verse, prose, and translation
Delfini Workshop
Cioranを読む(77)
■旧暦11月19日、火曜日、、一茶忌、煤払い
(写真)柿の木の夕
BOOK OFFで買った町田康の『へらへらぼっちゃん』を読んでいる。えらい、気が楽になるのは、ダメぶりでは自分も同類だからだろうか。それでも思うんだが、文学者が書く無頼系エッセイは、最後の最後のところで、吹っ切れていないような気がする。町田康だと、頭がいいのが、少し見えてしまう。頭が悪ければ、こんな文章、元より書けないのだろうが。これに似たエッセイに、三鬼の『神戸・続神戸・俳愚伝』がある。これも面白かった。三鬼の場合は、頭の良さよりも「要領がいいな」という感想が湧いてくるw。生き延びるには、なにかしら、特技がないといけんのだろうね。知人と目があって、その瞬間「プーッ」と吹き出されたりすると、オレもいい線行ってるな、と思えるこの頃なのである。
☆
Tout se dégrade depuis toujours. Ce diagnostic une fois bien établi, on peut débiter n'i,porte quelle outrance, on y est même obligé. Cioran Aveux et Anathèmes p.130 Gallimard 1987
はるか昔からすべては堕落している。この診断をいったん下してしまえば、あとはもうどんなに極端なことを言ってもいい。いやむしろ、義務でさえある。
■先日、新聞を読んでいたら、何らかの思想に偏らないで事実を実証的に積み上げている、ということを記者が述べていて、びっくりした。実証主義は、立派な19世紀の思想である。十分、思想的に偏っている。主観客観図式は常識と親和性が高いので、それが「科学的」で「中立」だと思うのだろう。言いかえれば、だれにとっても役に立つ知識に見えるのだろう。実証主義的アプローチが成果を上げることもあるが、こればかりを強調すると、そこで使われているカテゴリーが、だれを代弁しているのか、見えなくさせる。さらに、大胆で革命的な理論の登場を阻むことにもなるのではなかろうか。シオランの言葉は、実証主義的な小心さの対極にあると思う。
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Cioranを読む(76)
■旧暦11月18日、月曜日、
(写真)無題
マエストロ(Valery Afanassiev)が、新しい詩を数編送ってくれたので、返事を書く。今までよりも、言葉の運動の傾向が強く、詩の中に沈黙を呼び込んでいない。その分、詩のはじめと終りの静寂が深くなったように感じる。言葉が言葉を呼び、詩句が詩句を呼び込む。思想的な一貫性は、以前から、変わらない。英語のリズムは読むだけで心地いいので、いくつか紹介したい。
You say, they say; so do I.
Heaven isn’t down yet. It is up,
Sideways.
So many gods hang
In our wardrobes.
You choose one god,
Two women. They’re on
Your floor.
So many floors. All of them are
Full of gods and goddesses.
An empty floor; an empty god.
Wait, wait. I can’t wait. I wait.
You come, you don’t. Let us listen
To you, to your brothers and
Sisters; and uncles. I listen; I hear only
One note. She is right.
You, you, you. Thou. I’m weary of thous.
There are only ‘ous’. I’ll utter
Their word. Do they have one? Everyone has
A word. This is the word. This is
My word, your word. This is, is, is. I
Can utter it, show it. I am it.
Am.
☆
女性対象(とくに高齢者)のカーブスというフィットネスクラブがある。もともとは、米国資本らしいが、盛んに、新規会員を募集して、全国展開している。だが、その商売の仕方は、新興宗教並みにえげつないので、書いておく。まず、会員になって、しばらくすると、新規会員を勧誘するように指導される(顧客を、社員のように扱い、新規勧誘を強い、事後報告までさせる。こういう神経が、そもそも、理解できない。トレーナーは「コーチ」だそうである)。フィットネス中は、不自然なほど、フレンドリーにコミュニケーションを図り、個人情報を根掘り葉掘り収集する。カーブスと会員の感情的なパイプを太くした段階で、プロテインなどの自社製品を強引に売りこんでくる(感情的につながっているので、断りにくくなる)。断ると、露骨に、感情的な反応を示して、他の会員との差別化を図り、行動をコントロールしようとする。この感情ビジネスのいかがわしさに、気がづいた会員は辞めるが、常に、新規会員の補充を行い、身心ともに洗脳された会員の数を増やしていく。会員は、一人の人格を持った人間ではなく、金になるかどうかで選別している。アメリカンビジネスの典型のような価値観だが、日本文化のどこを突けば金になるか、よく研究している。高齢者になるほど、判断力、意志力は弱くなる。まして、都会の一人暮らしの老婦人は、一も二もなくやられてしまうだろう。こういうことを22、3のトレーナーの女の子たちが、良かれと思いこんで、やっているのである。なんだか何重にも物悲しいではないか...。今後、TPPでこういう現象が増えるのではないかと危惧される。
☆
Tou ce qu'on peut classer est périssable. Ne dure que ce qui est susceptible de plusieurs interprétations. Cioran Aveux et Anathèmes p.129 Gallimard 1987
分類できるものはすべからく滅びる。生き残るのは、何通りもの解釈ができるものだけである。
■分類できないものが生き残る、という見方は非常に面白い。自然界全体を見るとそうなのかもしれない。人間は、分類できるものになろうと必死である。社会的なアイデンティティが、経済を保証するからだ。その経済が崩壊しかけている。分類できるものは生き残れるのであろうか。
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Cioranを読む(75)
■旧暦11月17日、日曜日、
(写真)街の花束
諸星大二郎先生の『諸星大二郎』(河出書房)を読みながら、朝寝してしまった。幸福なひととき。午後、買い物。目当ての青梗菜が売り切れていた。つまらないので、BOOK OFFで町田康の文庫を二冊購う。半額セールで〆て275円。
☆
f/bで交流させていただいている詩人の渡辺洋さんから詩集『向日 歌う言葉』(書肆山田)をいただいた。読後、とても、いい気分になった。いい詩集は、いつもそうだが、説明するだけ野暮だし、批評の言葉を軽やかに超えている。渡辺さんの詩を読んでいて、語り口や言葉の肌触りは、まったく違うけれど、マルクスの『経哲草稿』をしきりに思い出していた。渡辺さんの詩の中に、「どうして歌うように働けなくなったのか」というフレーズがある。ぼくは、ここに現代の問題すべてが集約されていると思うのである。
心を抱えきれずに
誰かにあずけたくなる日
趣味のないぼくは
ここにはいない人たちに話しかけながら
川の街を歩きまわる
(ぼくたちはどうしてはなればなれになったのか
ぼくたちの思い出す力が押しながされている
思い出すことをわすれつづけるために
劇場のような街を充たす歌に身をまかせる
怒り出す直前のような笑顔で
(はなればなれになったぼくたち一人ひとりの集合!
どうして歌がぼくたちを結びつけなくなったのか
どうしてぼくたちは歌いながら
わすれることしかできなくなったのか
どうして歌うように働けなくなったのか
(ぼくが間違っているならそっと教えてほしい
(これから歌い始める人たちは何を歌うのだろう
ベンチで思い出しかけた歌をさがしながら
ひとりごとになってしまう心は川に流して
いつかきみと語りたい言葉を拾い集める
それはきっと道の花のように
小さな声の歌
「花」全行
十七歳のカオルに教えてあげられることはもうない
彼女は自分の生き方を生きていくだろう
でもぼくは生きるスピードでは追い抜かれながら
探しているものがまだたくさんあるから
カオル きみよりも若いんじゃないかと思っている
たとえば ぼくたちを見張るサーチライトが
見落とす隙がなくなっていく世界で
ぼくがぼくを思い出していける場所
思い出話で終わらない
そこからまた何かが始まる旧友との再会
ぼくを呼んでいるとしか思えない本や歌と出会って
一人ではなかったと思えること
きみがこれからを生きていく時代に
世間知らずの父がどう変わっていくのか
きみにヒントをもらえるかもしれない
「世間知らず」全行
きみの軽蔑を変えられるとは思わない
ぼくの弱さをきみの日々の苦しさが見抜いたんだろう
もう本はいらないと言っていた
きみへのプレゼントをさがすように
ぼくはきみが好きだという本を
書き続けるだけさ
遠ざかっていくぼくたち
それぞれにつめたさを抱えた磁石のように
振り返ってくれなくていい
ぼくはさびしさできみを追い抜いていく
このさびしさをくぐり抜けるために
どうもありがとう
きみが教えてくれる
これ以上一人になれないと思うときも
ぼくは歌うだけで生きることができる
ぼくは帰ってきた
「向日 10(贈りものについて)」部分
言葉のテクノロジーだけで書くからっぽの詩人が多い今、われわれの時代に本当に必要な詩人かもしれない。長く書きついでほしい詩人の一人である。強く一読を勧めたい。
☆
Ce que je sais démolit ce que je veux. Cioran Aveux et Anathèmes p.137 Gallimard 1987
わたしの知っていることが、わたしのしたいことを解体する。
■よくわかる断章。インプットが多すぎると、いったい、自分は何をしたかったのか、わからなくなる。漂流する。そうすると、自分の輪郭さえ、あいまいになってくる。くっきりしたものが何もない現代、苦痛以外には。
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L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(21)
■11月15日、金曜日、、漱石忌
(写真)12月の光
