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フランス語の俳人たち:Yves Tissot(9)

■旧暦12月24日、日曜日、、突風をともなう北風

(写真)無題

ブログのフランス語版を発作的に立ち上げた。当面、仏訳された俳句を掲載していき、慣れてきたら、仏語俳句や散文に挑戦する予定。

昨日の哲学塾は、相変わらず面白かった。断片的な知識が統合化されるので、頭がすっきりする。昨日、飲みながら、I先生と議論になったのは、翻訳の訳語をめぐる問題だった。nation stateを「民族国家」ではなく、「国民国家」と訳すから、植民地解放闘争や社会主義崩壊後の民族問題の本質が見えなくなる。現在の多国籍企業は、こうした民族国家を横断して活動していると考えた方がよく理解できる。Nationalsozialistischeを「民族社会主義」ではなく、「国家社会主義」と訳すから、ナチのユダヤ人排斥が見えにくくなる。また、科学的社会主義のwissenschftを科学と訳すから、社会主義が平板なイメージになる。このとき、科学の意味するものは自然科学である。wissenschaftは体系的・論理的な知識のことである。utopiaを「空想」と訳すから、utopiaの持つ未来を構想する力が見えなくなる。確かに、欧州の研究者たちと数十年共同研究してきて、自ら、五カ国語以上を操る先生の議論は、体験的でもあり、的を射ていると思う。以前、この問題は、このブログでも少し検討した

この問題は、近代化の方法と日本語の言語的な特質にも関わって来る。たとえば、wissenschaftの豊かなイメージを、感覚的にわれわれが体得するには、wissenshachftが日常的に話される世界を、内在的に生きなけれなならないだろう。仮に近代化が日本語ではなく欧州の言語で行われていたとしたら、つまり、翻訳作業を媒介せずに行われていたとしたら、「欧州標準」の学問に拮抗する何かができたかもしれない。しかし、学界という狭い世界を超えた社会問題が別途、生じていた可能性がある。日本語は、完全なマイノリティになり、言語に媒介された感受性や価値感、美意識、倫理さえも急激に死滅の一途をたどったかもしれない。だが、一方で、近代化を担った学者・翻訳者は、国家的なプロジェクトに参画したわけであるから、国家統合的な観点から訳語の創造を行った可能性を否定できないのではなかろうか。欧州言語間の翻訳と欧州・日本語間の翻訳では、同一文明に立脚した言語構造上の類似性、異質文明間の言語的相違性という問題が、近代化プロセスの中の翻訳の社会的な意味も大きく規定するように思われるのである。この議論は、原語の持つイメージの豊かを、一面的に物象化せずに、いかに日本語に置き換えるか(説明ではなく)という実践的で本質的な問題にも関わっていると思う。



twitterは、見ず知らずの人と話をすることができるのだが、メルボルン在住の俳人と、言葉を交わす機会があった。彼は、俳句はオペレーティングシステムで、モジュールは17シラブルで、変数が季語だと主張する。これは、自動俳句生成ロボットなどにつながる考え方だと思うが、実にpoorな科学主義だと思う。分析的には、俳句がオペレーティングシステムということは言えても、それをオペレートするのは人間で、人間は、全体的な人生を生きている。ロボットが、愛や憎しみといった感情を含む、人生の全体性を経験することは不可能だろう。さらに、人間は、思想のダイナミズムの中で創作を行う。仮に、確率論的に古池の句ができたとしても、その後が、続かない。ロボットには思想の運動がないからである。ここで行われているのは、有機的な思想運動ではなく無機的な素材の組み合わせに過ぎない。

poorな科学主義といったが、こういう発想がでてきたのは、I先生も言うように、情報通信技術を始めとした技術によって、人間の実体がウェブ上で不可視化され、社会関係が非対面的なものへ変容していることの現れなのだろう。その意味では、ポストモダン現象の一つと言えるのかもしれない。



今、ジャクソン・ポロックの関係者への聞き書きを本にしたものを翻訳しているのだが、興味深い事に、ジャクソンの兄弟は、両親の悪口を一切口にしない。また、同じ事件も兄弟で語り方が異なる。これは、情報と記憶あるいは情報と確実性という問題を考えさせる。記憶は、修正・歪曲を受ける。つまり、情報は常に操作性が前提になっている。情報の操作性が問題化するのは、当然、個人的な思い出の美化ではなく社会的な操作である。では、逆に、情報の確実性が問題化するのは、どういうときか、を考えると、公判の場が一つの典型だろう。司法は、実証主義で運営されている。実証主義は、一つの科学的な手続きであり真理を保証するものではない。これは菅谷さん事件でも明らかになった。情報の操作性と権力の関係、情報の確実性と権力の関係は、事態の裏表であろう。




feuilles écrasées
se lève le goût d'un monde
pluie sur les bourgeons



踏みつぶされた木の葉
世界が匂い立つ
木の芽に降る雨


■春か初夏の印象がある。se lève le goût d'un monde(世界が匂い立つ)と言われると、日本語で俳句にすると、茫漠とした印象になるが、フランス語では、空間が広がるような感じに響くのではなかろうか。
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