『雨月物語』 溝口健二監督 ☆☆☆☆☆
『雨月物語』を再見。1953年作品、ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞受賞、仏『カイエ・デュ・シネマ』誌「史上最高の映画100本」第16位。言わずと知れた、日本が世界に誇る名画の一つである。
上田秋成の『雨月物語』9篇の中から「浅茅が宿」と「蛇性の婬」の2篇をベースとし、モーパッサンの短編小説「勲章」の翻案を加えてある。近江の国の百姓である源十郎と宮木(みやぎ)夫婦、その義弟の藤兵衛と阿浜(おはま)夫婦が主要な登場人物で、彼らは源十郎が焼いた焼き物を売るためいくさ景気に沸く長浜の町に行く。途中、海賊に遭うと危ないというので幼子を連れた宮木が船を降り、長浜で侍になりたい藤兵衛が失踪し、それを追いかけた阿浜も野武士に襲われた後行方知れず、と全員がバラバラになる。そして、その後それぞれの夫婦が遭遇する数奇な物語が展開する。
「浅茅が宿」と「蛇性の婬」のハイブリッド・ストーリーを担当するのは源十郎と宮木夫婦で、こちらがいわば上田秋成『雨月物語』のエッセンスを継承する、幽玄かつ神秘的な幻想譚パートである。一方の藤兵衛と阿浜夫婦はモーパッサンを下敷きとしたより現実的な因縁話で、貧農から侍への出世を夢見る男がそれを実現するが、その陰で愛する女房は女郎に身を落としていた、という教訓めいた話になっている。
本作では撮影の宮川一夫がその才を遺憾なく発揮していて、モノクロの映像美が大きな見どころとなっている。二組の夫婦が船に乗って霧の琵琶湖を渡っていく場面、源十郎と若狭姫のこの世ならぬ恋愛が繰り広げられる朽木屋敷の場面など、観客を呪縛する魔術的な映像が続出する。日本的な幽玄美のきわみといっても過言ではない。
しかし私が本当に凄いと思うのはこれらの映像、ビジュアルそのものというより、画面から滔々と溢れ出てくるこの神韻渺茫たる雰囲気である。何度観てもこれには感嘆する。特に若狭姫のパートは絶美で、昼の光のもとでは無残に荒れ果てた屋敷が、黄昏時に灯りがともると妖しくも豪奢に輝き始める魔法のような変貌、あるいは源十郎を幻惑する若狭姫の舞やその所作の美しさ、源十郎が「天国だ! この世にこれほどの悦びがあることをおれはこれまで知らなかった!」と独白する湖畔の野掛けの夢のような光景、そして目が覚めた源十郎が見る朽木屋敷の焼け跡と、そこに幻聴のようにはるか遠くから聞こえてくる若狭姫の歌声など、蠱惑的としかいいようのないシークエンスの連続である。映像だけでなく脚本、演技者の所作、演出などすべてが一体となって、この類稀な凄愴美が創出されている。
それだけでなく、たとえばカメラの動きなども何気にすごい。若狭姫が源十郎を誘惑する場面や、死霊の本性を顕す場面においては唐突な画面の揺れやカメラの急激な移動が実に効果的に使われていて、観客を物語の深みへと誘い込んでいく。非常に緻密な映像設計がなされている。
この神韻渺茫たる雰囲気が海外の多くの作家や芸術家に感銘を与えたのは有名な話で、たとえばフエンテスの名作『アウラ』は、本作の若狭姫のパートに強い影響を受けて書かれたと言われている。フエンテスはこの映画を観て非常な衝撃を受け、原作の訳本を手に入れて読み耽ったという。またル・クレジオも『ル・クレジオ、映画を語る』の中で『雨月物語』を絶賛している。彼はこの映画を観て「映画が芸術であることを、はじめて理解した」とまで書いている。
ル・クレジオが書いているように、この映画はどこか夢の記憶に似ている。映画は夢の装置だというが、ここまで本物の夢に近い感触の映画は珍しいと思う。当然のことながら、それには映像だけでなく物語の設計も大きく寄与している。この映画のストーリーは非常に重層的だ。二つの夫婦の物語が平行する横の重層に加えて、時間の推移に伴う縦の重層も導入されている。戦国時代の貧しい百姓が現実離れした神話の中に投げこまれるためには、いくさと琵琶湖の水路という二つの扉を潜り抜けなければならない。これらはいわば異界への扉である。そして源十郎の遍歴には若狭姫と宮木という、対照的な二つの亡霊が登場する。フエンテスの『アウラ』でも鏡像が巧みに使われていたが、こうしたシンメトリー、重層、多層の感覚は、幻想譚に夢魔のリアリズムを付与するにあたって大きな威力を発揮するものらしい。
