goo

飴山實の俳句(41)

■旧暦10月9日、日曜日、

(写真)Star and Bible Black

昨日は、『原爆詩集181人集』(コールサック社)の出版記念会に行ってきた。現在、3,200部ほど出ているらしい。詩集にしては、かなり売れている方ではないか。2004年に出したぼくの翻訳書『インターネット時代の表現の自由』(皓星社)は、大学生協や図書館を中心に需要があるが、それでも、2,000部に届かないはずである。

『原爆詩集181人集』は、クリスマスには英語版も出る予定。この際、同時に、Amazonに登録してネット上での販売に力を入れたらいいのではないだろうか。

昨日の記念会で、意外な話を聴いた。現在、世界で日本語学習者は300万人いるらしい。こういう人たちが、インターネットで、日本語で検索をかけてくる。インドでは、ネット検索によって、この原爆詩集を知っている人がいたというのだ。グローバリゼーションの積極的な側面と言えるのかもしれない。

また、昨日は、朗読も十数人が行ったのだが、聴いていて、感じたことがある。日本語は、音の高低はあっても、英語ような強弱がない。朗読が一定の強度で進むため、朗読者の思い入れとは別に、作品が平板に響くことがあるのだ。強度が一定という特質に合った朗読もある。たとえば、悲惨な内容を、意図的に淡々と読むときは、効果を上げると思う。けれど、詩の音楽性や演劇性を批評的に再構成しようとするときには、何らかの工夫が要るのではあるまいか。次回、朗読の機会があったら、この辺を問題意識にしてみたいと思っている。

懇親会も、関心領域の似た方と話しができて、実り豊かだった。

今日は句会なのだが、まだ、二日連続で外出する体力・精神力がなく、自宅で静かに仕事をしているつもり。




うち曇る淡海に芦を焚く音す


■芦で秋。曇り空を「うち曇る」と表現している点。実際は、曇り空だけなんだろうが、「うち曇る淡海」と表現されたことで、琵琶湖の鉛色の水面が浮かんでくる。それに、芦を焚いた煙の色が響きあう。「焚く音す」と最後に置かれたことで、この句の景が、すぐそこで音がしているように、ぐっと身近に感じられてくる。全体が曇りの景色なのだが、趣を感じた。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )