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一日一句(283)






柚子入れて一番風呂や誕生日





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一日一句(282)






総書記の死んで国境なほ寒し





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L・Wノート:Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik(22)


■旧暦11月25日、月曜日、

(写真)無題

この頃思うのは、真面目な人が真面目な詩を書いても、自己満足になるだけで、当たり前のことしか表現できない、ということで、読む方は、かなり、しんどい。苦痛でさえある。だから、ふざけた詩の方がいいと言ってるのではなく、面白さが必要ではないだろうか。エンターテイメントの面白さでは、もちろんなく。

土曜日、忘年会で、焼酎のロックを飲んで焼酎の世界を忘れていたことに気がついた。このところ、ビールか、ウィスキーばかりだったのである。以前、いただきものの奄美の黒糖焼酎が異常に旨かったのが、思い出された。しばらく焼酎党になるべいか。



土曜は、哲学塾。今回もいろいろ、刺激になった。3.11以降、科学技術と社会の関係に興味を持って、時間のあるとき、ぼちぼち、一般向けの物理の雑誌や本を検討している。今、物理学で問題になっているのが、相対性理論と量子力学の矛盾を解決することだが、いくつか、理論的なアイディアが出ている。そのおもなアイディアをまとめると次のようになる。ここから>>> 理論の内容に深く立ち入らない表面的な整理だが、これを見ると、理論状況はわけわかんない事態になっているのはわかる。

細かい点は表をみてもらうとして、これらに共通する理論的な前提や問題点を挙げてみると、1)要素還元主義。客体は要素に分解すれば理解できるという前提がある。また、最小要素に分解された世界と要素の集合した世界が統一的に説明できるとしている。この二つは同一次元でそもそも議論できるのだろうか。2)時空間の存在が前提にされているが、その生成プロセスの議論が抜けている。3)物質の最小単位である素粒子がなぜ存在するのか、に関する議論がない(無から有が生まれるのだとしたら、その機構の説明がない)

超弦理論が、今のところ、もっとも有望みたいなので、以前に購入して積読になっていた『エレガントな宇宙』を引っ張り出す。



25. Ein psychologischer Nachteil der Beweise, die Sätze konstruieren , ist, dass sie uns leichter vergessen lassen, dass der Sinn des Resultats nicht aus diesem allein abzulesen ist, sondern aus dem Beweis. In dieser Hinsicht hat das Eindringen des Russellschen Symbolismus in die Beweise viel Schaden getan. Ludwig Wittgenstein Bemerkungen über die Grundlagen der Mathematik p. 162 Werkausgabe Band 6 Suhrkamp 1984

諸命題からなる証明には心理的な問題がある。結論の意味が、その結論だけからでは読み取れず、証明から読み取れる、ということを、その諸命題が忘れさせてしまうのである。この点で、ラッセルの記号が証明の中に侵入したのは、大きなダメージになった。

■証明の結論の意味は、結論ではなく、証明全体がその意味を与える、というこの断章は、語句の意味は、語句が指す対象ではなく、語句を用いた文章全体が意味を与える、というヴィトゲンシュタインの基本思想に対応している。これは、具体的な命題に即して検討すると、より興味深いと思える。



Sound and Vision








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一日一句(281)






大いなる墓となるべく山眠る





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一日一句(280)






嚏してよそ行きの顔ぶらさげる





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レクチャー原稿再掲




■pdfファイルの公開制限を解除していなかったので、2011年、2010年の東京情報大学レクチャー原稿を再掲載します。ご意見、ご感想を歓迎いたします。

2011年レクチャー「科学技術の合理性について―時間と空間の概念をめぐって―」ここから>>>

2010年レクチャー「情報とイデオロギー、あるいは知と信の問題について」ここから>>>


※ 引用は出典を明記の上、ご自由に。




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一日一句(279)






ラーメンの列のしんがりちやんちやんこ





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一日一句(278)






終電を逃ししホーム十二月





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Cioranを読む(78)


■旧暦11月20日、水曜日、、赤穂浪士討ち入りの日

(写真)冬紅葉

ヒッグス粒子が98.9%の確率で発見されたらしい。面白かったのは、物理学で新粒子が「発見」されるというのは、99.9999%以上の確率で存在するときだという点だった。この数字は、10,000回に1回は非在、ということになる。10,000回に1回の非在は、存在すると見なすわけだ。この10,000という数はどうして出てきたのか、興味を惹かれる。新聞報道では、世界には、粒子を探索するグループが1,000くらいあるから99%の確率では、10ぐらいのグループに、はずれがでてしまうからだと説明されている。これは存在基準を99%にしない理由で、99.9999%に設定した理由ではない。だが、この論理を敷衍すると、非在確率を1%未満にすればいいことになる。粒子探求グループは、現在、1,000だが、この基準では、今後、最低10,000を想定していることになる。今後の展開を踏まえると、10,000というグループ数は現実的とも非現実的とも言えるだろう。だが、数字の設定論理自体は、きわめて社会的である。この設定論理が、正統なものだとしたら、真理が社会的条件に規定される一例ではなかろうか。



Quelle incitation à l'hitarité que d'entendre le mot but en suivant un convoi funèbre!      Cioran Aveux et Anathèmes p.106 Gallimard 1987

葬列の中で、目的という言葉を聞くのは、なににもまして哄笑の種になる。

■面白い断章。死が虚無だとすれば、目的はナンセンスだが、虚無は有の反対概念なのだろうか。虚無もまた、未知の粒子で充たされている、としたら。その存在・非在の基準が社会的なものだとすると?

 
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一日一句(277)






ムカついて豚まん喰えば年の暮





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