義姉の見舞いを口実にして思い出の町に行ってきました。
昔その町は神宮寺町と言い、私は昭和19年~20年の2年間をこの町で暮らしました。亡くなった幼友達に弔意を表すためにいつか行こうと決めてから50年経ちました。幾度も汽車の窓から懐かしい間道林を眺めながらなぜか下車できませんでした。その間道林も汽車の窓から見えなくなっていました。
友人の名前はキョウコちゃん。同い年です。多分20年の2月のことと思います。東京で空襲にあい両親と妹(?)を失い、中学生のお兄さんに連れられてこの町に来ておじさんのところに預けられました。お兄さんはすぐ学校へ戻ったので、私は2回ほど見掛けた記憶がありますが、彼女はひとりで肩身の狭い生活を送っていたようです。彼女の当時6年生だったおばさんが面倒見て欲しいと私と彼女を引き合わせました。以来1年間私たちは昼間はいつも一緒でした。
親のいない子どもの生活がどんなにみじめか、彼女を通して私は追体験していました。父の転勤で別れなければならなかった時の悲しみを私は決して忘れません。
町は変わっていました。私たちが住んでいた場所には保育園が建っていました。しかし、古い校門とか、乞食がお供えを盗み食いしていた学校横のお墓とか私の記憶そのままでした。学校裏の土手で食するために若い甘草やイタドリをとりましたが、そこは国道が走り、田圃は宅地となっていました。でもその向こうを私の記憶にある鉄道が走っていました。
一人の男性が声をかけてきました。誰を探しているのかと。私はキョウコちゃんのことを尋ねる気はありませんでした。彼は『私は終戦の時2年生だった。20年の9月にここの養子になったのだ。』と言いました。
この近所のお寺には東京から学童疎開が来ており、かなりの数の子どもが孤児となり、お寺やその他の人の里子や養子になったのでした。彼もその一人かもしれないと思いました。
草先生知っているか?と聞かれてよく知っていると私は答えました。アボちゃんという愛称で私が呼んでいた友達の家だったのです。その娘さんが近くに住んでいると彼は言いました。でも、私は訪ねるつもりはありませんでした。実は50年前キョウコちゃんの死を知らせるために我が家を訪ねてくれたのは草夫人だったのです。彼女は親せきの家を訪問した際駅で偶然私を見かけたのだそうです。そして、次の機会を利用して我が家を訪ねてくれたのでした。
キョウコちゃんは中学2年生の時に肺炎で亡くなりました。親のいない子どもの生活がどんなにみじめであったか、想像することができます。ましてや日本人がまだ生活にゆとりがない時期だったのです。
わたしがもし彼女について訊ねたら、この男性はいろいろと話してくれたでしょう!しかし、それはを思い出したくない人もこの地にいるかもしれません。私はお礼を言ってお寺の場所を聞いて別れました。
お寺はお風呂が壊れ、もらい湯に通ったしたところです。入浴後和尚さんからおやつにいり豆をもらったこと、疎開児童をそっと眺めたこと、五右衛門風呂で内側に触ると飛び上るほど熱く、熱い!というたびに奥さんが水を足してくれるのでお湯が冷たくなったことなどいろいろ思い出があります。鬱蒼と茂った杉の木立の中を歩いた記憶がありますが、今は天保の飢饉の際に死者の供養のために植えられたという大樹が高くそびえているだけで、明るいお寺でした。
子どものころの私の願いは大きくなった時、キョウコちゃん引越した後私たちも大変だったの!なにしろ山の中で、学校まで4キロ以上あってね、吹雪の時は前も見えないし長靴に雪が入るし・・・などと笑って話せることでした。
人は2度死ぬといわれます。一度目はこの世を去った時、2度目は人の記憶から忘れ去られた時。今の私にできることは、私が生きている限り彼女に2度目の死を与えないということだけでしょう。
昔その町は神宮寺町と言い、私は昭和19年~20年の2年間をこの町で暮らしました。亡くなった幼友達に弔意を表すためにいつか行こうと決めてから50年経ちました。幾度も汽車の窓から懐かしい間道林を眺めながらなぜか下車できませんでした。その間道林も汽車の窓から見えなくなっていました。
友人の名前はキョウコちゃん。同い年です。多分20年の2月のことと思います。東京で空襲にあい両親と妹(?)を失い、中学生のお兄さんに連れられてこの町に来ておじさんのところに預けられました。お兄さんはすぐ学校へ戻ったので、私は2回ほど見掛けた記憶がありますが、彼女はひとりで肩身の狭い生活を送っていたようです。彼女の当時6年生だったおばさんが面倒見て欲しいと私と彼女を引き合わせました。以来1年間私たちは昼間はいつも一緒でした。
親のいない子どもの生活がどんなにみじめか、彼女を通して私は追体験していました。父の転勤で別れなければならなかった時の悲しみを私は決して忘れません。
町は変わっていました。私たちが住んでいた場所には保育園が建っていました。しかし、古い校門とか、乞食がお供えを盗み食いしていた学校横のお墓とか私の記憶そのままでした。学校裏の土手で食するために若い甘草やイタドリをとりましたが、そこは国道が走り、田圃は宅地となっていました。でもその向こうを私の記憶にある鉄道が走っていました。
一人の男性が声をかけてきました。誰を探しているのかと。私はキョウコちゃんのことを尋ねる気はありませんでした。彼は『私は終戦の時2年生だった。20年の9月にここの養子になったのだ。』と言いました。
この近所のお寺には東京から学童疎開が来ており、かなりの数の子どもが孤児となり、お寺やその他の人の里子や養子になったのでした。彼もその一人かもしれないと思いました。
草先生知っているか?と聞かれてよく知っていると私は答えました。アボちゃんという愛称で私が呼んでいた友達の家だったのです。その娘さんが近くに住んでいると彼は言いました。でも、私は訪ねるつもりはありませんでした。実は50年前キョウコちゃんの死を知らせるために我が家を訪ねてくれたのは草夫人だったのです。彼女は親せきの家を訪問した際駅で偶然私を見かけたのだそうです。そして、次の機会を利用して我が家を訪ねてくれたのでした。
キョウコちゃんは中学2年生の時に肺炎で亡くなりました。親のいない子どもの生活がどんなにみじめであったか、想像することができます。ましてや日本人がまだ生活にゆとりがない時期だったのです。
わたしがもし彼女について訊ねたら、この男性はいろいろと話してくれたでしょう!しかし、それはを思い出したくない人もこの地にいるかもしれません。私はお礼を言ってお寺の場所を聞いて別れました。
お寺はお風呂が壊れ、もらい湯に通ったしたところです。入浴後和尚さんからおやつにいり豆をもらったこと、疎開児童をそっと眺めたこと、五右衛門風呂で内側に触ると飛び上るほど熱く、熱い!というたびに奥さんが水を足してくれるのでお湯が冷たくなったことなどいろいろ思い出があります。鬱蒼と茂った杉の木立の中を歩いた記憶がありますが、今は天保の飢饉の際に死者の供養のために植えられたという大樹が高くそびえているだけで、明るいお寺でした。
子どものころの私の願いは大きくなった時、キョウコちゃん引越した後私たちも大変だったの!なにしろ山の中で、学校まで4キロ以上あってね、吹雪の時は前も見えないし長靴に雪が入るし・・・などと笑って話せることでした。
人は2度死ぬといわれます。一度目はこの世を去った時、2度目は人の記憶から忘れ去られた時。今の私にできることは、私が生きている限り彼女に2度目の死を与えないということだけでしょう。