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Cioranを読む(85)


■旧暦12月17日、火曜日、

(写真)無題

なぜか、最近、アメリカン珈琲党になってきた。旨いアメリカンはなかなかないが、当たると、嬉しい。床屋へ行ったら、寝ている間に、短く刈り込まれていた。坊主頭に近い。帰ってきたら、家人らの笑いを誘ったのだった。



「いひおほせて何かある」(去来抄25段)

下臥につかみ分ばやいとざくら

先師路上にて語り曰く、「この頃、其角が集にこの句あり。いかに思ひてか入集しけん」。去來曰く「糸桜の十分に咲たる形容、よくいひおほせたるに侍らずや」。先師曰く「いひおほせて何かある」。ここにおいて胆に銘ずる事あり。初て発句になるべき事と、なるまじき事を知れり。

※有名な「去来抄」の「「いひおほせて何かある」の段。一般には、発句の余情、余韻、含意、真情の重要性を説いたものとして受け取られている。この芭蕉の評を引きだした巴風の句を見てみると、枝垂れ桜の下に仰向けに寝て、その花の枝をつかみ分けてみたいものだ、という願望を表している。願望は、言いかえれば、目的とも言える。自分の外部に存在する客体への働きかけの意識である。この句は、美、あるいは風流を詠んだものだが、その行為の起源には「労働」がある。それは、目的定立、主体・客体という形で、素のままに現れている。言ってみれば、この句は、発句ではなく、散文である。

芭蕉の評「いひおほせて何かある」は、発句の条件を述べたものだが、同時に、韻文というものの、非労働性を示している。その起源は、労働ではないことが、示唆されている。恐らく、祈りや呪術などの宗教的なものだろう。「いひおほす」ことをめざすのが、説明であり、科学であり、法則定立である。近代と言ってもいい。芭蕉の価値観は、「いひおほせて何かある」である。ここには、近代によって、見えなくなってしまった存在がある。俳句や詩は、ときに、そんな存在に、稲妻のように触れることがあるのではなかろうか。



Dies que l'univers n'a aucun sens, vous ne fâcherez personne - mais affirmez la même chose d'un individu, il ne manquera pas de protester, et ira jusqu'a prendre des mesures contre vous. Le Crépuscule des pensées p.7 Livre de Poche (2001/03)

宇宙には意味がないと言ったところで、だれも腹を立てない。だが、同じことを個人について言ったら、ぜったいに抗議される。対抗措置さえ取られるだろう。

■実に面白い断章。この後にもっと面白い断章が続くのだが、それは、この次に。いろいろ考えさせられるが、一つ重要なテーマは、人間(あるいは社会)と自然の根本的な違いは何か、という問題だろう。上の芭蕉の話とも関連するが、人間は、目的を立ててそれを実現する活動を行う。それが労働行為であり、これは目的‐手段の連鎖という形を取る(この連鎖は、目的と手段が、ときに、転倒することも含む)。そこから、意識や言語、技術や科学は生まれ、因果律原理や時間も発生している。自然には、この活動はない。人間が人生に意味を求めるのは、まさに、この労働活動が起源になっている。

ところで、人間は、意味だけで生きているわけではない。つまり、目的だけで生きているわけではない。遊びや笑い、趣味や美、風流、趣や味わいなどでも生きている。こうした、目的‐手段、あるいは因果律から外れた領域に、上で述べた俳句や詩などの韻文は対応している。そこに流れる時間は、単線的ではないし、原因から結果を生むわけでもない。

自然科学が、個別科学となって専門分化していくプロセスは、自然の秩序づけでもあるわけだが、その秩序の変遷は、「人間的」なものかもしれない。



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一日一句(287)






刈り込まれ坊主頭や初えびす





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