verse, prose, and translation
Delfini Workshop
ドイツ語の俳人たち:Sabine Balzer(14)
2007-11-14 / 俳句


(写真)電線と薄
今回は、詩関連の原稿も早めに送付できたし、サイバーも新しい章に入って、気分はいい。昨日、新しいレシピに挑戦して、うまくいった。豚肉のソテーにイタリアン風のソースをかけた一品で、ワインと相性がいいと思う。トンカツ用の豚肉を、肉叩きでよく叩いてから、塩コショーして両面に小麦粉をまぶしてオリーブオイルで焼く。ブラックオリーブ(缶詰で安く入手可能)とエリンギ(うちは、子どもがキノコがダメなので、もっともキノコくさくないエリンギを使ったが、舞茸でもいい)をみじん切りにし、オリーブオイルで塩コショーしながら炒める。仕上げにカットトマトとコンソメを加えて、炒める。これを、先ほどの豚肉にかけて出来上がり。簡単で美味い。
◇
ドイツ語の俳人たちを何人か紹介してきたが、正直言って、俳句のレベルが低くて、嫌になってきた。今紹介しているゲルト・ベルナーもある程度、まとまって読んでみたが、少しも面白くない。そこで、今まで紹介した中で、もっとも良かったザビーネ・バルツァーを、詳しく検討してみることにした。彼女は充実したホームページを持っているので、そこに掲載されている俳句を順次、検討してみたい。
(Original)
das Blatt in der Hand
des Mädchens schimmert rötlich
wie ihre Haare
(japanische Fassung)
少女の手の中の葉は
ほのかに赤い
それはその子の髪の色
■Haare(髪)が複数で表記されているので、一本一本の髪の質感が出ているように思った。赤みがかった葉の色と少女の髪の色が響きあっている様子は、なんだか楽しい。zur deutschen Fassung
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RICHARD WRIGHTの俳句(43)
2007-11-13 / 俳句


(写真)Protesting Women
午前中、慈恵医大、午後、仕事、夕方、新レシピに挑戦。昨日、カイロの帰りに、突然、セザンヌの絵が見たくなって、小さな画集を買ってきた。
◇
(Original)
What river is that
Meandering through the mist
In fields of young corn?
(Japanese version)
どんな川なんだろう
初もろこし畑の
霧の中を蛇行しているのは
■川は気配として認識されている。すべては霧の中である。遠くに水音がしているとうもろこし畑なんだろう。今回は、これに拮抗する放哉の句が見つからなかった。念のため山頭火も調べたが、やはりない。海は二人ともよく詠んでいるが、秋の川も霧も、ぼくのもっている句集にはなかった。(Click here for the English-version site)
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芭蕉の俳句(158)
2007-11-12 / 俳句


(写真)Someday Everything to Dust
午前中、仕事、午後、カイロ。エアコンのフィルターの洗浄。栗の美味い茹で方を調べる。
車谷長吉の新刊『物狂ほしけれ』(平凡社)を読む。徒然草へのコメントを加えた前半と、エッセイと質問への答えからなる後半。自分でも言っているが、繰り返しが多く、もう書くことがないような感じを受けた。それでも、この人の本が出ると、読むのは、その反時代的な姿勢に、ある面、共感するところがあるから。
書中、こんな質問がある。
天皇制については、どうお考えになりますか。
日本人のような愚かな国民を統治していくには、天皇制が必要である。
日本(人)の好きなところ、嫌いなところを教えてください。
「萬葉集」を読んでいると、日本人のいいところがいっぱい出てくる。つまり、山川草木を神と崇めている。嫌いなところは、自分より強い者に弱く、弱い者に強い。つまりサラリーマン根性。また、有名病の人。
今、すぐに自殺しようとしている人がいます。止めますか。そのとき何と声を掛けますか。
「はよ死ね」
■らしいと言えばらしいか。徒然草は、小林秀雄がモンテーニュ以上と絶賛していたので、一度、研究書と一緒に、じっくり読んだことがある。もう4半世紀も前になる。そのときは、そう大したことないじゃないかと、がっかりしたことを覚えている。今回、断章を読み返してみて、少し、見方が変わった。こっちが歳を取ったからかもしれない。時間を見て、再読してみようかと考えている。
◇
埋火や壁には客の影法師
■元禄5年作。江戸の曲翠の旅館を訪ねた折の作。沈黙と少ない言葉。寂寥感とその背後にある信頼感。そんなところに惹かれた。今のように、むやみに言葉を消費するだけの表層的な言葉のやりとりとは対極にあるように思う。一年後の冬、芭蕉は膳所に帰った曲翠に手紙を出すのだが、このときの会話のことを「壁の影法師…、申さば千年を過ぎたるに同じかるべく候」と述べている。こういう時間の感覚は、芭蕉の身辺にさまざまなことがあったことを窺わせる。
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飴山實を読む(40)
2007-11-11 / 俳句


