アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

萌の朱雀

2008-03-23 10:55:14 | 映画
『萌の朱雀』 河瀬直美監督   ☆☆☆☆☆

 ビデオでも持っているが、DVDが出たのを知ってあわてて購入。絶対すぐに製造中止になるに決まっている。ああ気がついて良かった。カンヌでカメラドールを最年少で受賞した作品だが、それも納得の素晴らしい映画である。

 ストーリーはシンプル。奈良県の山の中、電車も通っていない過疎の村で暮らす一家の静謐な日々。村人達は徐々にどこかへ去っていく。父が死ぬ。青年は叔父の妻を慕う。娘はいとこである青年に恋する。叔父の妻は娘を連れて村を去り、青年も祖母とともに家を去る準備をする。そんな一家を、昔も今も変わらず、山は見つめている。

 最初観た時は、その他大勢の普通の映画とあまりに感触が違うのでびっくりした。まず説明が極端にそぎ落とされている。一家はおばあさん、女性、中年の男、少女、少年で構成されているが、彼らの関係がまず分からない。一体誰と誰が親子なんだ。10年後に移り、少女と少年が成長して女子高生と20代らしき青年になっている。最初はこの二人が女性と中年男性の子供だろうと思ったが、青年は女性を「ねえちゃん」と呼んでるし、しかも「ねえちゃん」を好きらしい。親子じゃないようだ。女子高生みちるは青年に恋している。兄妹じゃまずいだろう。じゃ青年は中年男性の弟かと思ってもみたが、あまりに歳が離れすぎだ。青年がまだ小学生ぐらいの時、男はすでにおっさんである。分からない。ミステリアスな家族だ。しかしこのつかみどころのなさゆえに、見終わってみると話に普遍性、神話性が感じられる。いろんな肉親関係のパターンがすべて網羅された原型的家族に思えてくるのである。しかもその家族の中で恋愛や嫉妬劇が繰り広げられる。どうしようもなく近親相姦的ムードが漂う。近親相姦も神話や旧約聖書的世界に頻出するモチーフである。

 次に、登場人物が何言ってるか良く分からない。素人さんも使っているらしいが、中年男性を演じる國村隼も同じような演技なので、これは監督の意図だろう。ボソボソっと喋り、言葉は断片的、中途半端。観ているこっちには話が分からない。しかし実際に他人の家族を覗いているような奇妙なリアルさを感じる。考えてみると家族同士の会話なんて他人が聞いて全部理解できるわけはなく、そういう意味では会話を聞いて前後関係がすべて分かってしまう普通の映画の説明的なセリフの方が異常なのである。そしてそういうセリフを流暢に、ロジカルに、繰り返したり言葉がつっかえることもなく、ハキハキ喋る役者の演技も不自然なのである。この映画を観るとそれがよく分かる。ブレッソン監督は「映画は撮影された演劇ではない」と言っているが、この映画はまさに非演劇的映画そのものである。

 会話の意味が分からなければ困ると思うだろうが、この映画に限ってはあまり困らない。何がどうなってこうなった、みたいなロジカルな映画ではない。意味はよく分からないが心に焼きつくような心象光景の連なり、それがこの映画なのである。だからハリウッド映画的なものを求める人には向かない。ビクトル・エリセの映画や是枝監督の『幻の光』みたいな映画が好きな人向きである。ただし淡々とした静謐な映画だが、その中に死、愛、嫉妬、別離、など強烈なドラマを内包している。過疎のためにだんだん消滅していく村やむせ返る緑、そして消えるように死んでいく肉親など、まるでラテンアメリカ文学のような神話性を感じる。 

 脳裏に焼きつく映像。日傘を差してゆっくり歩く白い服の女性の後ろ姿、夜の森の中で向き合うみちると栄介、雨の中を駆けていく泰代と追いかける栄介、縁側から見える山、打ち捨てられたトンネル、木登りして遊ぶ子供たち。脳裏に焼きつく音。風鈴、セミの声。

 特に、夜、森の中にみちるがいて、そこに栄介がやってくるシーンの濃密さはすごい。セリフはまったくない。二人がただ無言で向き合い、息遣いが聞こえるだけ。やがてみちるが栄介の腕をつかみ、泣く。キスすらないシーンであるにもかかわらず、この濃密な官能性は何だろう。ものすごいドキドキする。ここまで雄弁な沈黙をフィルムに焼き付けることができる映像作家は、特に最近ではあまりいないんじゃないか。

 兄妹のように無邪気に育った二人がいつか愛に苦しむようになり、そして離れていく。本編が終わった後に流れる過去の、つまり無垢な時代のビデオ映像が胸を締め付ける。こういう浪漫主義的な部分も豊富に持ちつつ、映画は常に登場人物達を突き放している。哀しみと、神の視点のような残酷さが同居している。そこがすごい。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