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Cioranを読む(90)


■旧暦12月27日、金曜日、

(写真)無題

The Inky Foolというブログが、ある試みをしている。グーグルを利用して、ブログで引用された詩句のベスト50をカウントしているのである。引用詩句のベスト50、引用詩人のベスト50などが掲載されている。統計の取り方が今一つはっきりしないのだが、そして、英語圏の詩人に限定もされるのだが面白い。詩句の第一位は、「To err is human; to forgive, divine」 Alexander Pope。日本語にすると「間違うのが人間、許すのが神」といった感じか。アレクサンダー・ポープという詩人は、どこかで、かすかに聞いた、というくらいしか覚えがない。ほとんど知らない詩人だった。18世紀イギリスの詩人。引用詩人のベスト1は、やはり、シェイクスピア、2位が、ホープ、3位が、キーツとエリオットが並ぶ。

個人的には、33位、オーデンの「Stop all the clocks, cut off the telephone」や、35位、ディラン・トマスの「Do not go gentle into that good night」、5位、ロバート・フロストの「And miles to go before I sleep」などに惹かれる。ガーディアンの記者も言っているように、引用される詩句の条件は、簡潔なこと、というのがあるようだ。ベスト50を見ると、対句のように簡潔で含蓄のある詩句が好まれる印象がある。英語圏ならではの価値観も見えて興味深い。



La timidité est un mépris instinctif de la vie; le cynisme un mépris rationnel. L'attendrissement est le crépuscule de la lucidité, une dégradation de l'esprit au niveau du cœr. Cioran Le Crépuscule des pensées 1991 p.12

憶病は本能的な生の蔑視である。シニシズムは、合理的な蔑視である。同情は明晰さの黄昏である。つまり、心のレベルへ精神が堕落することである。

■この断章は、まだ、ニーチェの影響が感じられるが、やはり鋭いと思う。

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一日一句(292)






一筋の鉄切る音や冬ごもり





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Cioranを読む(89)


■旧暦12月25日、水曜日、、蕪村忌、土用入り、初観音

(写真)無題

東電から特定規模電気事業者PPs、とくエネットへの切り替えの提案書を集合住宅の管理組合に提出。6000ボルトの高圧電流に対応している建物なら、どこでも変更できる。現在、中央官庁、城南信用金庫、学校、工場などで変更が進んでいる。



Tout ce qui ne s'oublie pas use notre substance; le remords est l'antipode de l'oubli...
Plus vous montrez d'indifférence au mal, plus vous approchez du remords essentiel. Celui-ci est parfois troube, équivoque: c'est alors que vous portez le poids de l'absence du Bien.
Cioran Le Crépuscule des pensées p. 8 Le Livre de Poche 1991

忘れがたいことはみな、われわれの本質を損なう。後悔が忘却の対極にある。...悪に無関心になるほど、本当の後悔に近づいて行く。後悔は、ときに、あいまいで、ときに名状しがたい。善の不在の重荷を担うのはこのときである。

■後悔は、過去を思い出すことであり、忘却は、過去を忘れて、あるいは、未来も忘れて、現在だけに生きることだろう。古代ヘブライのように、歴史のない社会を想像してみたくなる。そこには、悪はなく善だけがあるのだろうか。




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蕪村の俳句(109)


■12月24日、火曜日、、阪神淡路大震災忌

(写真)路地

ハイゼンベルクの不確定性原理の欠陥が実証された、というニュースを昨日から読んでいる。ここから>>> ハイゼンベルクの不確定性原理の式に30年も異を唱え、今回実験で実証された「小澤の不等式」を修正式として提唱してきた小澤教授には敬意の念を抱きますね。小澤教授は数学者。



春雨にぬれつゝ屋根の毬哉     明和六年

■詩的な情景に惹かれる。明るくもけだるい春の雨と屋根に忘れられた毬の取合せは、詩の一行のよう。



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Cioranを読む(88)


■旧暦12月23日、月曜日、、藪入

(写真)冬の月

終日、仕事。午後、買い物など。




Diogène, dit-on, aurait été faux-monnayeur.---Qui ne croit pas en la vérité absolue a droit de tout falsifier.
Né aprés Jésus Christ, Diogène eût été un sait. Où pourvoient mener notre admiration pour les Cynique et deux mille ans de christianisime? A un Diogéne tendre.
Platon a nommé Diogéne <un Socrate fou>. Difficile de sauver Socrate.
Cioran Le Crépuscule des pensées pp. 7-8 Le Livre de Poche 1991

ディオゲネスは贋金つくりだったと言われている。絶対的真理を信じない者には、あらゆるものを偽造する権利がある。
キリストの後に生まれていれば、ディオゲネスは聖人になっていただろう。われわれがキニク派を賛美し、2000年に及ぶキリスト教を振り返るとき、いったいどこへ導かれてゆくか。心やさしきディオゲネスへ、である。
プラトンは、ディオゲネスを「狂ったソクラテス」と呼んだ。ソクラテスを救い出すのは、難しいのである。


ディオゲネスという人物は、非常に面白い。さすがは、シオラン、いい人に目をつける。プラトンやアリストテレスの同時代人ながら、その思想や生き方は、彼らとは正反対。日本の俳諧師に近い。目的定立的な行為に労働の特色を観たアリストテレスやヘーゲル、マルクス、ハルトマン、ルカーチといった系譜とは別に、そこから零れてしまう領域に立った初めての人かもしれない。無償・無目的・無意味を肯定的に捉えた初めての人ではなかろうか。元祖遊び人、元祖ホームレス、元祖風狂人。ディオゲネスの系譜は、いろいろな変奏を経て現代まで脈々と続いている。アリストテレスの系譜はとても偉大な系譜だと思うが、ディオゲネスの系譜に、なんだか、とても愛着を覚えるのは、ぼくだけだろうか。





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一日一句(291)






鉄を切る音を近くに冬ごもり





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蕪村の俳句(108)


■旧暦12月22日、日曜日、、小正月、左義長

(写真)無題

正月は、現実逃避にコミックばかり読んでいた。とくに、諸星大二郎先生の西遊妖猿伝は面白く、一気に、三巻読む。写真に載せているのは、「西域篇」で、ここに至る物語「大唐篇」が10巻ある。この物語は、西遊記をベースにしているが、西遊記と言えば、玄奘に孫悟空、八戒、沙悟浄が西域を天竺まで冒険する物語だが、諸星西遊記は、唐を出発するまでの顛末が「大唐篇」で描かれている。とても面白そうだ。原典も読みたくなる。



子を寝かせ出行闇やはちたヽき   明和五年

■鉢叩き。ここから>>> 上・中の措辞の深さに惹かれる。「子を寝かせ」がとくに効いている。この鉢叩きは若い女性なのだろう。出てゆく闇はどんな闇なのだろうか。






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蕪村の俳句(107)



(写真)無題(この店、安くて旨かった)

終日、風邪で調子悪し。歯医者へ行ったら、歯ブラシの持ち方を点検された。現状の持ち方では、強く磨きすぎて、歯が削れているという。そこから、虫歯になる可能性があるので、ペンを持つように持って磨くと力加減はちょうどいいと言う。なるほど、自分は、馬鹿力で磨くので、家族の中でも一番、歯ブラシの交換頻度が高い。ペンを持つように持って磨いてみたが、横よりも縦方向の磨き方に適しているようだ。確かに、力加減はソフトになる。



大鼾そしれば動く生海鼠かな   明和五年

■この句は、一読笑えるのだが、今まで、海鼠を擬人化した句だと思っていた。どうも、解説を読むと、その反対で、海鼠のようにごろりと太った男の比喩だという。そう言えば、自分自身を海鼠に見立てることはよくある。この比喩は、当時、一般的だったのか、蕪村独自のものかはわからないが、とても面白い。「おい、海鼠野郎!」と、使ってみたい悪態の言葉が一つ増えたw。



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一日一句(290)






天井のしみと遊べる蒲団かな





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Cioranを読む(87)


■旧暦12月21日、土曜日、、四天王寺どやどや

(写真)ある風景

四天王寺どやどや、という祭はよくわからない。日本三大奇祭の一つらしい。よくわからないものほど、興味をひかれる。ここから>>>

今日は、午前・午後と病院。数年ぶりに風邪を引いてしまった。ブレーカーがよく落ちるので、エアコンを切っていたことが、原因だろうと思う。



La solitude na'apprend pas à être seul, mais le seul.
Le Crépuscule des pensées p.7 Livre de Poche (2001/03)

孤独は、一人になることではない、唯一者になることだ。

■孤独は、集団から離れて物理的に一人になるのではなく、唯一者になることだという、この断章は、非常にキリスト教的だと思う。le seul(唯一者)という表現は、唯一神へとつながっている。集団を離れるのではなく、集団を超越することを意味している。実際には、こういうことはあり得ない。唯一者、唯一神、絶対者という観念は、人間の相互関係、社会関係を不可視化することで成り立つからだ。社会と無関係な孤独などありえない。隠者にも生活はあるのだから。ただ、超越者という存在が生成されていくプロセスには、人間の実存的な孤独が作用していたらしいことは、読み取れるのではなかろうか。実存主義は、形を変えた神学とも言えるかもしれない。

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