以前は、私はこの映画のプロットについて、若狭姫のパートをメインにしてもっとすっきりさせた方がいいんじゃないかと思っていたが、今では考えが変わった。この迷宮的な異界の感覚を醸成し、夢のテクスチャーを映画に与えるには、この紆余曲折が必要なのだ。
映画のラストで、源十郎はようやく家に戻り、宮木の幽霊と会う。もちろん、源十郎は宮木が幽霊だとは知らない。安堵のあまり涙をこぼし、眠りにつき、翌朝ようやく宮木が死んだことを知る。怪談話にありがちな展開だが、このシークエンスの美しさにはいつも感動してしまう。第一に、源十郎が空っぽの家の中をぐるっと回った後、忽然と暖かい灯りと宮木が出現する演出が素晴らしい。この場面を観た後ではなんでもないことのように思えるかも知れないが、なんらかの方法でここに登場する人物が幽霊であることを暗示せよといわれて、この手法を思いつけるだろうか。そしてまた、これ以上に簡潔で気品のある手法があるだろうか。第二に、その一瞬の演出のあとは宮木はまったく生きていた時のままの宮木である。へんに幽霊を意識させるところはまったくない。生前の宮木とまったく変わらず源十郎の帰りを喜び、酒をつぎ、子供を抱かせる。もしここで妙に幽霊を意識した演出をしていたら、この場面は台無しになっていただろう。
本作はその日本的な幽玄美ゆえに、海外で高く評価されたのは単なるエキゾチズムのせいだと言う人もいるようだが、あまりにも皮相的な批判である。だとすれば日本の時代劇は全部海外で高評価になるだろう。真実は逆で、この映画の核心はその普遍性にある。ル・クレジオの言葉を下に引用しておく。
「源十郎、宮木、藤兵衛、阿浜の暮らす荒涼とした谷間を開く映像を前にしたときに、最初に自分が気づいたことを覚えている。そのとき私は、ああした人々が日本人であることを、彼らが別の言語を話し、別の暮らし方をしていることを忘れていた。私は彼らの世界のなかにいた。私が彼らに所属するように、彼らも私の一部を成していた。彼らの生きる幻想は私の日常になっていた。」(『ル・クレジオ、映画を語る』より)
溝口映画の中でもっとも幻想的かつ神話的なフィルム、『雨月物語』。幽玄という言葉がこれほど似つかわしい映画もない。
『雨月物語』を再見。1953年作品、ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞受賞、仏『カイエ・デュ・シネマ』誌「史上最高の映画100本」第16位。言わずと知れた、日本が世界に誇る名画の一つである。
上田秋成の『雨月物語』9篇の中から「浅茅が宿」と「蛇性の婬」の2篇をベースとし、モーパッサンの短編小説「勲章」の翻案を加えてある。近江の国の百姓である源十郎と宮木(みやぎ)夫婦、その義弟の藤兵衛と阿浜(おはま)夫婦が主要な登場人物で、彼らは源十郎が焼いた焼き物を売るためいくさ景気に沸く長浜の町に行く。途中、海賊に遭うと危ないというので幼子を連れた宮木が船を降り、長浜で侍になりたい藤兵衛が失踪し、それを追いかけた阿浜も野武士に襲われた後行方知れず、と全員がバラバラになる。そして、その後それぞれの夫婦が遭遇する数奇な物語が展開する。
「浅茅が宿」と「蛇性の婬」のハイブリッド・ストーリーを担当するのは源十郎と宮木夫婦で、こちらがいわば上田秋成『雨月物語』のエッセンスを継承する、幽玄かつ神秘的な幻想譚パートである。一方の藤兵衛と阿浜夫婦はモーパッサンを下敷きとしたより現実的な因縁話で、貧農から侍への出世を夢見る男がそれを実現するが、その陰で愛する女房は女郎に身を落としていた、という教訓めいた話になっている。
本作では撮影の宮川一夫がその才を遺憾なく発揮していて、モノクロの映像美が大きな見どころとなっている。二組の夫婦が船に乗って霧の琵琶湖を渡っていく場面、源十郎と若狭姫のこの世ならぬ恋愛が繰り広げられる朽木屋敷の場面など、観客を呪縛する魔術的な映像が続出する。日本的な幽玄美のきわみといっても過言ではない。
しかし私が本当に凄いと思うのはこれらの映像、ビジュアルそのものというより、画面から滔々と溢れ出てくるこの神韻渺茫たる雰囲気である。何度観てもこれには感嘆する。特に若狭姫のパートは絶美で、昼の光のもとでは無残に荒れ果てた屋敷が、黄昏時に灯りがともると妖しくも豪奢に輝き始める魔法のような変貌、あるいは源十郎を幻惑する若狭姫の舞やその所作の美しさ、源十郎が「天国だ! この世にこれほどの悦びがあることをおれはこれまで知らなかった!」と独白する湖畔の野掛けの夢のような光景、そして目が覚めた源十郎が見る朽木屋敷の焼け跡と、そこに幻聴のようにはるか遠くから聞こえてくる若狭姫の歌声など、蠱惑的としかいいようのないシークエンスの連続である。映像だけでなく脚本、演技者の所作、演出などすべてが一体となって、この類稀な凄愴美が創出されている。
