『砂の器』 野村芳太郎監督 ☆☆☆☆
ご存知、邦画史上に燦然と輝く不朽の名作である。しかしながら私としては、なかなか良い映画であるとは思うものの、最高の傑作とまでは思えない映画なのだった。ただ今回DVDで再見して、昔観た時よりは評価が上がった。初めて観た時は期待し過ぎたせいもあってか、かなりがっかりした記憶がある。
と、こんなことを書くと、この名作の価値が分からんとは、と呆れられるかも知れない。しかし私はこの映画に感動する人の気持ちも分かるつもりだ。ではなぜ最高の傑作とは思えないのか、なるべく分かりやすく説明してみたいと思う。
まず、本作は何はともあれミステリの体裁になっているが、ミステリとしてはプロットに結構穴がある、あるいはご都合主義が目立つ。例えば和賀の恋人である島田陽子の扱いだが、あの唐突な死は(物語の進行上)ちょっと都合が良過ぎないだろうか。それからやはり島田陽子による血のついたシャツの処分方法、そしてその発覚経緯。いくらなんでもあんなへんこてりんな、わざわざ人目につくような処理をする女はいないだろうし、それが新聞のエッセイになるというのもやはり都合が良すぎる。もっと致命的だと思えるのは、6,7歳の子供の頃しか知らない三木が成人した和賀の正体を写真を見ただけで見抜くということ、それからまた戸籍の捏造までして自分の正体をひた隠しにしていた和賀が、あっさり三木に会うということだ。おまけに和賀はサインを求められるほどの有名人であり、かつ三木と一緒にスナックで飲んでいるところを複数の人間に目撃されているにもかかわらず、その直後に殺人を決行する。これはかなり不自然で、ストーリーの根幹にかかわる問題だと思う。
しかしもちろん、この映画が評価されているのはミステリ映画としてではなく、あのクライマックスの盛り上がりにあるわけで、そういう意味では枝葉かも知れない。それまでのプロットのすべてはあの終盤に集約され、中西刑事の解説、和賀のコンサート、そして過去の回想場面の三つが交錯し、相乗効果をもたらし、怒涛のように盛り上がる。ハンセン氏病を背負った父とその幼い息子が故郷を捨て、人々の蔑視と迫害に耐えながら放浪するその姿はあまりにもかわいそうで、とても涙なしに観ることはできない。ついでにいうと劇中和賀が作曲したことになっている「宿命」がクライマックスの間中ずっと流れ、和賀のコンサート映像と回想シーンとぴったり歩調を合わせ、いやが上にも悲壮感を高めていく。
私とて鬼ではないので、この場面ではどうしても目がうるうるして来るのだけれども、この「ハンセン氏病」と「親子の絆」をキーワードに観客の感情に揺さぶりをかけてくるこの手法に、いささかひっかかりを覚えるのも事実だ。あの音楽も含めて、これはかなりあざとい手法である。たとえば施設に運ばれていく父親とそれを見送る子供、子供が駆け寄ってきて父子がひしと抱き合う場面。「宿命」のオーケストラが鳴り響いていやが上にも涙を誘うが、要するにこれは「お涙頂戴」ではないだろうか。
「お涙頂戴」で何がいけないのか。これは本作に限らずあらゆる「泣ける」映画に共通の問いだが、映画は確かに観客を感動させている、つまり観客の感情を高ぶらせてカタルシスを与えているのだからそれでいいじゃないか、という考え方もある。しかし私見では、最上級の芸術作品とは必ずしも感情の高ぶりを目的とはしないのである。『不滅』を思い出してみよう。感情こそ最上の価値、というのは、ミラン・クンデラ的に言うと「ホモ・センチメンタリス」的価値観である。
思うに、最上の芸術作品は観客をある強烈な感情や感傷の中に閉じ込めようとはせず、むしろそれから解放するベクトルを持っているのではないだろうか。私が念頭においているのはたとえば『ミツバチのささやき』『髪結いの亭主』『二人のベロニカ』『人情紙風船』『七人の侍』『死刑台のエレベーター』『東京物語』『ソナチネ』などの映画だが、これらの映画の美しさは(まるで花や宝石や美しい風景のように)感情そのものに依存しないか、あるいは強烈な感情が描かれていてもそこから距離を置いている。つまり感情は映画の中にではなく、観客の心の中に生まれてくる。映画は触媒なのだ。それに対して「お涙頂戴映画」では、映画の中に強い感情そのものが描かれ、制作者はその感情と観客との距離を最小限にし、観客を意図された感情に巻き込もうとする。