今日は、非常に冷える。東京は、朝、雪になったようだ。俳句関係を除くと、ここで検討したことは、期せずして、毎年秋に行っているTJ大学でのレクチャーの準備になっている。およそ一年かけて、3時間のレクチャーの準備をしていることになるが、じっくり探求するのが好きな自分には、このペースは向いている。
☆
火山学者の群馬大教授、早川由紀夫さんが学長から訓告を受けた。ここから>>> 早川教授のtwitterでの表現は、過激かもしれないが、なぜ、福島の農家がセシウム米やセシウム牛を生産しなければならないのか、考えさせる。一人の教授の言葉の表面的な部分を問題にする前に、原子力研究を推進してきた大学自身の行動を自己批判した方がいいのではないか。こうした悲劇の農家を作ってしまったことに責任がないとは言えないだろう。この写真〉〉〉
以下の映像は、早川教授の訓告会見に学部長が中止申し入れを行った映像だが、ここで、注目されるのは、企業と大学は、建物管理の点で、同じだとしている点で、大学と利潤追求機関が、同じものとして捉えられている。それは、学部長が建物使用許可を与えない理由にも明白に出ていて、建物の使用目的に沿わないから、という。空間に何らかの目的を設定し、それ以外を頑なに排除しようという思想は、聖なる領域や宗教施設を除けば近代以降に出現したものだろう。この学部長が信奉しているのは、教条的な目的合理的行為である。目的合理的行為とは労働行為のことであり、それは資本制社会では利潤追求行為と関わっている。研究教育を目的にしたはずの行為が、逆説的に、大学としての原子力研究推進につながるのは、こうした構造的な理由があるのだと思う。
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友人の俳人、萬燈ゆきさんから句集『玉虫』をいただいたので、何句か紹介したい。萬燈さんとぼくは、2003年に古志入会。その後、2009年にぼくは退会しているが、彼女は、現在、埼玉支部長として、後進の指導に当たっている。
一切はなかりしごとく山眠る
3.11以前に書かれた俳句だが、今読むと、迫って来るものがある。
その中に蝶の骸も落葉焚
どきっとさせるものを含んでいる。生命の循環の非情さ感じるだけでなく、蝶の骸という捉え方に、一つの美学を感じた。
いく日か愛でて冬瓜庖丁す
この気分はよくわかる。冬瓜は、どこか愛嬌があると思う。
存外にはかなき味や鮫の肉
鮫は冬の季語。獰猛な鮫の肉の味を詠んで「はかなき」は、無常観にも通じるだろうか。その鮫を食らう我ら。
松原のどこを行かうと秋の径
松だけを見れは、常に青く四季はないが、松原を含む全体に目を転じれば、秋が立ちこめている。松にも秋はやってくる。それを捉えた句。
自づから裂けし柘榴を畏れけり
あの柘榴の裂け方は、怖い。しかも、自ら裂けたのである。この気分、言われてみるとよくわかる。萬燈さんの句は、どれも季節感をやわらかく掬い取っている。俳句の俳句たる本質を追究しながら、なお、新鮮さを失わない。
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前古志主宰の長谷川櫂先生が、ブログを始められたようだ。楽しみが一つ増えた。ここから>>>
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24. (...)Der Beweis ist unser Vorbild eines bestimmten Ergebens, welches als Vergleichsobjekt(Maßstab) für wirkliche Veränderungen dient.(...) Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik pp. 161 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984
証明とは、一定の結果を導き出す上での範例である。それは、実際の諸変化に対する比較対象(基準)になる。
■これを読んだとき、Max Weberの理念型とよく似ていると思った。Weberは新カント派の影響圏にいるから、主客二元論を前提にしているが、Wittgensteinは、その図式に疑問を持っている。その点から、証明を扱うのだが、証明が証明としてどう使用されるのか、について、この個所は語られているのだろう。
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L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(20)
■旧暦11月13日、水曜日、、大雪
(写真)落葉
もう12月も初旬を過ぎようとしているが、一向に、今年を振り返る気になれない。3.11以降、振り返るスパンがもっと長くなったような気がするのである。たとえば、戦後の高度経済成長や明治維新まで振り返るような気分に。
魯迅の「非攻」(『酒楼にて/非攻』所収)を読む。魯迅にも、墨子にも興味があるので、魯迅が墨子を描いた短編なので、とても面白かった。墨子については、数年前に初めて知って、仰天した(以前の記事 ここから>>>)。翻訳は、「よくわかる税の仕組み」や「健康志向」といった表現が出て来て、そこだけ、唐突に消費社会の影響を感じるが、魯迅学者だけあって、解説が充実している。
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22. (...)Der Bewies muß natürlich vorbildlich sein.(...)
