『月の部屋で会いましょう』 レイ・ヴクサヴィッチ ☆☆☆★
奇想SF系の短編集を読了。作者のレイ・ヴクサヴィッチはロシアっぽい名前にもかかわらずアメリカ人。作品からは一応SFの匂いはするけれども、むしろエイミー・ベンダーやジュディ・バドニッツなどのアンリアリズム系の作家だと思った方が良い。
一つ一つの作品は非常に短く、全部で33篇も収録されている。傾向は大きく分けて二つあり、ひとつは奇想が抒情性を醸し出すもの、もうひとつは奇想を前衛的なまでに突きつめていってナンセンスに至るものである。いずれにしろ、奇想のドライブ感がスラップスティックやドタバタ的な狂騒感を醸すところ、ただし文体は端正で軽やかなので洗練された読後感を残すところ、が共通している。
前者、つまり奇想が抒情性を醸し出す例は冒頭に収録されている「僕らが天王星に着くころ」や、「最終果実」「ピンクの煙」「月の部屋で会いましょう」などで、まあこちらが本書のウリだろう。たとえば「僕らが天王星に着くころ」では、皮膚がだんだん宇宙服になって最後には宇宙に飛んでいくという奇病がはやり、この病気にかかった恋人と離れたくない青年が一緒に宇宙に行く方法を探して奮闘する。皮膚が宇宙服になって宇宙に飛んでいくというありえない奇想を、言葉の力でスマートに形にしていく技量はなかなかのものだ。
「最終果実」はこの作家のグロテスクな面が出た一篇で、ある町に頭に樹が生えている怪物がいるが、実はこの怪物、昔は普通の少女だった。で、少女の幼馴染だった青年が喰われる危険を冒して怪物の頭の樹に登る、という話だが、あっと驚く奇想、先の読めない展開、ナンセンスなまでに暴走するイメージ、そしてそこはかとなく漂う抒情性と、この作家の特徴と美点が詰め込まれた傑作である。
「ピンクの煙」も印象的な短篇で、万引きの悪癖が直らない娘とその恋人の物語。恋人はなんとか娘を更正させようとするがうまくいかない。やがて娘は警察に捕まって行方が分からなくなるが、スター手品師になって恋人の町に戻ってくる。ラスト一行が、思いがけず爽やかな感動をもたらす好篇である。
もう一方の、奇想を前衛的なまでに突きつめていく作品としては、「家庭療法」「派手なズボン」「魚が伝えるメッセージ」「キャッチ」「指」「俺たちは自転車を殺す」などたくさんある。はっきり言って「何のこっちゃ」というものばかりだ。プロットに大した意味はなく、イメージの遊びと思って読んだ方がいい。読者によって大きく好みが分かれるだろうし、私としても微妙なところだ。ドタバタ的な面白さを感じるものあるが、ピンと来ないものも多い。たとえば「家庭療法」は妻が浮気している状況で夫がゴキブリになってしまう。カフカのパロディかも知れない。浮気相手と夫のやりとりが、まあ笑えなくもない。「キャッチ」は「猫投げ」という、猫でキャッチボールをする仕事をしている夫婦が諍いをする話である。分からない。
この系統には冗談になって終わるものもある。「彗星なし」「シーズン最終回」「ぼくの口ひげ」「排便」などである。「ぼくの口ひげ」は、顔に蛇を接着剤でくっつけて「ぼくの口ひげ」と称する男の話で、恋人に哀願されて最後には止めるが、そのかわりに今度は「ぼくのヘアピース」が登場する。アホである。よくこんなアホな短篇を書いて、おまけに発表したな、という以外の感想を思いつかない。
私のフェイバリットとしては「僕らが天王星に着くころ」「最終果実」「ピンクの煙」あたりの大本命に加えて、ちょっと怪談話めいた「ふり」、ブコウスキーやバロウズのような暴力的なスラップスティック「服役」あたりを挙げておこう。「ささやき」や「月の部屋で会いましょう」もまあ悪くない。
まるでイメージや奇想の軽業を追及しているようなユニークな作家だ。ベンダーやバドニッツのようなアンリアリズム作家と似ているが、最終的には文体を含めた短篇全体の詩的効果を狙っている彼女たちと比べ、奇想そのもの、つまりどれだけ荒唐無稽なアイデアで書けるか、に注力しているような印象すら受ける(実は違うのかも知れないが)。シュールさがきついので、好みは分かれるだろう。