私は「泣ける話」が全部駄目と言うつもりは全然ない。たとえば私は『幸福の王子』という話が大好きで、読むといつも涙が出そうになるが、これをあざといとは思わない。同じじゃないか、と言われそうだし説明も難しいが、一つだけ言わせてもらえば、『幸福の王子』の中では誰も大声で泣いたりわめいたりはしないのである。
まあこの映画を単なるお涙頂戴映画と言うつもりはないが、そのウェイトもかなり大きいんじゃないか、というのが私の感想なのである。
ただ今回見直して評価が上がったのは、まずカタルシスを終盤に集約するための構成が巧みであることが一つ。たとえば原作では重要なミステリーとなっている「カメダ」だが、本作では冒頭からそれが地名であることが明かされる。中西刑事の謎解きの過程もすべてを見せず、肝心な部分は最後の解説の中で語られるようになっているし、彼が過去を探りにあちこちの田舎に行く場面では、日本の田舎の風景がもっているじっとりした重たさが描かれていて、とても美しい。序盤、刑事二人が日本海を見ながら「どこか重たい」と会話する場面があるが、その重たさはこの映画そのもののムードでもある。
そして一番重要なのは、やはりクライマックスで描かれる親子巡礼の苛烈さである。父と子が白い巡礼の姿で田舎の光景の中(それまで三度にわたって描かれた田舎の風景の重たさがここに結実する)を彷徨う四季おりおりの映像は、脳裏に焼きついて離れなくなる。お涙頂戴を超えた呪縛的な力がある。
そんなわけで、今回観直してやはり良い映画なんだなとは思ったものの、個人的には大傑作と呼ぶには至らないのである。ああ、今回は「不朽の名作」に対し好き勝手なことを書いてしまった。ファンの皆様ご容赦を。
ご存知、邦画史上に燦然と輝く不朽の名作である。しかしながら私としては、なかなか良い映画であるとは思うものの、最高の傑作とまでは思えない映画なのだった。ただ今回DVDで再見して、昔観た時よりは評価が上がった。初めて観た時は期待し過ぎたせいもあってか、かなりがっかりした記憶がある。
と、こんなことを書くと、この名作の価値が分からんとは、と呆れられるかも知れない。しかし私はこの映画に感動する人の気持ちも分かるつもりだ。ではなぜ最高の傑作とは思えないのか、なるべく分かりやすく説明してみたいと思う。
まず、本作は何はともあれミステリの体裁になっているが、ミステリとしてはプロットに結構穴がある、あるいはご都合主義が目立つ。例えば和賀の恋人である島田陽子の扱いだが、あの唐突な死は(物語の進行上)ちょっと都合が良過ぎないだろうか。それからやはり島田陽子による血のついたシャツの処分方法、そしてその発覚経緯。いくらなんでもあんなへんこてりんな、わざわざ人目につくような処理をする女はいないだろうし、それが新聞のエッセイになるというのもやはり都合が良すぎる。もっと致命的だと思えるのは、6,7歳の子供の頃しか知らない三木が成人した和賀の正体を写真を見ただけで見抜くということ、それからまた戸籍の捏造までして自分の正体をひた隠しにしていた和賀が、あっさり三木に会うということだ。おまけに和賀はサインを求められるほどの有名人であり、かつ三木と一緒にスナックで飲んでいるところを複数の人間に目撃されているにもかかわらず、その直後に殺人を決行する。これはかなり不自然で、ストーリーの根幹にかかわる問題だと思う。
しかしもちろん、この映画が評価されているのはミステリ映画としてではなく、あのクライマックスの盛り上がりにあるわけで、そういう意味では枝葉かも知れない。それまでのプロットのすべてはあの終盤に集約され、中西刑事の解説、和賀のコンサート、そして過去の回想場面の三つが交錯し、相乗効果をもたらし、怒涛のように盛り上がる。ハンセン氏病を背負った父とその幼い息子が故郷を捨て、人々の蔑視と迫害に耐えながら放浪するその姿はあまりにもかわいそうで、とても涙なしに観ることはできない。ついでにいうと劇中和賀が作曲したことになっている「宿命」がクライマックスの間中ずっと流れ、和賀のコンサート映像と回想シーンとぴったり歩調を合わせ、いやが上にも悲壮感を高めていく。