(写真)Impatient Angels
今日は肌寒い。旧暦の10月ってこんなに寒いのか。暦の上では、立冬は過ぎたのだった。今日は、掃除して、日用品を買いに出て、サイバーの最終確認をして、本でも読むつもり。
久しぶりに栗をゆでて食べた。もともと栗好きなのだが、食べるのに手間がかかるので、勢い、モンブランのような加工品に手が出る。しかし、皮をむいてゆっくり食す栗は、やはり旨いのである。
◇
阿波大仏
丈六へ猿が拾いしあとの栗
■丈六とは一丈六尺(約4.8メートル)の仏像。丈六像。栗で秋。仏と猿の残した栗の取り合わせが俳味があり惹かれた。俳画の題材にもいいような景に思えた。芭蕉の有名な、初しぐれ猿も小蓑をほしげ也も遠くに響いてくるような気がする。
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琉球と沖縄・沖縄の文学(13)


(写真)首里城を守るシーサー
今日は、朝6時まで仕事していた。どうにか、サイバー8章を終える。後は、最終的な見直しをかけて脚注の検討を行ってからFさんのとこに送付する。そんなこんなで、起きたのが昼前。電気炊飯器がいかれたので、飯を食べてから、柏に買いに行く。
◇
芭蕉布
山之口 貘
上京してからかれこれ
十年ばかり経っての夏のことだ
とおい母から芭蕉布を送って来た
芭蕉布は母の手織りで
いざりばたの母の姿をおもい出したり
暑いときには芭蕉布に限ると云う
母の言葉をおもい出したりして
沖縄のにおいをなつかしんだものだ
芭蕉布はすぐに仕立てられて
ぼくの着物になったのだが
ただの一度もそれを着ないうちに
二十年も過ぎて今日になったのだ
もちろん失くしたのでもなければ
着惜しみをしているのでもないのだ
出して来たかとおもうと
すぐにまた入れるという風に
質屋さんのおつき合いで
着ている暇がないのだ
■この歳になって、母親の無償の愛みたいなものを、それはそれとして、ありがたく受け取れるようになったが、若い頃は、ただただ、うっとうしく、どうにもべた付いて、理解を欠いた一方的な愛情のように思われたものだった。血縁の息苦しさは、愛情とエゴイズムがなかなか切り離せないところにあるのかもしれない。ニーチェではないが、愛情の深さは、生命力の強さの現われなんだろう。
この詩のお母さんは、さりげない。さりげなく、見守ることを知っている人だったのかもしれない。作品全体に漂う飄逸なユーモアにも心惹かれた。
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ドイツ語の俳人たち:Gerd Börner(4)
2007-11-09 / 俳句



(写真)Gradation
西岸良平の『鎌倉ものがたり』のコンビニ本を読んだ。鎌倉を舞台にしたミステリーという趣向は面白いと思うけれど、もっと、ネームを考えた方がいいんじゃないか。ちょっと、安易なオチが多い気がした。まあ、鎌倉が舞台だし、二人の登場人物のキャラがいいので、許せる範囲と言えば言えるか。
◇
(Original)
Gräser welken schon.
Im Tau hängt noch der Morgen,
die Welt kopfüber
(japanische Fassung)
草はもう枯れた
こぼれそうな露の中にはまだ朝が
世界は真っさかさま
■久しぶりに面白かった。今にも露が落ちそうな情景と考えた。露の中には朝が、世界が、確かに閉じ込められている。
Nach langer Zeit ist das ein interessantes haiku. Ich stelle mir vor, einen von einem Gras überlaufenden Tau. Gewiss gibt es der Morgen und die Welt im Tau.
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翻訳詩の試み(15)
2007-11-08 / 詩


(写真)Love Everywhere, Love Nowhere
◇
いつもの喫茶店で訳してみた。まだ、満足のいく訳文ではないが、一次稿としてアップする。
犬と狼の間
ヴァレリー・アファナシエフ
狼こそロシア文化の中心である
ロシア人は狼と犬の区別がつかない
この混同は理解できる
ロシアの犬は人を大勢襲ってきたのだ
犬がうろついていれば
ロシア人は狼だと思う
灯を消しカーテンを閉め
声をひそめ音楽を止める
画家はロシアの魂を狼の姿に描くが
魂は球形である
魂はよくうろつく
部屋の中を、戸外を、街を
魂は狼やロシアの犬などより
はるかに危険である
われわれは声をひそめない
ENTRE CHIEN ET LOUP
(VALERY AFANASSIEV)
Wolves are just a feature of Russian folklore.
Russians confuse them with dogs.
Their mistake is understandable:
Russian dogs have eaten a lot of people.
When a dog is on the prowl
Everybody in Russia takes it for a wolf.
Lights are extinguished, curtains drawn,
voices and music die down.
Painters represent the Russian soul
in the shape of a wolf.
Yet the soul is spherical.
Our souls often prowl
indoors, outdoors - around the streets.
They are far more dangerous
than wolves and Russian dogs.
We do not lower our voices.
■狼とロシアの人々の関わりは、「赤頭巾ちゃん」に見られるように、欧州全般と共通点があるのかもしれない。犬が人を襲っていたというのは、日本でも、同じことが言えるように思う。江戸時代には、山犬のがばと起きゆくすゝき哉(召波)という句もあり、かなり身近に狼がいたことがわかる。
アファナシエフの英語は単純・正確で美しいと思う。対比のリズムもよく効いている。魂は狼より危険だというレトリックは面白かった。
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RICHARD WRIGHTの俳句(42)
2007-11-07 / 俳句


