食べた事か!
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散策:6月16日(’21)

2021-06-17 14:27:15 | taglibro: 日記
 雨という予報だったけれど横須賀の衣笠駅で降りてバスで菖蒲園へ。



入り口すぐ手前には黄色い睡蓮の花が広がっていました。


 事務所の前から
色とりどりの菖蒲が!


花が終わったものもあったけれど微妙に色や形が違う。
それぞれの名前が面白い。
が、名前があまりにも多く記憶できません。


木製の階段。段差が緩やかでとても上りやすかった!


高台から見下ろす菖蒲も良いものでした。


菖蒲の種類の説明。
アヤメ科と菖蒲科に分かれるらしい。


 水のせいでしょうかとても心が穏やかになる場所でした。
 衣笠は夫が10数年通った場所です。どんな場所か見て回ろうと商店街を歩きだしたら突然の豪雨。バケツをひっくり返したというほどの雨に数秒でびしょぬれになりました。

 月曜日も雨でした。この日あとから芽を出したゴーヤを5本、植え替えました。暑い日が続くの定着するか心配でしたがこの雨でしっかりと根付いたようです。

 バスを使ったので歩数は伸びませんでした。歩数:8600歩

 びしょびしょに濡れたズボンの裾。こんな状態で歩いたらとても疲れました。濡れたからだけでなく持続力が衰え始めている?のかとも思ったり。


 
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関東エスペラント大会はzoomで

2021-06-14 11:14:49 | エスペラント
 昨日(6月13日)は関東エスペラント大会に参加した。午前中の講演、佐々木照央さんの話や、一人で反核署名を11万人以上集めた広島の忍岡妙子さんの話などとても興味深かったです。

 佐々木さんの話は日本のエスペラントの発展に尽くした人たちの話でした。その中に虐殺された大杉栄の話もあった。彼は1905年に東京本郷にエスペラント学校作った.。そこで、後に日本エスペラント会を支える重要な人材・千布利雄などを育成した。
 また中国人留学生にもエスペラントを教えた。その中の一人は後に中国国民党の要人なった。エスペラントで培われた人脈は強い。大杉栄を虐殺することで日本は中国との強いパイプを失ったなどなど。

 ’’1908年(明治41年)1月17日、いわゆる屋上演説事件[17]で治安警察法違反となり逮捕された。同年4月、中国人留学生の劉師培の家で留学生にエスペラントを教えた。―ウキペデアより”

 エスペラントを始めたころ、つまり61年も前のできごとを思い出しました。大杉栄にエスペラントを教わったという人に出会ったことがあります。確か名前は長谷川さん。彼は9歳の時、つまり小学校も卒業していない年齢で、大杉栄が編集者(?)だった平民新聞の植字工として働いていたそうです。植字工は新聞社に寝泊まりしていた。冬は暖房のない部屋は寒く、薄い布団の中で震えていたそうです。大杉栄はいつも優しく、一緒に寝てくれて体を温めてくれた。温めながら布団の中でエスペラントを教えてくれたと!数十年ぶりで、小柄な物静かな老人のことを思い出しました。多分当時は60~70歳。老人に見えたけれど、今の私よりもずっと若かったのですね!

 午後の分科会の後で、息子が自然農法で育てたジャガイモを沢山いただいたので、車で向かいに行きました。その後雨が降ったらしいです。ジャガイモは水に弱いとか。雨に合わずに助かりました。
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ラオスで孫たちは

2021-06-12 09:37:22 | 家族・友人・私
 昨年1月出産のためNは息子二人を連れてラオスの実家に里帰りしました。3月に3男出産。ところがコロナでラオスは国境を閉鎖。日本に帰国することはできなくなってしまった。

 長男Mは4年生になりました。スポーツ公園に出かけてテニスをしたり、図書館に行き本を選ぶなどしていたのにラオスにはそんな施設はないのです。ラオスはコロナ感染者が発生したということでまたまたロックダウン。今は学校へも行けない状態です。日本もコロナ禍で自由は制限されていることは理解しているようですが、やはり不満はあるでしょう。
 
 以前、孫たちは月に何度かわが家へ遊びに来ました。うちに来た時の日課は小川に沿って散歩し、2キロ弱離れて公園でおやつを食べ、砂場でひとしきり遊んで帰宅。弟のTも砂遊びが大好きでした。帰宅後は兄弟二人でお風呂に入って遊び、夕食を食べて自宅に帰るのがが常でした。

 母親のNは月に1度は子どもたちの様子を動画にとって送ってきます。私は結構子どもの相手をするのはうまいと思うのですが、この年になるとさすが疲れます。彼等が来るという日は事前に夕食の下準備をしておかないと体力が持ちません。会えなくても、月に1度の動画でその成長が見れるだけでも良いかと感じるこの頃です。

 昨日も動画が送られてきました。
 母屋と別棟の間にある空間に土嚢を置き、その中に砂を入れて作った砂場で孫たちは嬉々として遊んでいました。その空間が一番日陰になりやすいところなのです。暑い土地ですから外遊びというのはあまりできない土地柄です。

 同じ年代の従妹弟たちが数人同じ敷地に住んでいます。動画には従妹がひとりいましたが、どう遊ぶのか戸惑っているようでした。多分、砂で遊ぶという経験はなかったのでしょう!

