『めくらやなぎと眠る女』 村上春樹 ☆☆☆☆
『象の消滅』に続く、アメリカで出版された村上春樹短篇集の逆輸入シリーズ第二弾。『象の消滅』には星五個つけたのにこれは四つなのは、実際にクオリティの差なのか、村上春樹の短篇小説に対する私の見る目が少し冷めたせいなのかは、五年以上も間が空いてしまったのでなんとも言えない。もう一回『象の消滅』を読み返してみればいいのだが、本書に続けて『回転木馬のデッド・ヒート』も読んだので、さすがにそんな気になれない。
とりあえず『象の消滅』と同じく言えることは、さまざまな時代のさまざまな傾向の短篇から選ぶことができ、またそれらを自在にシャッフルして並べることができるアンソロジーならではの、ベストアルバム的面白さがあること。おそらくは村上春樹オリジナルの短篇集にはない味わいがある。また同じ短篇でも、このアンソロジーで読むと違う印象を受ける可能性がある。だからコアな村上春樹ファンにとっても面白いだろうし、村上春樹を初めて読むという人にも、『象の消滅』と並んで最適だ。
私が感じたのは、これだけ色んな年代、色んなタイプの短篇を混ぜこぜにして並べてみると、かえって村上春樹短篇作法のコアな部分がくっきり見えてくるということだ。村上春樹自身による序文の中で印象的だったのは、短篇の場合、どんな些細なことからでも(たった一つの言葉やイメージからでも)一つの物語を作ってしまえる、という一文である。読み方によってはとても傲慢な一文で、短篇とはいえアイデアやプロットなど苦労してひねり出し、緻密な青写真を引いて書いているミステリ作家などが読むとカチンと来るのではないかと思うが、おそらくこれはハッタリでもなんでもなく、村上春樹の本音なのである。彼はちょっとしたとっかかりが一つあれば、短篇一つぐらい簡単に書けてしまうのだ。そしてそれは多分、村上春樹独特の短篇生成術によるものなのだが、その器用さは必ずしも彼の強みであるとは限らず、もしかしたら彼の弱みと言ってもいいのかも知れない。その理由をこれから説明したい。
村上春樹の武器がプロットの構想力や思想ではなく、文章力であることに誰も異存はないだろう。フィッツジェラルドやカポーティ、ヴォネガット、ブローティガンのような海外文学の優美でデリケートな、もっと言うならお洒落な文体を自家薬籠中のものとし、「彼ほど遠くまでジャンプする日本の作家は存在しない」と評されるほどにアクロバティックな隠喩の使い手、それが村上春樹である。多くの読者は、その文章の運動力、イメージの回転力を鑑賞するために彼の小説を読むに違いない。彼においては、「どのように書くか」が「何を書くか」より上位にある。もしかしたら本人の意識や熱烈なファンの見方は違うかも知れないが、彼の作品は大体においてそういう読まれ方をしていると言っても、間違いではないだろう。
ここで突然話が変わるが、昔、紳助が漫才のネタの組み立てについてこんなことを言っていた。流れや構成なんか考える必要はない、おもろいネタが三つか四つあったらつながりなんか無視してただくっつければいいだけ、辻褄なんか気にするな、ロジカルなものは腑に落ちるけれども衝撃がない。正確じゃないが大体こんなことだったと思う。ここでいきなり乱暴な結論を言うと、村上春樹が短篇を書く時にやっているのがこれである。「んなわけねー」と思われるだろうか?