23. (...)Wenn ich 200 Äpfel und 200 Äpfel zusammenschütte und zähle, und es kommt 400 heraus, so ist das kein Beweis für 200 + 200 = 400. Das heißt, wir würden dieses Faktum nicht als Paradigma zur Berteilung aller ähnlicher Situationen verwenden wollen.(...)
24. Das ist das Vorbild der Addition von 200 und 200 - nicht: Das ist das Vorbild davon, daß 200 und 200 addiert 400 ergeben. Der Vorgang des Addierens ergab allerdings 400, aber dies Resultat nehmen wir nun zum Kriterium der richtigen Addition - oder einfach: der Addition - dieser Zahlen.
Der Bewies muß unser Vorbild, unser Bild, davon sein, wie diese Operationen ein Ergebnis haben.(...)
Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik pp. 159-161 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984
22. 証明は、当然、範例でなければならない。
23. わたしが、200個のリンゴと200個のリンゴを混ぜて、数えたら、400個になった。しかし、これは、200+200=400の証明にはならない。つまり、われわれは、この事実を、類似の状況すべてを判断するときの模範にする気にはならない。
24. これは、200+200の加法の範例であり、200に200を加えると400になる、ということの範例ではない。確かに、この加法手続きは、400という結果になったが、この結果は、この二つの数の正しい加法―あるいは単に加法―の基準だと考えるのである。
証明とは、こうした操作が、ある結果をどのように導き出すかに関する範例であり、図でなければならない。
■証明の条件として、それが、類似状況を判断するときの範例になることを挙げている点が注目される。具体的な一回限りの事象を判断する命題は証明ではない、ということになる。ここに、証明の普遍性、一般性が、述べられている。面白いのは、証明はBild(図であり画像である)だと言っている点で、一目で見渡せる、という条件が挙げられている。証明は、われわれに鳥の目を与える。では、虫の目はどうだろうか。あっちこっちの路地の壁にぶつかりながら歩く。唐突だが、これがエッセイの思考だと思える。
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L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(19)
■旧暦11月10日、日曜日、
(写真)舗道へ落葉して
よく寝た。昨日書いた手紙を数通投函、買物など。ヨーカ堂に自動レジが登場。試してみる。買った品物をスキャンの左の台に置かないと、次の商品がスキャンできない仕組みになっている。バーコードを読み取るのは、簡単だが、操作の流れの説明が少し不足している気がした。大量の商品を購入したときなど、あの台で足りるのだろうか。しかし、レジのおばちゃんたちの合理化になるのだろう。便利ではあるが、複雑な気分である。夕方、運動。2カ月ぶりに再開。まずは、筋トレからじっくり。
毎日新聞が、「東日本大震災:借り上げ住宅制度、福島県『募集停止を』 各自治体に要請」という記事を12月1日の夕刊で報道したのに、削除している。ちょっと、情けなくないか。毎日新聞は経営上の危機から、聖教新聞等、創価学会の関連印刷を大量に受注している。削除はこの線が疑われてしまうのではないか。同じ記事を日経が書くと、ずいぶん、トーンダウンし、産経になると、理解を示す書きぶりに変貌するから、驚く。いったい、どういう事態が起きているのか、わかって書いているのだろうか。だれを犠牲にし、だれを利するための施策なのか、考えたことがあるのだろうか。今、ここで起きている事件は、まさに歴史なのだ。その危機の重大さを感じ取れないのは、原発は安全だと言ってきた連中と同じ鈍さだろう。だから、権力のチンドン屋と言われるのだ。
日経の記事 ここから>>>
産経の記事 ここから>>>
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Der Beweis, könnte man sagen, zeigt nicht bloß, dass es so ist, sondern: wie es so ist. Er zeigt, wie 13 + 14 27 ergeben.(...) Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik p. 159 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984
証明とは、ただ、そうであることを示すのではなく、なぜ、そうなのかを示すのである。証明は、なぜ13+14が27を生じるのかを示すのである。
■wieはhowと同じだから、「どのように」というプロセスと考えることもできる。そうなる理由を示すには、そうなるプロセスを示せばいいわけだ。論理の強制性、あるいは、ある種の権力性にずっと興味を持っている。理性の権力というべきかもしれない。日常会話でも、あまりに理詰めで来られると、「感情的に」反発したくなることはないだろうか。反論するにしても、そうした感情をベースに論理を組み立てることはないだろうか。理性と感情は、本来、分かち難いものではなかろうか。最初の論も、実はベースに感情があるかもしれない。
哲学は、実証主義とは異なるから、実験や観測や仮説が武器ではなく、最終的には、論理しかないと思う。そういう自分の最終手段さえ自己批判してきた一群の哲学者たちに、深い敬意を覚える。信頼できると思えるのだ。
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