奇想SF系の短編集を読了。作者のレイ・ヴクサヴィッチはロシアっぽい名前にもかかわらずアメリカ人。作品からは一応SFの匂いはするけれども、むしろエイミー・ベンダーやジュディ・バドニッツなどのアンリアリズム系の作家だと思った方が良い。
一つ一つの作品は非常に短く、全部で33篇も収録されている。傾向は大きく分けて二つあり、ひとつは奇想が抒情性を醸し出すもの、もうひとつは奇想を前衛的なまでに突きつめていってナンセンスに至るものである。いずれにしろ、奇想のドライブ感がスラップスティックやドタバタ的な狂騒感を醸すところ、ただし文体は端正で軽やかなので洗練された読後感を残すところ、が共通している。
前者、つまり奇想が抒情性を醸し出す例は冒頭に収録されている「僕らが天王星に着くころ」や、「最終果実」「ピンクの煙」「月の部屋で会いましょう」などで、まあこちらが本書のウリだろう。たとえば「僕らが天王星に着くころ」では、皮膚がだんだん宇宙服になって最後には宇宙に飛んでいくという奇病がはやり、この病気にかかった恋人と離れたくない青年が一緒に宇宙に行く方法を探して奮闘する。皮膚が宇宙服になって宇宙に飛んでいくというありえない奇想を、言葉の力でスマートに形にしていく技量はなかなかのものだ。
「最終果実」はこの作家のグロテスクな面が出た一篇で、ある町に頭に樹が生えている怪物がいるが、実はこの怪物、昔は普通の少女だった。で、少女の幼馴染だった青年が喰われる危険を冒して怪物の頭の樹に登る、という話だが、あっと驚く奇想、先の読めない展開、ナンセンスなまでに暴走するイメージ、そしてそこはかとなく漂う抒情性と、この作家の特徴と美点が詰め込まれた傑作である。
「ピンクの煙」も印象的な短篇で、万引きの悪癖が直らない娘とその恋人の物語。恋人はなんとか娘を更正させようとするがうまくいかない。やがて娘は警察に捕まって行方が分からなくなるが、スター手品師になって恋人の町に戻ってくる。ラスト一行が、思いがけず爽やかな感動をもたらす好篇である。
もう一方の、奇想を前衛的なまでに突きつめていく作品としては、「家庭療法」「派手なズボン」「魚が伝えるメッセージ」「キャッチ」「指」「俺たちは自転車を殺す」などたくさんある。はっきり言って「何のこっちゃ」というものばかりだ。プロットに大した意味はなく、イメージの遊びと思って読んだ方がいい。読者によって大きく好みが分かれるだろうし、私としても微妙なところだ。ドタバタ的な面白さを感じるものあるが、ピンと来ないものも多い。たとえば「家庭療法」は妻が浮気している状況で夫がゴキブリになってしまう。カフカのパロディかも知れない。浮気相手と夫のやりとりが、まあ笑えなくもない。「キャッチ」は「猫投げ」という、猫でキャッチボールをする仕事をしている夫婦が諍いをする話である。分からない。
この系統には冗談になって終わるものもある。「彗星なし」「シーズン最終回」「ぼくの口ひげ」「排便」などである。「ぼくの口ひげ」は、顔に蛇を接着剤でくっつけて「ぼくの口ひげ」と称する男の話で、恋人に哀願されて最後には止めるが、そのかわりに今度は「ぼくのヘアピース」が登場する。アホである。よくこんなアホな短篇を書いて、おまけに発表したな、という以外の感想を思いつかない。
私のフェイバリットとしては「僕らが天王星に着くころ」「最終果実」「ピンクの煙」あたりの大本命に加えて、ちょっと怪談話めいた「ふり」、ブコウスキーやバロウズのような暴力的なスラップスティック「服役」あたりを挙げておこう。「ささやき」や「月の部屋で会いましょう」もまあ悪くない。
まるでイメージや奇想の軽業を追及しているようなユニークな作家だ。ベンダーやバドニッツのようなアンリアリズム作家と似ているが、最終的には文体を含めた短篇全体の詩的効果を狙っている彼女たちと比べ、奇想そのもの、つまりどれだけ荒唐無稽なアイデアで書けるか、に注力しているような印象すら受ける(実は違うのかも知れないが)。シュールさがきついので、好みは分かれるだろう。
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