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飴山實を読む(136)

■旧暦1月1日、日曜日、、バレンタインデー

(写真)河津桜

風邪で調子悪し。ベッドで本を読み俳句を作るのみ。

Howard Zinnのインタビューの後半は、教育と学問について、Zinnの考えが述べられている。印象的だったのは、「なんてけちな狭まっくるしい四角四面の教育観なんだ」と、学生運動に批判的だった同僚の大学教授の態度を回顧しながら、憤激するところで、Zinnはこんなことを述べている。学生は本からだけ学ぶのでなく、世の中から、現実から学ぶのだと。これは、学生に限らず、人間は、と言いかえてもいいものだろう。大人になると、自分の置かれた現実にいかに適応するか、という処世ばかり学ぶようになるが、Zinnの言うlearnやeducationは、現実を超える要求を内在するさせるものだろう。

Zinnの学問観も、なかなか、先進的だと思う。それは、感情や感覚をベースにしたものだからである。芸術なら情熱は、活性剤として受け入れられるが、学問では、そうではない。芸術と学問の間に間違った線引きがされている。学問や歴史に情熱を持つことは、誠実であるために必要なことだとZinnは述べる。自分の感覚に誠実である以上に重要なことはない、そうでなければ、自分自身とは別物を表現することになるとも述べている。このあたりは、ヴィトゲンシュタインの教養の考え方と似ていて共感できる。

デカルト以来、心身が分裂し、理性や意識に過度に信を置きすぎた反省が始まっているが、Zinnの学問は、その文脈でとらえることができるように思う。これまで、Zinnの学問は、ドグマティックあるいはイデオロギッシュという批判も浴びてきたが、それは、底の浅い科学観だったのではあるまいか。むしろ、これまでのメジャーな人々中心の歴史観自体が一つのイデオロギーだったと言えるのではなかろうか。

See Harry Kreisler. "Political Awakenings: An Unpublished Howard Zinn Interview" THE Nation February 8, 2010



外套のうら存分に酒まはる   「花浴び」

■面白い。ユーモアがあって好きである。こんな経験は、だれしもあるが、こんな句は、だれもができるわけじゃない。



Sound and Vision



※今でこそ、アメリカ人はクルクルパーという印象が強いが、当然のことながら、すべてのアメリカ人がそうでないし、すべての時代がそうだったわけでない。ということを確認・納得していきたいと思っている。

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飴山實を読む(135)

■旧暦12月29日、金曜日、

(写真)無題

朝、ゴミを捨てに行ったら、ちらほら雪が舞い始めた。

1月下旬に亡くなったアメリカの歴史家、Howard ZinnのNationに載ったインタビューを読んでいたら、反戦運動に入ったきっかけは自分の軍隊体験だと語っている。ドイツに占領されていたフランスの小さな町、ロワイヤンに史上初めてパナーム弾爆撃を行ったという。当時のZinnはファシズムは悪でわれわれが善だという単純な二分法で戦争に疑問を持たなかったが、広島長崎の原爆投下をきっかけに考え直したという。「善い戦争」などはありえない。たとえヒットラーやムッソリーニを排除できても、その間に、何千万人も人々が死んでしまう。戦争は問題の根本的な解決にはならない。解決できるように見えるだけで、一時的なものにすぎない。麻薬と同じである。こうした考え方は、戦争すべてにあてはまると思う。戦争はすべて、「善い戦争」という仮面をかぶって現れるのだから。

See Harry Kreisler. "Political Awakenings: An Unpublished Howard Zinn Interview" THE Nation February 8, 2010




ふるさとの雪を噂に菜粥かな
    「花浴び」

■菜粥を食しながら、ふるさとの雪の噂をしている。それだけなのだが、実に豊かな世界が広がっている。雪の情景ばかりか、人間と雪との関わりまで、具体的に見えてくる。「ふるさとの雪を噂に」という措辞の力だろう。
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飴山實を読む(134)

■旧暦12月28日、木曜日、

(写真)無題

詩人の淺山泰美さんの新刊『京都 銀月アパートの桜』(コールサック社)に「ウエサク祭の夜」というエッセイがある。ウエサク祭というのは、鞍馬寺で五月の満月の夜に行われる不思議な祭りのことである。

