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一日一句(289)






なにごとも裏目に出たる海鼠かな





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Cioranを読む(86)


■旧暦12月19日、木曜日、

(写真)無題

年賀状には、いつも俳句を3句書くのだが、今年は、新年らしい句は書けなかった。その中の一つに、解酲子こと、倉田良成さんが、脇を付けてくれたので、ご紹介したい。


山川やことに今年の除夜の鐘   冬月

  黙深くとも春はあけぼの   解酲子


倉田さんは、ぼくの詩集『耳の眠り』に、本格的な批評を書いてくれた詩人でもある。この批評は、辛口だったが、今後の方向性を考える上で、参考になった。



春らしい漢詩でも読みましょう。


胡隠君を尋ぬ  高啓

    水を渡り 復た水を渡り
    花を看 還た花を看る
    春風 江上の路
    覚えず 君が家に到る

  水を渡り、また水を渡り
  花をながめ、さらに花を眺め
  春風に吹かれつつ河沿いの路を行ったら
  いつのまにかあなたのお宅に着いていました

               (松枝茂夫「中国名詩選」)

高啓(1336~1374)字は季迪(きてき)、号は青邱子。長洲(今の蘇州市)のひと。
洪武二年(1369)明の太祖の召しに応じて『元史』の編集に従事、才を認められて戸部右侍郎に抜擢されたが固辞して帰郷した。その後、詩を作って太祖の好色を批判したため、洪武七年、南京で腰斬の刑に処せられた。

■経歴を読むと驚く。命がけの反骨。詩人の原型を見るような気がする。この詩は、過酷な運命の中に咲いた花のように思える。享年39。



Nous sommes tous aisi: dès qu'il s'agit d'un principe général, nous nous mettons hors de cause et n'avons aucune gêne à nous ériger en exception. Si l'univers n'a pas de sens, y a-t-il quelqu'un qui échappe à la malediction de cette sentence? Tout le secret de la vie se réduit à ceci: elle n'a aucun sens, chacun de nous, poutant, lui en trouve. Le Crépuscule des pensées p.7 Livre de Poche (2001/03)

われわれはみな似たり寄ったりで、一般法則が話題になったときでも、自分とは関係がなく、いとも簡単に例外扱いできる。もし、宇宙に意味がないのだとしたら、この宣告の呪いを免れる者はいるのだろうか。生の秘密の一切は、生には何の意味もなく、一人一人が生に意味を見出しているにすぎない、というところにある。

■この断章は、そのとおりと思うが、自然界の一般法則が自分とは関係ないと思うのも、まったく理由がないわけではないだろう。自然界と人間界は、目的定立的な労働の有無によって隔てられているから。自然界の一般法則を人間社会に当てはめても、うまくいかない。そうすると、逆に、労働以外の「遊びの領域」は、無償・無目的・無意味といった点で、自然に近いとも言えるのではないか。子どもの世界も、「遊びの領域」に近く、そして、子どもの無垢は善よりむしろ悪に近い。

一年前に、シオランの「偶然と必然」について、こんな記事を書いている。ここから>>> 自然法則は、いわば、必然性を前提にする。人間の「意識」には、「偶然性」が含まれる。その点で、目的を立てる活動に対応している。今日は、居酒屋、明日は、蕎麦屋で飲むのは気分次第である。その偶然性の根源には、生誕の偶然性があるのかもしれない。







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一日一句(288)






この猫は毎日日向ぼこの貌





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Cioranを読む(85)


■旧暦12月17日、火曜日、

(写真)無題

なぜか、最近、アメリカン珈琲党になってきた。旨いアメリカンはなかなかないが、当たると、嬉しい。床屋へ行ったら、寝ている間に、短く刈り込まれていた。坊主頭に近い。帰ってきたら、家人らの笑いを誘ったのだった。



「いひおほせて何かある」(去来抄25段)

下臥につかみ分ばやいとざくら

先師路上にて語り曰く、「この頃、其角が集にこの句あり。いかに思ひてか入集しけん」。去來曰く「糸桜の十分に咲たる形容、よくいひおほせたるに侍らずや」。先師曰く「いひおほせて何かある」。ここにおいて胆に銘ずる事あり。初て発句になるべき事と、なるまじき事を知れり。

※有名な「去来抄」の「「いひおほせて何かある」の段。一般には、発句の余情、余韻、含意、真情の重要性を説いたものとして受け取られている。この芭蕉の評を引きだした巴風の句を見てみると、枝垂れ桜の下に仰向けに寝て、その花の枝をつかみ分けてみたいものだ、という願望を表している。願望は、言いかえれば、目的とも言える。自分の外部に存在する客体への働きかけの意識である。この句は、美、あるいは風流を詠んだものだが、その行為の起源には「労働」がある。それは、目的定立、主体・客体という形で、素のままに現れている。言ってみれば、この句は、発句ではなく、散文である。

芭蕉の評「いひおほせて何かある」は、発句の条件を述べたものだが、同時に、韻文というものの、非労働性を示している。その起源は、労働ではないことが、示唆されている。恐らく、祈りや呪術などの宗教的なものだろう。「いひおほす」ことをめざすのが、説明であり、科学であり、法則定立である。近代と言ってもいい。芭蕉の価値観は、「いひおほせて何かある」である。ここには、近代によって、見えなくなってしまった存在がある。俳句や詩は、ときに、そんな存在に、稲妻のように触れることがあるのではなかろうか。



Dies que l'univers n'a aucun sens, vous ne fâcherez personne - mais affirmez la même chose d'un individu, il ne manquera pas de protester, et ira jusqu'a prendre des mesures contre vous. Le Crépuscule des pensées p.7 Livre de Poche (2001/03)

宇宙には意味がないと言ったところで、だれも腹を立てない。だが、同じことを個人について言ったら、ぜったいに抗議される。対抗措置さえ取られるだろう。

■実に面白い断章。この後にもっと面白い断章が続くのだが、それは、この次に。いろいろ考えさせられるが、一つ重要なテーマは、人間(あるいは社会)と自然の根本的な違いは何か、という問題だろう。上の芭蕉の話とも関連するが、人間は、目的を立ててそれを実現する活動を行う。それが労働行為であり、これは目的‐手段の連鎖という形を取る(この連鎖は、目的と手段が、ときに、転倒することも含む)。そこから、意識や言語、技術や科学は生まれ、因果律原理や時間も発生している。自然には、この活動はない。人間が人生に意味を求めるのは、まさに、この労働活動が起源になっている。

ところで、人間は、意味だけで生きているわけではない。つまり、目的だけで生きているわけではない。遊びや笑い、趣味や美、風流、趣や味わいなどでも生きている。こうした、目的‐手段、あるいは因果律から外れた領域に、上で述べた俳句や詩などの韻文は対応している。そこに流れる時間は、単線的ではないし、原因から結果を生むわけでもない。

自然科学が、個別科学となって専門分化していくプロセスは、自然の秩序づけでもあるわけだが、その秩序の変遷は、「人間的」なものかもしれない。



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一日一句(287)






刈り込まれ坊主頭や初えびす





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Cioranを読む(84)


■旧暦12月16日、月曜日、

(写真)無題

新型食洗機の電力消費量が大きく、夜間、エアコンをかけながら、ドライヤーや電子レンジを使用すると、すぐにブレーカーが落ちてしまう。ひどいときには、一晩で5回落ちた。これでは、仕事にならない。ネットにも繋がらない。プリンターは、壊れてしまった。パソコンは、フリーズの頻度が急激に上がった。根本的な工事が必要だが、古い集合住宅なので、配線がめちゃくちゃである。総アンペアを上げても意味がない(もっとも、世界最大級の悪徳殺人企業の一つ、東京電力の利潤を増やす気はまったくない。エネットなどのPPsも考慮に入れている)。配線の合理的な分岐から始めないとしょうがないのだが、業者に頼むまでの間、だれも使っていない叔母の住居で仕事をすることにした。そんなわけで、今日は、叔母の自宅の掃除に専念したのであった。

12月以来、セシウムの降下量が増えている。注意されたい。ここから>>> ぼくの住む集合住宅は、先日、管理組合で測定したところ、芝生や側溝で0.3~0.4μSv/h、東の千葉大側斜面で0.5μSv/hとかなり高い。普段でも空間線量が高いのだから、内部被曝には留意しないと、と思っている。



Mes livres, mon œuvre... Le côté grotesque de ces possessifs.
Tout s'est gâté dès que la littérature a cessé d'être anonyme. La décadence remonte au premier auteur.
   Cioran Aveux et Anathèmes p.104 Gallimard 1987

わたしの本、わたしの作品... こうした所有詞のグロテスクな側面。文学が匿名性を捨ててから、すべてが堕落した。退廃の起源は最初の作者である。

■いろいろ考えさせる断章。個人が一人で、あるいは一つの企業や一族が、なにかを排他的に所有する形態は、そう古いものではないだろう。近代以降だろう。所有形態には、段階があって、複数の個人や家族が、土地や漁場などを所有する共同所有が、むしろ普通だったはずである。だれでも開かれた、という意味での共同所有は、個人所有と同時に出てきた概念ではなかろうか。

フランス語などの所有詞の成立も跡づけて行けば、近代という時代に至って、組織化されてきたことがはっきりするのではないだろうか。もともと、ヨーロッパの諸言語の成立は聖書の地域語への翻訳と関連が深い。

世界の1%の世帯が世界の富の約4割を「個人所有」しているという現実は、異常である。ここから>>> この現実は、よく考えてみる必要があろうと思う。この1%の世帯は、資本主義の「危機」などまったく関係がないのである。

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Cioranを読む(83)


■旧暦12月8日、日曜日、

(写真)青

朝、雑煮を作る。塩の塩梅を忘れて、足りなかった。出汁はいけていたのだが。食事中に大きな地震があった。元日から地震とは。昼間は、酒を飲んでただ、ぼんやり過ごす。夕方、年賀状を出しに行く。ついでに、珈琲店に立ち寄って、アメリカンを飲む。多少酔いが覚めた。仕事をもっていったが、まったくやる気にならない。ただ、店の中の人々を観ていた。



L'homme va disparaître, c'était jusqu'à présent ma ferme conviction. Entre-temps j'ai changé d'avis: il doit disparaître. Cioran Aveux et Anathèmes p.117 Gallimard 1987

人間は絶滅しかかっている。これが、今日までのわたしの固い信念だった。だが、今、考えを変えた。絶滅すべきである。

■清めの水。元日にふさわしい断章。怒り出す人もいるかもしれないが、ぼくは、いたって真面目である。いや、滅びればいいと言っているのではなく、われわれは、こういう冷水をたまには頭から浴びるべきではないだろうか。文明は思い上がることで成り立っているのだから。



Sound and Vision
















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