(写真)Blue and Blue
家人に写真とタイトルを見せたら、カッコつけすぎと笑っていた。けれど、ぼくは大真面目である!
新レシピに挑戦したのは良かったが、なんと、丸々2時間もかかってしまった。「大根のステーキの肉みそがけ」という代物。評判は良し。
花輪和一の『猫谷』(青林工藝社)という短編を読んでいる。表題の「猫谷」は、面白かった。猫が己の死に時を知っているという話で、死ぬときに、死に時の猫が数十匹、いっせいに山に帰る。天狗の導きであの世へ渡るのだが、この話は、あながち荒唐無稽ではないなと感じる。うちも、野良猫を飼っていたんだが、死に時を確実に知っていた。そのときがきたら、ぼくに挨拶をして、それきり姿を消したのである。「死ぬ」ということは人間だけが知っているわけではないと思う。
◇
(Original)
Seen from a hilltop,
Shadowy in winter rain,
A man and his mule.
(Japanese version)
丘の上から見ると
冬の雨の中
幻のように人とラバ
(放哉)
白壁雨のあとある
■ライトは、冬の雨の中の情景。幻と現実の境が雨であいまいになっている。放哉の句は、雨の跡を詠んでいる。実際、雨を見ているわけではない。これも、雨の幻。(See also my English-version site)
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芭蕉の俳句(157)
2007-11-05 / 俳句


(写真)廃庭の秋の夕日
今日は、早く目が覚めた。馬込という初めての場所に用があって行く予定。
◇
塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店 (薦獅子集)
■元禄5年作。当時は、下五の「魚の店」が評判になったようだ。其角は、普通なら「老の果」や「年のくれ」といった観念的な言葉を置くだろうと言い、支考は、初心者なら、「梅の花」や「木具の香」などを置くだろうと述べている。芭蕉が「魚の店」という日常的で平明な言葉で結んだところに「深遠玄遠」の趣があると二人は考えたようだ。日常性の中に、生活的に、具象的に、句が把握されているところに、芭蕉の「軽み」があるという解説もある。
ただ、現代の目から見て、下五の「魚の店」は、塩鯛の場所を説明する語になっていて季語を活かしきれていない気もする。意味的には、一つの素材を詠んでいるので、一物仕立てであろうが、其角と支考は、凡庸な俳諧師なら、取り合わせで詠むはずだということだろう。
この句の塩鯛の荒涼とした感じと寒さの浸透には惹かれるが、上記の部分が少し気になった。
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飴山實を読む(39)
2007-11-03 / 俳句


(写真)落葉
テンプレートを変えたら、編集ができない仕様だった。location mapなどがつけられなくなったが、同じテンプレートでは、飽きるので、まあ、仕方がない。海外からもけっこうアクセスがあったが、大半は、日本人だったと思われる。
五十嵐大介の新刊『カボチャの冒険』を読む。幻想風の作品になじんできた者には、ちょっと意外だが、これはこれで味わい深い。農作業の田舎暮らしの日常と、拾い猫の「カボチャ」が出てくるだけのシンプルな話だが、ある意味、私小説風、日記風で、日常の中の猫の冒険が面白い。できれば、もっと、田舎暮らしの詳細を描いて欲しかった。きっと、これはこれで、冒険があるはずだから。こういう田舎暮らしは、実は、小生、憬れるのである。家人に話したら、腰が痛くなるよと笑っていた。
◇
新蕎麦や蓑虫庵を目のあたり
■新蕎麦で秋。蓑虫庵とは、芭蕉の門人土芳の草庵。現存する。蓑虫庵という命名にも俳諧らしくて趣があるが、新蕎麦との取り合わせになんとも言えぬ俳味を感じた。實には、同じときに蓑虫庵を詠んだ別の句もある。蓑虫庵裏の蝉穴の数いくつこれも面白い。庵の名前自体がすでに俳句のような気がした。
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