五月満月の宵に、山内の僧侶が集い、満月に灯を捧げ清水を備えて、宇宙の大霊より大いなる力を戴き、自己の魂のめざめを祈る儀式が鞍馬寺では古く室町時代よりひそやかに続けられてきた。 (『同書』p.19)

五月の満月の日には、天界と地上の間に通路が開け、ひときわ強いエネルギーが降り注がれるという。そのエネルギーは、プラスもマイナスも常にも増して大きく増幅させると言われる。……五月満月祭の夜は、心の中の善願のうち、一番清く大切な願いをひとつだけ、心をこめて祈れば聞き届けられると言われている、私は美しい満月に見とれて、何も願わずに夜をすごした。 (『同書』pp.20-21)

古代の人々は、満月を基準に月の満ち欠けで、時間の観念を作っていたのだから、満月には特別な宗教心があっても不思議ではない。俳句に今も残る月見は、遠く古代にまでさかのぼるものだろう。古代の宗教的な儀式の名残が今も具体的な形で続いていることに衝撃を受けた。読後不思議な気分になり、今年の五月の満月は意識して観てみようと思った。




柚の香してこどものとほる冬至かな
   「花浴び」

■これもいいなあ。健やかで平和。柚風呂に入ったばかりなのだろう。一瞬、現れたユートピアかもしれないが、そこにこそ未来構想が含まれるのではないか。俳句は、現実の中にあるユートピアを媒介し、提示する力があると思う。反時代とは、もともと、時代の未来なのだろう。



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飴山實を読む(133)

■旧暦12月27日、水曜日、

(写真)無題

河岸の河津桜が咲き始めた。朝から仕事。この頃、NationでHoward Zinnの関係記事を読んでいる。Nationには寄稿も多いようだ。Zinnのcritical historyの方法が創作の参考にならないかと思っている。ポロックがなかなか進まない。シンプルな言葉だが、それだけに、熟語が多く、ニュアンスが豊か。

風邪気味で調子が良くないのだが、「春の風邪」という季語は、どこか明るいイメージがあって好きである。毎年挑戦するが、これだという俳句ができたことがない。




南天の箸二人前小鳥来る
   「花浴び」

■まず、この句から感じる安らかさに惹かれる。仲のいい夫婦の朝の食卓とも取れるし、子どもが独立した後の夫婦の食卓。その前庭に小鳥が来ているとも読める。この句は、言葉で表現されているから、当然、情報化され得るが、それが表している世界は、言葉を超えて広がっている。ささやかで小さな世界だが、心の中でしづかに膨らむ気がする。
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フランス語の俳人たち:Yves Tissot(10)

■旧暦12月25日、月曜日、、蕪村忌、針供養

(写真)無題

風邪気味で、午後から休息。葛根湯を飲む。北の部屋で冷えるのにエアコンを入れないでハロゲンヒーターだけで過ごしたせいかもしれない。

昨日、ポテトの肉巻をはじめて作ったのだが、ポテトをマッシュポテトにしたまでは良かったが、マヨネーズと和えるときに、マヨネーズに塩分が入っていることを忘れ、塩コショウの塩を振りすぎた。ポテトもパサつくので、マヨネーズを入れすぎた。結果、濃い味になってしまって、もうひとつポテトを追加する羽目に。リベンジを期す。




elle peau d'ébène
tient en laisse le chiot blanc
le vieil âne brait



漆黒の肌の彼女が
白い子犬を従えている

老いた驢馬が嘶く


■切れの効果が俳句的でなく詩的だと思う。物語の始まりのような感じもした。

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フランス語の俳人たち:Yves Tissot(9)

■旧暦12月24日、日曜日、、突風をともなう北風

(写真)無題

ブログのフランス語版を発作的に立ち上げた。当面、仏訳された俳句を掲載していき、慣れてきたら、仏語俳句や散文に挑戦する予定。

昨日の哲学塾は、相変わらず面白かった。断片的な知識が統合化されるので、頭がすっきりする。昨日、飲みながら、I先生と議論になったのは、翻訳の訳語をめぐる問題だった。nation stateを「民族国家」ではなく、「国民国家」と訳すから、植民地解放闘争や社会主義崩壊後の民族問題の本質が見えなくなる。現在の多国籍企業は、こうした民族国家を横断して活動していると考えた方がよく理解できる。Nationalsozialistischeを「民族社会主義」ではなく、「国家社会主義」と訳すから、ナチのユダヤ人排斥が見えにくくなる。また、科学的社会主義のwissenschftを科学と訳すから、社会主義が平板なイメージになる。このとき、科学の意味するものは自然科学である。wissenschaftは体系的・論理的な知識のことである。utopiaを「空想」と訳すから、utopiaの持つ未来を構想する力が見えなくなる。確かに、欧州の研究者たちと数十年共同研究してきて、自ら、五カ国語以上を操る先生の議論は、体験的でもあり、的を射ていると思う。以前、この問題は、このブログでも少し検討した

この問題は、近代化の方法と日本語の言語的な特質にも関わって来る。たとえば、wissenschaftの豊かなイメージを、感覚的にわれわれが体得するには、wissenshachftが日常的に話される世界を、内在的に生きなけれなならないだろう。仮に近代化が日本語ではなく欧州の言語で行われていたとしたら、つまり、翻訳作業を媒介せずに行われていたとしたら、「欧州標準」の学問に拮抗する何かができたかもしれない。しかし、学界という狭い世界を超えた社会問題が別途、生じていた可能性がある。日本語は、完全なマイノリティになり、言語に媒介された感受性や価値感、美意識、倫理さえも急激に死滅の一途をたどったかもしれない。だが、一方で、近代化を担った学者・翻訳者は、国家的なプロジェクトに参画したわけであるから、国家統合的な観点から訳語の創造を行った可能性を否定できないのではなかろうか。欧州言語間の翻訳と欧州・日本語間の翻訳では、同一文明に立脚した言語構造上の類似性、異質文明間の言語的相違性という問題が、近代化プロセスの中の翻訳の社会的な意味も大きく規定するように思われるのである。この議論は、原語の持つイメージの豊かを、一面的に物象化せずに、いかに日本語に置き換えるか(説明ではなく)という実践的で本質的な問題にも関わっていると思う。



twitterは、見ず知らずの人と話をすることができるのだが、メルボルン在住の俳人と、言葉を交わす機会があった。彼は、俳句はオペレーティングシステムで、モジュールは17シラブルで、変数が季語だと主張する。これは、自動俳句生成ロボットなどにつながる考え方だと思うが、実にpoorな科学主義だと思う。分析的には、俳句がオペレーティングシステムということは言えても、それをオペレートするのは人間で、人間は、全体的な人生を生きている。ロボットが、愛や憎しみといった感情を含む、人生の全体性を経験することは不可能だろう。さらに、人間は、思想のダイナミズムの中で創作を行う。仮に、確率論的に古池の句ができたとしても、その後が、続かない。ロボットには思想の運動がないからである。ここで行われているのは、有機的な思想運動ではなく無機的な素材の組み合わせに過ぎない。

poorな科学主義といったが、こういう発想がでてきたのは、I先生も言うように、情報通信技術を始めとした技術によって、人間の実体がウェブ上で不可視化され、社会関係が非対面的なものへ変容していることの現れなのだろう。その意味では、ポストモダン現象の一つと言えるのかもしれない。



今、ジャクソン・ポロックの関係者への聞き書きを本にしたものを翻訳しているのだが、興味深い事に、ジャクソンの兄弟は、両親の悪口を一切口にしない。また、同じ事件も兄弟で語り方が異なる。これは、情報と記憶あるいは情報と確実性という問題を考えさせる。記憶は、修正・歪曲を受ける。つまり、情報は常に操作性が前提になっている。情報の操作性が問題化するのは、当然、個人的な思い出の美化ではなく社会的な操作である。では、逆に、情報の確実性が問題化するのは、どういうときか、を考えると、公判の場が一つの典型だろう。司法は、実証主義で運営されている。実証主義は、一つの科学的な手続きであり真理を保証するものではない。これは菅谷さん事件でも明らかになった。情報の操作性と権力の関係、情報の確実性と権力の関係は、事態の裏表であろう。




feuilles écrasées
se lève le goût d'un monde
pluie sur les bourgeons



踏みつぶされた木の葉
世界が匂い立つ
木の芽に降る雨


■春か初夏の印象がある。se lève le goût d'un monde(世界が匂い立つ)と言われると、日本語で俳句にすると、茫漠とした印象になるが、フランス語では、空間が広がるような感じに響くのではなかろうか。
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フランス語の俳人たち:Yves Tissot(8)

