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飴山實を読む(134)

■旧暦12月28日、木曜日、

(写真)無題

詩人の淺山泰美さんの新刊『京都 銀月アパートの桜』(コールサック社)に「ウエサク祭の夜」というエッセイがある。ウエサク祭というのは、鞍馬寺で五月の満月の夜に行われる不思議な祭りのことである。

五月満月の宵に、山内の僧侶が集い、満月に灯を捧げ清水を備えて、宇宙の大霊より大いなる力を戴き、自己の魂のめざめを祈る儀式が鞍馬寺では古く室町時代よりひそやかに続けられてきた。 (『同書』p.19)

五月の満月の日には、天界と地上の間に通路が開け、ひときわ強いエネルギーが降り注がれるという。そのエネルギーは、プラスもマイナスも常にも増して大きく増幅させると言われる。……五月満月祭の夜は、心の中の善願のうち、一番清く大切な願いをひとつだけ、心をこめて祈れば聞き届けられると言われている、私は美しい満月に見とれて、何も願わずに夜をすごした。 (『同書』pp.20-21)

古代の人々は、満月を基準に月の満ち欠けで、時間の観念を作っていたのだから、満月には特別な宗教心があっても不思議ではない。俳句に今も残る月見は、遠く古代にまでさかのぼるものだろう。古代の宗教的な儀式の名残が今も具体的な形で続いていることに衝撃を受けた。読後不思議な気分になり、今年の五月の満月は意識して観てみようと思った。




柚の香してこどものとほる冬至かな
   「花浴び」

■これもいいなあ。健やかで平和。柚風呂に入ったばかりなのだろう。一瞬、現れたユートピアかもしれないが、そこにこそ未来構想が含まれるのではないか。俳句は、現実の中にあるユートピアを媒介し、提示する力があると思う。反時代とは、もともと、時代の未来なのだろう。



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