もちろん、文章の流れは考えている。しかし、ロジックや辻褄は大して考えていない。たとえば「スパゲティ」というイメージがあるとすると、彼はそこから連想される情景の断片やフレーズをかき集めてくる。そしてロジックや辻褄は無視し、ただ美的なセンスだけで配置する。あとは得意の文章力で仕上げる。こうして、短篇「スパゲティの年に」が出来上がる。ちょっとしたとっかかりがあればいい、というのはこういう意味である。
断っておくが、これは簡単なことではない。多くの作家がプロットやストーリーテリングに頼るのは、そうしないと読者を惹きつけておけないからだ。プロットがなくても、あるいは意味不明でも、読者を魅了して作品を読ませるだけの尋常ならざる文章力、そしてイメージ喚起力が必要だ。村上春樹にはそれができる。だからこんな短篇の書き方ができるのである。
見てきたようなことを書きやがって、なんでそんなことがお前に分かるのだ、と言われそうだが、この作品集を読むとそうとしか思えないのである。「スパゲティの年に」や「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」のような、コトバの運動神経だけで勝負しているような作品はもちろんだが、そういう典型的な例を除いたとしても、ある不思議なイメージをぽんと呈示して終わり、というスタイルが非常に多い。これは村上春樹が訳しているレイモンド・カーヴァーの「でぶ」や「ダンスしないか?」と同じ手法で、ちょっとシュールな、読者の心に微妙な揺らぎをもたらすような光景をぽんと呈示して、何も説明しない。あとは読者に意味を考えさせる。
本書で言えば表題作の「めくらやなぎと眠る女」をはじめ、「バースデイ・ガール」「飛行機」「鏡」「ハンティング・ナイフ」など全部これで、飾りをはぎ取ってコアな部分で考えるならば、村上春樹の短篇は大部分このスタイルだと言っていいと思う。
そして、このやり方はうまく行くと見事に多義的な、謎と詩情をはらんだ短篇に結実するが、失敗するとチグハグな、あるいは何が言いたいのかよく分からない、焦点のぼやけた短篇になる。私見だが、たとえば「貧乏な叔母さんの話」ではイメージを無理やり広げようと悪戦苦闘した挙句、結果的に失敗している。要するに言葉を扱うセンスがすべてという短篇の書き方である。おそらくこれは短篇作家の書き方というよりも、詩人が詩を書く方法に近いのではないかと思う。あるいは即興演奏するジャズ・ミュージシャンだろうか。緻密な計算に基づいて短篇を書く作家、たとえば筒井康隆などが村上春樹の短篇をどう思うか、聞いてみたい気がする。
(次回へ続く)
『象の消滅』に続く、アメリカで出版された村上春樹短篇集の逆輸入シリーズ第二弾。『象の消滅』には星五個つけたのにこれは四つなのは、実際にクオリティの差なのか、村上春樹の短篇小説に対する私の見る目が少し冷めたせいなのかは、五年以上も間が空いてしまったのでなんとも言えない。もう一回『象の消滅』を読み返してみればいいのだが、本書に続けて『回転木馬のデッド・ヒート』も読んだので、さすがにそんな気になれない。
とりあえず『象の消滅』と同じく言えることは、さまざまな時代のさまざまな傾向の短篇から選ぶことができ、またそれらを自在にシャッフルして並べることができるアンソロジーならではの、ベストアルバム的面白さがあること。おそらくは村上春樹オリジナルの短篇集にはない味わいがある。また同じ短篇でも、このアンソロジーで読むと違う印象を受ける可能性がある。だからコアな村上春樹ファンにとっても面白いだろうし、村上春樹を初めて読むという人にも、『象の消滅』と並んで最適だ。
私が感じたのは、これだけ色んな年代、色んなタイプの短篇を混ぜこぜにして並べてみると、かえって村上春樹短篇作法のコアな部分がくっきり見えてくるということだ。村上春樹自身による序文の中で印象的だったのは、短篇の場合、どんな些細なことからでも(たった一つの言葉やイメージからでも)一つの物語を作ってしまえる、という一文である。読み方によってはとても傲慢な一文で、短篇とはいえアイデアやプロットなど苦労してひねり出し、緻密な青写真を引いて書いているミステリ作家などが読むとカチンと来るのではないかと思うが、おそらくこれはハッタリでもなんでもなく、村上春樹の本音なのである。彼はちょっとしたとっかかりが一つあれば、短篇一つぐらい簡単に書けてしまうのだ。そしてそれは多分、村上春樹独特の短篇生成術によるものなのだが、その器用さは必ずしも彼の強みであるとは限らず、もしかしたら彼の弱みと言ってもいいのかも知れない。その理由をこれから説明したい。
村上春樹の武器がプロットの構想力や思想ではなく、文章力であることに誰も異存はないだろう。フィッツジェラルドやカポーティ、ヴォネガット、ブローティガンのような海外文学の優美でデリケートな、もっと言うならお洒落な文体を自家薬籠中のものとし、「彼ほど遠くまでジャンプする日本の作家は存在しない」と評されるほどにアクロバティックな隠喩の使い手、それが村上春樹である。多くの読者は、その文章の運動力、イメージの回転力を鑑賞するために彼の小説を読むに違いない。彼においては、「どのように書くか」が「何を書くか」より上位にある。もしかしたら本人の意識や熱烈なファンの見方は違うかも知れないが、彼の作品は大体においてそういう読まれ方をしていると言っても、間違いではないだろう。
ここで突然話が変わるが、昔、紳助が漫才のネタの組み立てについてこんなことを言っていた。流れや構成なんか考える必要はない、おもろいネタが三つか四つあったらつながりなんか無視してただくっつければいいだけ、辻褄なんか気にするな、ロジカルなものは腑に落ちるけれども衝撃がない。正確じゃないが大体こんなことだったと思う。ここでいきなり乱暴な結論を言うと、村上春樹が短篇を書く時にやっているのがこれである。「んなわけねー」と思われるだろうか?
もちろん、文章の流れは考えている。しかし、ロジックや辻褄は大して考えていない。たとえば「スパゲティ」というイメージがあるとすると、彼はそこから連想される情景の断片やフレーズをかき集めてくる。そしてロジックや辻褄は無視し、ただ美的なセンスだけで配置する。あとは得意の文章力で仕上げる。こうして、短篇「スパゲティの年に」が出来上がる。ちょっとしたとっかかりがあればいい、というのはこういう意味である。
断っておくが、これは簡単なことではない。多くの作家がプロットやストーリーテリングに頼るのは、そうしないと読者を惹きつけておけないからだ。プロットがなくても、あるいは意味不明でも、読者を魅了して作品を読ませるだけの尋常ならざる文章力、そしてイメージ喚起力が必要だ。村上春樹にはそれができる。だからこんな短篇の書き方ができるのである。
見てきたようなことを書きやがって、なんでそんなことがお前に分かるのだ、と言われそうだが、この作品集を読むとそうとしか思えないのである。「スパゲティの年に」や「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」のような、コトバの運動神経だけで勝負しているような作品はもちろんだが、そういう典型的な例を除いたとしても、ある不思議なイメージをぽんと呈示して終わり、というスタイルが非常に多い。これは村上春樹が訳しているレイモンド・カーヴァーの「でぶ」や「ダンスしないか?」と同じ手法で、ちょっとシュールな、読者の心に微妙な揺らぎをもたらすような光景をぽんと呈示して、何も説明しない。あとは読者に意味を考えさせる。
本書で言えば表題作の「めくらやなぎと眠る女」をはじめ、「バースデイ・ガール」「飛行機」「鏡」「ハンティング・ナイフ」など全部これで、飾りをはぎ取ってコアな部分で考えるならば、村上春樹の短篇は大部分このスタイルだと言っていいと思う。
そして、このやり方はうまく行くと見事に多義的な、謎と詩情をはらんだ短篇に結実するが、失敗するとチグハグな、あるいは何が言いたいのかよく分からない、焦点のぼやけた短篇になる。私見だが、たとえば「貧乏な叔母さんの話」ではイメージを無理やり広げようと悪戦苦闘した挙句、結果的に失敗している。要するに言葉を扱うセンスがすべてという短篇の書き方である。おそらくこれは短篇作家の書き方というよりも、詩人が詩を書く方法に近いのではないかと思う。あるいは即興演奏するジャズ・ミュージシャンだろうか。緻密な計算に基づいて短篇を書く作家、たとえば筒井康隆などが村上春樹の短篇をどう思うか、聞いてみたい気がする。
(次回へ続く)
高校時代に現代国語の題材として村上春樹の「鏡」が採り上げられました。
普段は文学に関心もない生徒たちが、この「鏡」の授業のときは熱心に、というより、小説の世界観に興味を示していました。
僕が訳を訊ねると、今まで教科書に採り上げられた日本文学はつまらない、テーマも文体も暑苦しい、だそうです。
でも村上の小説はそれがない、と言ってました。
「鏡」は読者に解釈を委ねるはその通りだと思います。
高校生同士ながら皆で色々議論を交わしたのが懐かしいです。
ちなみに、「鏡」の後に採り上げられ、授業の題材になった安部公房の「公然の秘密」はこれ以上の反響で、周りの生徒は興味津々でした。
村上春樹と安部公房は日本文学の異端児だからこそ、文学に興味のない人たちも引き寄せられる引力があったのかしらん。