アブソリュート・エゴ・レビュー

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黄金狂時代

2011-09-03 01:39:20 | 映画
『黄金狂時代』 チャールズ・チャップリン監督   ☆☆☆☆☆

 いわずもがなのチャップリン代表作の一つ。日本に帰った時にようやくDVDを見つけて買ってきた。この傑作をなぜかアメリカでは今売っていないのである。これは私が最初に観たチャップリン映画だった。

 色んな意味で非常にチャップリンらしい映画で、それはたとえば有名なロールパンのダンスや靴を食べる場面があったり、小さな探検家(いつもは「小さな放浪者」だが今回は「小さな探検家」)の胸キュン純愛が描かれていることもあるが、個人的には極限状態にある人間のおかしさ、恐怖をスパイスにして笑いを引き出す手法が全開になっている点に注目したい。ギャグの多くが危険と隣り合わせ、恐怖と隣り合わせなのである。チャップリンは列をなして黄金を堀りにいく人々の写真と、人肉食い事件のドナー探検隊の話からこの映画の着想を得たらしいが、あの陰惨な事件からコメディを発想したところがすごい。 

 冒頭のシーンからそれは明らかだ。長い列を作って雪山に入っていく人々、山道で倒れてそのまま動かなくなる男。チャップリン演じるドタ靴の小さな探検家が登場し、狭い山道をヨタヨタと落っこちそうになりながら登っていく。でかい熊にすぐ後ろをつけられて観客をハラハラさせる。どれも怖さがおかしさにつながっている。この怖い=おかしいの方程式はチャップリンの専売特許ではないかも知れないが彼の映画の特徴的な要素であり、特にこの『黄金狂時代』の印象を決定づけていると言っていいと思う。最初にこの映画を観た時はこのハラハラさせるおかしさに驚き、冒頭シーンだけでがっちり気持ちを掴まれてしまった。この熊の場面は、チャップリンが気づいて飛び上がるというオチにせず、結局気づかないままなのが更におかしい。

 さて物語はすみやかに進み、小さな探検家とビッグ・ジムは小屋の中で飢餓状態に突入する。極限状況である。まずチャップリンのトレードマークであるドタ靴を食う。『黄金狂時代』と言えば必ず言及される有名なシーンだ。私は最初にこれを観た時、ゆでた靴の質感から何からいやにリアルなのに驚いた記憶がある。そしてチャップリンの食い方がまた妙にうまそうだ。腹をかかえて笑うというよりじっと見入ってしまう場面である。しかし、もちろんこんなもので飢えは満たせず、やがてビッグ・ジムの目には小さな探検家がチキンに見え始める。銃を持ち出して撃ち殺して食べようとするビッグ・ジムから小さな探検家は逃げ惑う。ドナー探検隊の悲劇にインスパイアされた恐るべきコメディ・シーンである。とんでもなくハラハラすると同時に、チャップリンがチキンに見えたり人間に見えたりするところは本当におかしい。

 この映画は構成もすっきりしていて分かりやすく、最初が雪山で極限状況、次にふもとの村でジョージアとの悲恋をやり、最後にまた雪山で一大スペクタクル、という流れになっている。真ん中の恋愛話はせつなさがひとしおで、ジョージアは最初小さな探検家をからかっているだけだが、やがて彼の真情に気づく。ストーリーだけ見るとベタだが、小さな探検家の心情を完璧に、そして流れるように自在に表現するチャップリンのパントマイムが何といっても素晴らしい。彼のパントマイムはどの場面をとっても常に名人芸だが、この第二部の恋愛パートでは特に光っている。ジョージアと出会う酒場の喧騒、ジョージアの写真を拾う、ジョージアと食事の約束をして舞い上がる、夢の中で披露するロールパンのダンス、そして約束を忘れてどんちゃん騒ぎをするジョージアを窓の外から眺め、背中を丸めて黙って立ち去る。どの場面も見事に絵になっている。完全主義者のチャップリンは満足できるシークエンスが撮れるまで際限なく演技をやり直したというが、ここで見られるチャップリンのマイムはバレエを思わせる美しさだ。

 ところでこの『黄金狂時代』は最初にサイレントで公開され、その後チャップリンがナレーションと(自分で作曲した)音楽をつけたバージョンが作られた。今では『黄金狂時代』といえば後者を指すことになっていて、従ってこのバージョンにはサイレント映画につきものの例の字幕(セリフや状況説明が文字で出てくる部分)が出てこない。全部チャップリンのナレーションによって説明される。このDVDにはオリジナル・サイレント版もついているので部分的に見比べてみたが、編集もやり直してあるので細部が結構異なっている。大部分は細かな変更(たとえばジョージアと友達が雪合戦をして遊ぶ場面がトーキー版では短くなっている)だが、かなり重要と思われる変更もある。ジョージアが手紙を書く場面と、ラストである。

 ジョージアが手紙を書く場面は非常に重要な変更で、ストーリーが変わってしまっている。サイレント版では、ジョージアが「昨日はすみませんでした。愛しています」と手紙を書き、それをジャックに渡す。ジャックはそれをいたずらで小さな探検家に渡す。小さな探検家は誤解して舞い上がり、ジョージアに愛の告白をして、金鉱を求めて山に戻る。トーキー版では、ジョージアは「昨日はすみませんでした。説明したいので会って下さい」と手紙を書き、それを小さな探検家に渡す。小さな探検家は舞い上がり、ジョージアに愛の告白をして山に戻る。

 ジョージアの手紙の相手が変わることで、まったく意味が違ってくる。サイレント版では、ジョージアは小さな探検家をほとんど気にとめていない。前の場面で夕食の約束をすっぽかしたので、ジョージアが小さな探検家に謝罪の手紙を書いているのかと観客は思い、しかも「愛しています」の一言に驚くが、実はそれはジャック宛てだった、というオチでずっこける。そして小さな探検家がジョージアに告白するのはまったくの誤解に基づいている。ジョージアは彼のことなどなんとも思っていないのだ。より残酷で、より滑稽だ。しかしトーキー版ではジョージアは小さな探検家を気づかっていることになり、残酷度は薄れている。

 そしてラスト。サイレント版では小さな探検家とジョージアが記念撮影の時、顔を寄せてじっとしていなければならないのにキスをしてしまう、というところで終わるが、トーキー版では二人で歩み去る(サイレント版のラストシーンの前の部分)というおとなしい終わり方になっている。

 私はいずれの変更においても、サイレント版の方が優れていると思う。なぜチャップリンがこうした変更を加えたのかははっきりせず、ジョージア役の女優とのプライベートな記憶のためとも言われているらしい。とはいえ、トーキー版そのものがサイレント版に劣るとまで言うつもりはない。トーキー版の大きな魅力は、チャップリン本人の流暢なナレーションを楽しめること、それからチャップリン自身の作曲による音楽とともにこの映画を堪能できることにある。


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