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Cioranを読む(84)


■旧暦12月16日、月曜日、

(写真)無題

新型食洗機の電力消費量が大きく、夜間、エアコンをかけながら、ドライヤーや電子レンジを使用すると、すぐにブレーカーが落ちてしまう。ひどいときには、一晩で5回落ちた。これでは、仕事にならない。ネットにも繋がらない。プリンターは、壊れてしまった。パソコンは、フリーズの頻度が急激に上がった。根本的な工事が必要だが、古い集合住宅なので、配線がめちゃくちゃである。総アンペアを上げても意味がない(もっとも、世界最大級の悪徳殺人企業の一つ、東京電力の利潤を増やす気はまったくない。エネットなどのPPsも考慮に入れている)。配線の合理的な分岐から始めないとしょうがないのだが、業者に頼むまでの間、だれも使っていない叔母の住居で仕事をすることにした。そんなわけで、今日は、叔母の自宅の掃除に専念したのであった。

12月以来、セシウムの降下量が増えている。注意されたい。ここから>>> ぼくの住む集合住宅は、先日、管理組合で測定したところ、芝生や側溝で0.3~0.4μSv/h、東の千葉大側斜面で0.5μSv/hとかなり高い。普段でも空間線量が高いのだから、内部被曝には留意しないと、と思っている。



Mes livres, mon œuvre... Le côté grotesque de ces possessifs.
Tout s'est gâté dès que la littérature a cessé d'être anonyme. La décadence remonte au premier auteur.
   Cioran Aveux et Anathèmes p.104 Gallimard 1987

わたしの本、わたしの作品... こうした所有詞のグロテスクな側面。文学が匿名性を捨ててから、すべてが堕落した。退廃の起源は最初の作者である。

■いろいろ考えさせる断章。個人が一人で、あるいは一つの企業や一族が、なにかを排他的に所有する形態は、そう古いものではないだろう。近代以降だろう。所有形態には、段階があって、複数の個人や家族が、土地や漁場などを所有する共同所有が、むしろ普通だったはずである。だれでも開かれた、という意味での共同所有は、個人所有と同時に出てきた概念ではなかろうか。

フランス語などの所有詞の成立も跡づけて行けば、近代という時代に至って、組織化されてきたことがはっきりするのではないだろうか。もともと、ヨーロッパの諸言語の成立は聖書の地域語への翻訳と関連が深い。

世界の1%の世帯が世界の富の約4割を「個人所有」しているという現実は、異常である。ここから>>> この現実は、よく考えてみる必要があろうと思う。この1%の世帯は、資本主義の「危機」などまったく関係がないのである。

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