私とて鬼ではないので、この場面ではどうしても目がうるうるして来るのだけれども、この「ハンセン氏病」と「親子の絆」をキーワードに観客の感情に揺さぶりをかけてくるこの手法に、いささかひっかかりを覚えるのも事実だ。あの音楽も含めて、これはかなりあざとい手法である。たとえば施設に運ばれていく父親とそれを見送る子供、子供が駆け寄ってきて父子がひしと抱き合う場面。「宿命」のオーケストラが鳴り響いていやが上にも涙を誘うが、要するにこれは「お涙頂戴」ではないだろうか。
「お涙頂戴」で何がいけないのか。これは本作に限らずあらゆる「泣ける」映画に共通の問いだが、映画は確かに観客を感動させている、つまり観客の感情を高ぶらせてカタルシスを与えているのだからそれでいいじゃないか、という考え方もある。しかし私見では、最上級の芸術作品とは必ずしも感情の高ぶりを目的とはしないのである。『不滅』を思い出してみよう。感情こそ最上の価値、というのは、ミラン・クンデラ的に言うと「ホモ・センチメンタリス」的価値観である。
思うに、最上の芸術作品は観客をある強烈な感情や感傷の中に閉じ込めようとはせず、むしろそれから解放するベクトルを持っているのではないだろうか。私が念頭においているのはたとえば『ミツバチのささやき』『髪結いの亭主』『二人のベロニカ』『人情紙風船』『七人の侍』『死刑台のエレベーター』『東京物語』『ソナチネ』などの映画だが、これらの映画の美しさは(まるで花や宝石や美しい風景のように)感情そのものに依存しないか、あるいは強烈な感情が描かれていてもそこから距離を置いている。つまり感情は映画の中にではなく、観客の心の中に生まれてくる。映画は触媒なのだ。それに対して「お涙頂戴映画」では、映画の中に強い感情そのものが描かれ、制作者はその感情と観客との距離を最小限にし、観客を意図された感情に巻き込もうとする。
私は「泣ける話」が全部駄目と言うつもりは全然ない。たとえば私は『幸福の王子』という話が大好きで、読むといつも涙が出そうになるが、これをあざといとは思わない。同じじゃないか、と言われそうだし説明も難しいが、一つだけ言わせてもらえば、『幸福の王子』の中では誰も大声で泣いたりわめいたりはしないのである。
まあこの映画を単なるお涙頂戴映画と言うつもりはないが、そのウェイトもかなり大きいんじゃないか、というのが私の感想なのである。
ただ今回見直して評価が上がったのは、まずカタルシスを終盤に集約するための構成が巧みであることが一つ。たとえば原作では重要なミステリーとなっている「カメダ」だが、本作では冒頭からそれが地名であることが明かされる。中西刑事の謎解きの過程もすべてを見せず、肝心な部分は最後の解説の中で語られるようになっているし、彼が過去を探りにあちこちの田舎に行く場面では、日本の田舎の風景がもっているじっとりした重たさが描かれていて、とても美しい。序盤、刑事二人が日本海を見ながら「どこか重たい」と会話する場面があるが、その重たさはこの映画そのもののムードでもある。
そして一番重要なのは、やはりクライマックスで描かれる親子巡礼の苛烈さである。父と子が白い巡礼の姿で田舎の光景の中(それまで三度にわたって描かれた田舎の風景の重たさがここに結実する)を彷徨う四季おりおりの映像は、脳裏に焼きついて離れなくなる。お涙頂戴を超えた呪縛的な力がある。
そんなわけで、今回観直してやはり良い映画なんだなとは思ったものの、個人的には大傑作と呼ぶには至らないのである。ああ、今回は「不朽の名作」に対し好き勝手なことを書いてしまった。ファンの皆様ご容赦を。
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