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Cioranを読む(86)


■旧暦12月19日、木曜日、

(写真)無題

年賀状には、いつも俳句を3句書くのだが、今年は、新年らしい句は書けなかった。その中の一つに、解酲子こと、倉田良成さんが、脇を付けてくれたので、ご紹介したい。


山川やことに今年の除夜の鐘   冬月

  黙深くとも春はあけぼの   解酲子


倉田さんは、ぼくの詩集『耳の眠り』に、本格的な批評を書いてくれた詩人でもある。この批評は、辛口だったが、今後の方向性を考える上で、参考になった。



春らしい漢詩でも読みましょう。


胡隠君を尋ぬ  高啓

    水を渡り 復た水を渡り
    花を看 還た花を看る
    春風 江上の路
    覚えず 君が家に到る

  水を渡り、また水を渡り
  花をながめ、さらに花を眺め
  春風に吹かれつつ河沿いの路を行ったら
  いつのまにかあなたのお宅に着いていました

               (松枝茂夫「中国名詩選」)

高啓(1336~1374)字は季迪(きてき)、号は青邱子。長洲(今の蘇州市)のひと。
洪武二年(1369)明の太祖の召しに応じて『元史』の編集に従事、才を認められて戸部右侍郎に抜擢されたが固辞して帰郷した。その後、詩を作って太祖の好色を批判したため、洪武七年、南京で腰斬の刑に処せられた。

■経歴を読むと驚く。命がけの反骨。詩人の原型を見るような気がする。この詩は、過酷な運命の中に咲いた花のように思える。享年39。



Nous sommes tous aisi: dès qu'il s'agit d'un principe général, nous nous mettons hors de cause et n'avons aucune gêne à nous ériger en exception. Si l'univers n'a pas de sens, y a-t-il quelqu'un qui échappe à la malediction de cette sentence? Tout le secret de la vie se réduit à ceci: elle n'a aucun sens, chacun de nous, poutant, lui en trouve. Le Crépuscule des pensées p.7 Livre de Poche (2001/03)

われわれはみな似たり寄ったりで、一般法則が話題になったときでも、自分とは関係がなく、いとも簡単に例外扱いできる。もし、宇宙に意味がないのだとしたら、この宣告の呪いを免れる者はいるのだろうか。生の秘密の一切は、生には何の意味もなく、一人一人が生に意味を見出しているにすぎない、というところにある。

■この断章は、そのとおりと思うが、自然界の一般法則が自分とは関係ないと思うのも、まったく理由がないわけではないだろう。自然界と人間界は、目的定立的な労働の有無によって隔てられているから。自然界の一般法則を人間社会に当てはめても、うまくいかない。そうすると、逆に、労働以外の「遊びの領域」は、無償・無目的・無意味といった点で、自然に近いとも言えるのではないか。子どもの世界も、「遊びの領域」に近く、そして、子どもの無垢は善よりむしろ悪に近い。

一年前に、シオランの「偶然と必然」について、こんな記事を書いている。ここから>>> 自然法則は、いわば、必然性を前提にする。人間の「意識」には、「偶然性」が含まれる。その点で、目的を立てる活動に対応している。今日は、居酒屋、明日は、蕎麦屋で飲むのは気分次第である。その偶然性の根源には、生誕の偶然性があるのかもしれない。







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