それだけでなく、たとえばカメラの動きなども何気にすごい。若狭姫が源十郎を誘惑する場面や、死霊の本性を顕す場面においては唐突な画面の揺れやカメラの急激な移動が実に効果的に使われていて、観客を物語の深みへと誘い込んでいく。非常に緻密な映像設計がなされている。
この神韻渺茫たる雰囲気が海外の多くの作家や芸術家に感銘を与えたのは有名な話で、たとえばフエンテスの名作『アウラ』は、本作の若狭姫のパートに強い影響を受けて書かれたと言われている。フエンテスはこの映画を観て非常な衝撃を受け、原作の訳本を手に入れて読み耽ったという。またル・クレジオも『ル・クレジオ、映画を語る』の中で『雨月物語』を絶賛している。彼はこの映画を観て「映画が芸術であることを、はじめて理解した」とまで書いている。
ル・クレジオが書いているように、この映画はどこか夢の記憶に似ている。映画は夢の装置だというが、ここまで本物の夢に近い感触の映画は珍しいと思う。当然のことながら、それには映像だけでなく物語の設計も大きく寄与している。この映画のストーリーは非常に重層的だ。二つの夫婦の物語が平行する横の重層に加えて、時間の推移に伴う縦の重層も導入されている。戦国時代の貧しい百姓が現実離れした神話の中に投げこまれるためには、いくさと琵琶湖の水路という二つの扉を潜り抜けなければならない。これらはいわば異界への扉である。そして源十郎の遍歴には若狭姫と宮木という、対照的な二つの亡霊が登場する。フエンテスの『アウラ』でも鏡像が巧みに使われていたが、こうしたシンメトリー、重層、多層の感覚は、幻想譚に夢魔のリアリズムを付与するにあたって大きな威力を発揮するものらしい。
以前は、私はこの映画のプロットについて、若狭姫のパートをメインにしてもっとすっきりさせた方がいいんじゃないかと思っていたが、今では考えが変わった。この迷宮的な異界の感覚を醸成し、夢のテクスチャーを映画に与えるには、この紆余曲折が必要なのだ。
映画のラストで、源十郎はようやく家に戻り、宮木の幽霊と会う。もちろん、源十郎は宮木が幽霊だとは知らない。安堵のあまり涙をこぼし、眠りにつき、翌朝ようやく宮木が死んだことを知る。怪談話にありがちな展開だが、このシークエンスの美しさにはいつも感動してしまう。第一に、源十郎が空っぽの家の中をぐるっと回った後、忽然と暖かい灯りと宮木が出現する演出が素晴らしい。この場面を観た後ではなんでもないことのように思えるかも知れないが、なんらかの方法でここに登場する人物が幽霊であることを暗示せよといわれて、この手法を思いつけるだろうか。そしてまた、これ以上に簡潔で気品のある手法があるだろうか。第二に、その一瞬の演出のあとは宮木はまったく生きていた時のままの宮木である。へんに幽霊を意識させるところはまったくない。生前の宮木とまったく変わらず源十郎の帰りを喜び、酒をつぎ、子供を抱かせる。もしここで妙に幽霊を意識した演出をしていたら、この場面は台無しになっていただろう。
本作はその日本的な幽玄美ゆえに、海外で高く評価されたのは単なるエキゾチズムのせいだと言う人もいるようだが、あまりにも皮相的な批判である。だとすれば日本の時代劇は全部海外で高評価になるだろう。真実は逆で、この映画の核心はその普遍性にある。ル・クレジオの言葉を下に引用しておく。
「源十郎、宮木、藤兵衛、阿浜の暮らす荒涼とした谷間を開く映像を前にしたときに、最初に自分が気づいたことを覚えている。そのとき私は、ああした人々が日本人であることを、彼らが別の言語を話し、別の暮らし方をしていることを忘れていた。私は彼らの世界のなかにいた。私が彼らに所属するように、彼らも私の一部を成していた。彼らの生きる幻想は私の日常になっていた。」(『ル・クレジオ、映画を語る』より)
溝口映画の中でもっとも幻想的かつ神話的なフィルム、『雨月物語』。幽玄という言葉がこれほど似つかわしい映画もない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます