『おとうさんがいっぱい』 三田村信行 ☆☆☆☆★
先週読了。恐るべき短篇集であった。Amazonでは小学校中・高学年向けとあるが、これが子供向けとはとても信じられない。が、その年頃の子供には早い、と言うつもりはない。子供というのは大人が考えるより頭がいいものだ。感受性が強い時期にこのようなすばらしい芸術作品に接することができるのは幸せだと思う。ひょっとしたらトラウマになるかも知れないけれども。
収録作品は以下の通り。
ゆめであいましょう
どこへもゆけない道
ぼくは5階で
おとうさんがいっぱい
かべは知っていた
どれも不条理感溢れるシュールな短篇になっている。シュールといっても耽美的、表現主義的なシュールさではなく、ボルヘスのようなトポロジカルなシュールレアリスムである。『ゆめであいましょう』はもう一人の自分つまりドッペルゲンガー、『どこへもゆけない道』は違う道を通って帰ると家が違っているというトポロジーのひずみ、『ぼくは5階で』は部屋の外と内側がなくなり全部内側になってしまう(そして外へ出られなくなる)というトポロジーのひずみ、『おとうさんがいっぱい』は同じ人間が多数存在するという不条理、『かべは知っていた』は薄い壁の中に入り込むおとうさん、という具合である。テーマだけ取り出せば、ボルヘスが書いてもおかしくない話ばかりだ。実際、似たようなテーマで書かれているボルヘスの短篇は存在する。
子供向けなので、文章は平易で、淡々としている。登場人物も主に子供達だ。しかしその淡々とした童話的な語り口が、内容の恐さとあいまって残酷童話的な趣きを漂わせている。残酷童話といっても流血やセクシャルな描写は皆無であるが、ある意味、そういう残酷童話より恐いかも知れない。
しかし、こういう不条理ものは一昔前に色んなSF作家によって描かれていて、いいかげん手垢にまみれたような気がしていたし、実際この短篇集も40年前の復刻らしいが、それでいて今読んでも斬新な感じがするのは驚異というしかない。この人の不条理なトポロジー感覚はつけ刃ではなく本物である。
ここから先、ネタばれあり。
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「ゆめであいましょう」は自分のドッペルゲンガーに出会うミキオ少年の話だが、似た話はボルヘスやオクタビオ・パス、あるいは昔の筒井康隆の短篇でもあり、「ああ、この手の話か」と気軽に読み進めていき、最後でぶっ飛んだ。ぼくはあいつの夢の中の存在なのではないか、と不安になった少年が、ぱっと消えてしまうとか、もう一人と同一化するとか、そういうのならありがちだが、この短篇の場合、ふと手を伸ばしてみるとふとんの横にまっくらな空間がぽっかり口をあけていて、ミキオはのめりこむようにその空間の中に落ちていくのである。なんなんだこれは。
「どこへもゆけない道」も驚くべき傑作である。学校帰りに、ふとしたきまぐれで他の道を通って帰宅した少年。彼が見たのはクラゲの如き物体と化した両親であった。それはペタペタと音を立てながら少年に迫ってくる。そこで少年は逃げ出し、いつもと違う道を通って帰ったからこんなことになった、と考えるのである。そしていつもと同じ道で帰宅し直す。すると、今度は家がない。更に、第三の道順で帰宅してみる。するといつも通りの母が迎えてくれる。ああ良かった、と家に上がろうとした途端、今度は少年の体がクラゲの如き物体と化してしまう。話はここで終わる。
「ぼくは5階で」も大傑作である。どれも傑作になってしまうが、本当なんだからしょうがない。少年は5階の部屋に入り、そのまま出られなくなってしまう。なぜかというと、この部屋から外側というものがなくなってしまったからである。ドアを空けて向こう側に出ると、部屋に入ってしまう。窓から出て隣に部屋に入ると、やはり同じ部屋に戻ってしまう。誰かにドアを空けてもらおうとしてラーメンの出前を頼んでも、誰も来ない。電話して確認するともう配達したと言われる。少年はありとあらゆる手をつくすが、外に出ることができない。
最後のシーンでは少年の父母が部屋の中で話をしている。しかし、二人の記憶から少年の存在は消えてしまっている。父母は少年の不在をまったく気にすることもなく、楽しげに引越しの相談をしている。そしてこの話は、ここで終わってしまう。一体、少年はどうなってしまったんだろう。そもそも、あの少年は最初から存在していたんだろうか。
表題作である「おとうさんがいっぱい」も凄い。ある日お父さんが会社から帰ってくる、家にはもうお父さんがいるのに。翌日、さらにもう一人のお父さんが現れる。同じような現象があちこちの家庭で起き、おとうさんがいっぱいになる。この事態に対処するため、政府は家族にお父さんを一人選択させることにする。残りはお父さんはどこかへ連れて行かれ、どうなったのかは誰にも知らされない。そして事態は収拾がつき、平和が戻ってくる。誰もあの時の悪夢を思い出したくない。そんなある日、少年が外から帰ってくる、家にはもう少年がいるのに。
「かべは知っていた」はお父さんがかべに入ってしまう話だが、他と比べるとこれのみやや凡庸かなと思う。アポリネールの「オノレ・シュブラックの失踪」を思わせる短篇だ。
とにかくすごい短篇集である。カフカやボルヘスが好きな人は読んで損はしないだろう。
先週読了。恐るべき短篇集であった。Amazonでは小学校中・高学年向けとあるが、これが子供向けとはとても信じられない。が、その年頃の子供には早い、と言うつもりはない。子供というのは大人が考えるより頭がいいものだ。感受性が強い時期にこのようなすばらしい芸術作品に接することができるのは幸せだと思う。ひょっとしたらトラウマになるかも知れないけれども。
収録作品は以下の通り。
ゆめであいましょう
どこへもゆけない道
ぼくは5階で
おとうさんがいっぱい
かべは知っていた
どれも不条理感溢れるシュールな短篇になっている。シュールといっても耽美的、表現主義的なシュールさではなく、ボルヘスのようなトポロジカルなシュールレアリスムである。『ゆめであいましょう』はもう一人の自分つまりドッペルゲンガー、『どこへもゆけない道』は違う道を通って帰ると家が違っているというトポロジーのひずみ、『ぼくは5階で』は部屋の外と内側がなくなり全部内側になってしまう(そして外へ出られなくなる)というトポロジーのひずみ、『おとうさんがいっぱい』は同じ人間が多数存在するという不条理、『かべは知っていた』は薄い壁の中に入り込むおとうさん、という具合である。テーマだけ取り出せば、ボルヘスが書いてもおかしくない話ばかりだ。実際、似たようなテーマで書かれているボルヘスの短篇は存在する。
子供向けなので、文章は平易で、淡々としている。登場人物も主に子供達だ。しかしその淡々とした童話的な語り口が、内容の恐さとあいまって残酷童話的な趣きを漂わせている。残酷童話といっても流血やセクシャルな描写は皆無であるが、ある意味、そういう残酷童話より恐いかも知れない。
しかし、こういう不条理ものは一昔前に色んなSF作家によって描かれていて、いいかげん手垢にまみれたような気がしていたし、実際この短篇集も40年前の復刻らしいが、それでいて今読んでも斬新な感じがするのは驚異というしかない。この人の不条理なトポロジー感覚はつけ刃ではなく本物である。
ここから先、ネタばれあり。
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「ゆめであいましょう」は自分のドッペルゲンガーに出会うミキオ少年の話だが、似た話はボルヘスやオクタビオ・パス、あるいは昔の筒井康隆の短篇でもあり、「ああ、この手の話か」と気軽に読み進めていき、最後でぶっ飛んだ。ぼくはあいつの夢の中の存在なのではないか、と不安になった少年が、ぱっと消えてしまうとか、もう一人と同一化するとか、そういうのならありがちだが、この短篇の場合、ふと手を伸ばしてみるとふとんの横にまっくらな空間がぽっかり口をあけていて、ミキオはのめりこむようにその空間の中に落ちていくのである。なんなんだこれは。
「どこへもゆけない道」も驚くべき傑作である。学校帰りに、ふとしたきまぐれで他の道を通って帰宅した少年。彼が見たのはクラゲの如き物体と化した両親であった。それはペタペタと音を立てながら少年に迫ってくる。そこで少年は逃げ出し、いつもと違う道を通って帰ったからこんなことになった、と考えるのである。そしていつもと同じ道で帰宅し直す。すると、今度は家がない。更に、第三の道順で帰宅してみる。するといつも通りの母が迎えてくれる。ああ良かった、と家に上がろうとした途端、今度は少年の体がクラゲの如き物体と化してしまう。話はここで終わる。
「ぼくは5階で」も大傑作である。どれも傑作になってしまうが、本当なんだからしょうがない。少年は5階の部屋に入り、そのまま出られなくなってしまう。なぜかというと、この部屋から外側というものがなくなってしまったからである。ドアを空けて向こう側に出ると、部屋に入ってしまう。窓から出て隣に部屋に入ると、やはり同じ部屋に戻ってしまう。誰かにドアを空けてもらおうとしてラーメンの出前を頼んでも、誰も来ない。電話して確認するともう配達したと言われる。少年はありとあらゆる手をつくすが、外に出ることができない。
最後のシーンでは少年の父母が部屋の中で話をしている。しかし、二人の記憶から少年の存在は消えてしまっている。父母は少年の不在をまったく気にすることもなく、楽しげに引越しの相談をしている。そしてこの話は、ここで終わってしまう。一体、少年はどうなってしまったんだろう。そもそも、あの少年は最初から存在していたんだろうか。
表題作である「おとうさんがいっぱい」も凄い。ある日お父さんが会社から帰ってくる、家にはもうお父さんがいるのに。翌日、さらにもう一人のお父さんが現れる。同じような現象があちこちの家庭で起き、おとうさんがいっぱいになる。この事態に対処するため、政府は家族にお父さんを一人選択させることにする。残りはお父さんはどこかへ連れて行かれ、どうなったのかは誰にも知らされない。そして事態は収拾がつき、平和が戻ってくる。誰もあの時の悪夢を思い出したくない。そんなある日、少年が外から帰ってくる、家にはもう少年がいるのに。
「かべは知っていた」はお父さんがかべに入ってしまう話だが、他と比べるとこれのみやや凡庸かなと思う。アポリネールの「オノレ・シュブラックの失踪」を思わせる短篇だ。
とにかくすごい短篇集である。カフカやボルヘスが好きな人は読んで損はしないだろう。
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