アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

Love in the Time of Cholera (コレラの時代の愛)

2005-11-07 08:59:17 | 
『Love in the Time of Cholera』 Gabriel Garcia Marquez   ☆☆☆☆☆

 『コレラの時代の愛』、ガルシア・マルケスである。いつまで待っても日本語訳が出ないので、ついにあきらめて英語訳を買った。このまま待ってて読まないうちに死にでもしたら大変だからだ。

 それにしても、この本がコロンビアで最初に出版されたのが1985年、英訳本の初版は1988年に出ている。ところが2005年の現在に至るまで、日本語訳は一冊も出ていない。これは一体どういうことだ?

 20年だぞ20年。マイナーな作家の、知る人ぞ知る傑作が訳されていないなんて話とはわけが違う。ノーベル賞作家であり、世界的ベストセラーとなった『百年の孤独』の作者、そしてこの『コレラの時代の愛』はそのマルケスの『百年の孤独』と比肩される大傑作なのであって、実際どこかのブッククラブの調査ではベスト小説史上100に『百年の孤独』とこの『コレラの時代の愛』が選ばれているのだ。その『コレラの時代の愛』が、かつて一度も日本語翻訳で出版されたことがないのである。どういう事情があるのか知らないが、20年は長すぎる。日本の出版社は何やってんだ。謝れ。

 と、いうわけでもはや辛抱たまらなくなり、英訳本を買って読むことにした。しかしアメリカ在住ながら仕事以外で英語の本を読んだのはものすごく久しぶりで、思った以上に大変だった。文章を目で追っても日本語のようにイメージが浮かんでこない。作中の世界で何が起こっているのかすぐに分からなくなってしまう。
 なので物語をじっくり堪能したとはとても言えない状態で読了しまった。もったいない。残念である。自分の英語力のなさに怒りを覚える。

 けれどもがんばってどんな小説だったか紹介したいと思う。これは53年7ヶ月と11日、一人の女を待ち続けた男フロレンティーノと、その相手フェルミナの究極のラヴ・ストーリーである。この下ストーリーに触れるので、自分で読むまでは知りたくないという人は、ここで読むのを止めること。

 物語は一人の医師、ジュヴェナール・ウルビノが自殺したチェス友達の家へ死体を調べにいく場面から始まる。家に入った途端、アーモンドの香りがウルビノ医師の鼻孔を刺激するのだ。例によってドラマティックなマルケス流の開幕である。ウルビノ医師は遺書というか書き置きを発見し、それによって事件の裏の女の存在を知る。
 この事件自体は物語の本筋とは関係ない前置きなのだが、長い愛の物語の発端として効果的な、ドラマティックなエピソードだ。そしてこのエピソードによって読者は本書の三番目の主人公ともいえるウルビノ医師に紹介される。ウルビノ医師の妻がこの物語のヒロイン、フェルミナなのである。

 二人はありがちな老夫婦である。夫の服を着せるのはフェルミナの仕事だ。なんやかや言い合いをしたりしながらいい雰囲気の夫婦だ。マルケス一流の奔放な物語はこの夫婦の生活、屋敷で飼っていた数多くの動物たち、それがみんな死んでしまった顛末、嵐の中での豪奢な昼食会(着飾った人々が泥まみれになる)、そして何ヶ国語をも操るウルビノ医師のオウム、など例によって奇想とユーモアを交えながら悠々と展開していく。やっぱマルケスはいいなあ。そして第一章の最後で、ウルビノ医師はマンゴーの樹の上に逃げたオウムを捕まえようとして、樹から落ちて死んでしまう。最後に駆けつけたフェルミナにこう呟きながら。「私がお前をどれほど愛していたかは、神様だけがご存知だ」

 喪に服す屋敷に、弔問客としてフロレンティーノが訪れる。「私はこの時を半世紀以上待ったんだ」というフロレンティーノにフェルミナは出ていけ、二度と来るなと冷たく言う。そして彼女は夫を失った悲しみに泣きながら眠りにつき、寝返りを打ち、泣き、夢の中でも泣き続け、そして長い夜があけ、彼女は自分が夢の中で、死んだ夫よりフロレンティーノのことを考え続けていたことを知るのである。

