絹の道(その弐)

 道の両側を雑木林が覆われ、往時の姿を良く留めている「絹の道」はわずかの1km弱。八王子側は16号線のバイパスにより断ち切られ、横浜側では多摩ニュータウン西の端の開発が進められている。

 地図で確認すると、宅地として造成された中に、野猿(やえん)街道を底辺とし、16号線のバイパスを左側の辺とした、1辺が1.5km程の三角形の森が残されていることがわかる。この一体が「鑓水(やりみず)」であり、ここに「絹の道」が残されているのである。

 明治初期に絹の仲買人として活躍し一躍有名になったのはこの鑓水の農民。彼らの中から絹糸の仲買に手を染めるものが現れるである。取扱い量は一気に跳ね上がり、彼らは「鑓水商人」と呼ばれるようになるが、それはあたかも近年のIT長者のようにひととき徒花を咲かせて消えていくのであった。

 古道ブームとか。しかし、首都圏ではその道の多くは開発と共に消え去り、残されている「古道」は数える程である。建築物のその価値がわかり易く保存も比較的容易であるが、海岸や道の保存は容易ではない。特別の意を払い造られた建物については古くからその価値が認められても、道や海岸の文化(自然)的価値が認められるようになったのはごく最近のことである。

 事実、東京湾内の海岸は幕末以降急速に埋めたれられ、自然海岸はいまでは千葉県木更津市の盤洲干潟がわずかに残るのみである。道も同様である。幕末から明治初期の街道は拡幅され両側に建物が立ち並び、旧街道の場所は特定できてもその姿に往時を偲ぶ術はない。

 私たちの今の生活は、森を潰し、街道を拡幅し、海岸を埋め立て海を遠くに追いやることで手に入れる事が出来たものである。勿論、森と共に歴史ある古道が、そして海岸が変わらぬ姿で存在し続けてくれるのならば嬉しい。しかし、そのためには日々の便利さを少しばかり失うことを覚悟しなければならないことだろう。


 今日の1枚は、130年前に「絹の道」を行き交った人々も見たかも知れない、絹の道資料館(いっときの栄華を誇り程なく没落していった鑓水商人のひとり、八木下要右衛門の屋敷跡に建っている)前の田んぼ。

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