■旧暦12月23日、土曜日、

(写真)無題

早朝から仕事。マエストロに定期的に英独の俳句を送る約束をしたので、選句してパリに送信。午後、ウォーキング、仕事。夜、哲学塾。




je suis vieux dit-il
entre les passes du ciel
le jour s'effiloche



老いたなと彼はわたしに言う

空の道の中に
日は消えていく


■よくわからない句である。ぼくの解釈がまづいのか、もともと抽象的なのか。 la passeは渡り鳥などの空の道と思う。そういう道の中で鳥に踏まれて(?)太陽が擦り切れていく(s'effilocher)、というイメージだと考えた。しかし、こういう説明をしてもexcuseでしかない。老いと沈む太陽を重ね合わせているのだろうか。

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フランス語の俳人たち:Yves Tissot(7)

■旧暦12月22日、金曜日、、札幌雪まつり

(写真)坂の白梅

最近、一週間がやたらに早い。アウトプットも出ぬままに。終日、仕事。不完全燃焼を起こしたストーブを分解掃除するが、直らず。断念。8年使用して愛着のある小型ストーブだったのだが。




loin des vents vivaces
tel un vieux chat paresseux
je pense à la mer



遠くの風は止まず
老猫はうずくまっている

わたしは海を思う


■不思議な味わいの句。外は吹雪なんだろうか。心の中の海を思い浮かべる気分は何となくわかる。
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フランス語の俳人たち:Yves Tissot(6)

■旧暦12月21日、木曜日、、立春

(写真)無題

昨日夜、雪になったので、驚いた。駐輪場に置いていた自転車が雪まみれになっていた。午後、ゴミを出しながら、梅と青空を撮る。兼業の塾も徐々に、区切りがついてきた。じっくりポロックに取り組む条件が整いつつある。今日もいい天気である。




la terre a tremblé
dans les sillons des voix tues
les corbeaux s'envolent



大地が震えた
声の絶えた畑から
鴉が飛び立つ


■この俳句は、わからない点があって、Tissot氏に問い合わせて訳出してみた。ハイチ大地震を詠んだそうである。自身、愛着があるというだけあって、いい俳句ではなかろうか。

メールを読んでいて、感じたのだが、フランス語は、英語やドイツ語よりも感情表現が豊かで色彩感がある気がする。身体が見えるような。
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蕪村の俳句(47)

■旧暦12月19日、火曜日、

(写真)雪の朝

ぼくは、もともと、そう勤勉な方じゃなく、ぐーたらしているのが、好きなのだが、それが一番出るのが起床時間で、早い時は朝5時に起きているが、遅いと2時だったり3時だったりする。真面目な人は、たいてい、体内時計も真面目で、一定時間に起きるのではなかろうか。今日は、雪が降ったので、早くから起きていた(笑)。5時である。さっそく、ウォーキングに出る。

昨日、ハバーマスがtwitterに現れたという情報が飛び交い、さすがにびっくりして、tweetを見てみたら、いかにも、ドイツ人が書きそうな英語と、twitterでtwitterを批判しているところなど、可笑しかったのだが、今朝になってfakeをしきりに謝っている。

Chomskyもfakeがあるようだが、twitterというtoolを頭から全部否定せずに、その肯定的な側面を開発するようなスタンスが、思想家の側にもっとあってもいいように思う。つまり遊び心というものが。リアルタイムで、ハバーマスの声、聴きたかったなあ。




襟巻の浅黄にのこる寒さかな
   「夜半叟」(安永八年)

■浅黄色に寒さを感じ取っていて惹かれた。確かに、寒いときには、いっそう、寒く見えると思う。
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