 ここで物語は50数年を遡り、フロレンティーノとフェルミナの過去の物語へとシフトする。ここでもマルケスは饒舌にフロレンティーノの親のことやら何やらのエピソードを繰り出しながら、二人の出会いを語っていく。郵便局に勤めていたフロレンティーノはある屋敷に郵便を届けた時、若い娘を見かけて恋に落ちる。これがフェルミナである。フロレンティーノは公園でわざとらしい待ち伏せをかましたり、読んだことのある小説からの膨大な引用に埋め尽くされた何十ページにも渡る手紙を書いたり、息子を不憫に思った母親からアドバイスを受けたりする。一方フェルミナの方ではいつも付き添っている叔母がすぐにフロレンティーノに気づき、手紙を持ってくるに違いないといって待ち構えている。フェルミナは別に彼をなんとも思っていないのだが、なかなかフロレンティーノが手紙を持ってこないのでやがて手紙を待ち望むようになる。
 なんだかんだあって二人は恋仲になり、結婚の約束をするが、フェルミナの父親が反対し、二人を引き離すためにフェルミナを他の土地へやってしまう。二人の恋心はますます募る。この別離の間にフロレンティーノは海の底に沈む財宝探しをしたりする。やがてフェルミナは更に美しく成長して戻ってくる、フロレンティーノへの愛を胸に抱いて。そして愛しいフロレンティーノが彼女の前に現れる。その瞬間、フェルミナを激しい幻滅が襲う。それが何かはよくわからないが、とにかく一瞬にして恋心が消えうせてしまうのだ。すべては幻だったと彼女は悟り、彼の前から姿を消し、二度と会わないと伝言させる。こうして、あまりにも不条理に、フロレンティーノの53年7ヶ月と11日に及ぶ待機が始まる。

 なんとも劇的で、饒舌で、ほら話めいて、哀しくて、しかもユーモラスな、まさにマルケス印全開の物語ではないか。

 その後フロレンティーノは船会社を相続して他の土地へ行き、そこで様々な女達と出会う。彼の心の中にはいつもフェルミナがいるのだが、そこは若い男、色んな女との様々なエピソードが語られる。このそれぞれの女達とのエピソードが、またどれも面白いのである。私は最後に精神病院に連れて行かれてしまう女の話が特に印象に残った。
 一方フェルミナはその後、ヨーロッパ帰りの社交界の花、ウルビノ医師との出会い、そして結婚、新婚旅行の模様が描かれる。それを知ったフロレンティーノはウルビノ医師の死を待ち焦がれる。この二人が出会うエピソードもある。フロレンティーノはウルビノ医師を敵視していたが、会話を交わしてみて、自分達は同じ何かの犠牲者同士であることに気づく。

 こうして物語は長い時を経て第一章の終わりにつながる。フロレンティーノとフェルミナの再会である。最初は昔と同じくフロレンティーノを拒むフェルミナだが、やがてフロレンティーノと一緒に過ごすようになり、一度は挫折した愛がようやく、年老いた二人の間で成就する。これはマルケスの物語の中でも珍しいハッピーエンドである。

 はっきり言って面白い。面白過ぎる。英語力のなさのためにこの饒舌な物語の細部まで堪能できないのが悔しい。とにかく愛に関するありとあらゆる物語要素がぶち込まれて濃厚なスープになっているような小説である。
 物語のあちこちに埋め込まれたユーモアも例によって冴えている。今回はテーマがテーマだけに老年に関するユーモラスな描写が多かったような気がする。物忘れがひどくなって、同じ日に会ったインターンの顔が思い出せないウルビノ医師とか、禿げてきたのを気にして養毛剤を使いまくるフロレンティーノの話あたりは哀しくも滑稽で、ニヤニヤしながら読んだ。

 もう何も言うことはない。これは傑作だ。この本を日本人が母国語で読めないのは犯罪である。とにかく一刻も早く翻訳本を出せってんだ。

 とここまで書いて、『コレラの時代の愛』が映画化されることを知った。これで出版界も気合いが入って翻訳する気になるかも知れない。しかし映画の完成前に翻訳本が出るかどうか怪しいところだ。映画で見る前に原作を読みたいと言うマルケス・ファンは多いだろうが、まあそれほど心配する必要はないと思う。
 この原作を忠実に映画化などできるわけがない。別物になると思っていた方がいいだろう。

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