 1歳のSは砂の上を裸足でウロウロ。兄たちの作った砂の山や団子を壊しまわっていました。2男のTはママ、ママと叫びながら砂山を守ったり、補強していました。そとで遊ぶことができて良かった!
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コロナワクチン接種・ドイツ

2021-06-10 09:05:10 | 家族・友人・私
 8日に私はワクチン接種をしましたが、予約が取れた時に息子に知らせてあったので。その夜メールが来ました。 

 ”接種しましたか? ドイツは12歳以上は接種可能となったので、E(孫娘)も7月の一週目に予約が取れました。ファイザーです。本人も喜んでいます。学校は明日から全クラスで再開しますが、6月末からは夏休みなので、まあ、実際は学年末の行事等終わってしまうことになりそうです。
先週末から飲食店や小売店が営業を再開しました。👏 

 Eは5月に15歳の誕生を迎えました。弟Hは9月に12歳になります。ワクチン接種をしても完全に大丈夫ということは無いとしても、り患率は減るわけですからまずは一安心ということでしょうか。
 ラオスにいるNは5月に接種を済ませたそうです。日本は遅いですね。

 日本の子どもたちにも早く自由な時間を取り戻させてやりたいと切に願います。

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農と福祉の未来:ハコベ・6月7日('21)

2021-06-08 14:09:56 | ボランティア
 6月7日午後畑に行き残っていた大根を収穫。トウが立ったものは葉を捨て、大根だけ取りました。大根の畑に勝手に生えていたジャガイモを抜くと大きいものでは直径7~8センチになっていました。いただいて帰る。小さいものの皮をたわしで剥き、無水鍋に入れ、ゴマ油で少々炒め、水を1センチほどの深さに入れて、煮立ったところで15分ほど極弱火で蒸し煮。残った水分を飛ばし醤油少々で味付けました。掘りたては美味しいですね。

 8日朝。
 夕べ、疲れて処理できなかった大根の葉を洗い茹でました。


午後、みじん切りにして冷凍しました。
根の方ざっと洗っただけです。


 土曜日に収穫に行きマルシェに出せたらいいなと干してみました。
(階段の窓のところにつっかえ棒で下げるようにしました。)
量的には上の写真と同じくらいでしたが、干すと本当に少なくなります。
興味を持てくれる人はいるでしょうか!
大根は2キロ。切って網籠に入れて干しました。もう、5分の1くらいの量になっています。


 
  11時、かかりつけ医へ。1回目のコロナワクチン接種を終えました。
 大根は小さいですが、我が用切り干し大根を明日作ります。

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散策:6月1日('21)

2021-06-04 11:06:39 | taglibro: 日記
今日は雨。6月1日に鎌倉へ出かけたけれど、帰ってからはエスペラントの翻訳に夢中になり報告は後ましになった。考えることは気力が出た時に続けないとダメな性格なので!子どもの頃から持続性がないと親に叱られた性癖なのです。

 鎌倉散歩は先日の続きでした。まず安国論寺へ。





光背というのでしょうか、そこにキリストやマリア像の周りに飛び交う天使のような像が付いていたので驚く。


安国論寺は木が生い茂りとても暗かった。霊場巡りの山道(階段)があった。
なぜか、その階段を上る気になれず、そのまま引き返しました。


妙法寺は安国論寺からほど近いところにありました。


入場(入山?)料300円。お線香付きででした。


苔むす階段。


苔階段は通れませんがわき道を上に登る。
古いお堂。軒に不思議なものを見つけました。
ヨーロッパの教会の屋根に悪魔を払う怪物をよく見かけました。(名前は忘れました!)
それと似た像が軒に飾られていました。


妙法寺の仏さまの光背にも天使(天女?)のような像が!


祠があり、キツネ2匹修行者を守っていました。
仏教とキツネとどんな関係性がるのでしょうか。
宗教には疎いので知りたいと思いました。


 そんなに歩いたと思いませんでしたが・・・。歩数:11,200歩でした。
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