verse, prose, and translation
Delfini Workshop
飴山實を読む(1)
2007-05-28 / 俳句
■午後から、トレーニングジム。もう、半年以上、行っていなかったので、メニューは廃棄されていた。腰痛に苦しめられたとき、通い始めて、当時は、週に3回から4回は通っていた。それから、徐々に、間遠になり、今や、1年に2回という有様。今週の土曜日に、カウンセリングをして、新しく、メニューを作ってもらうことにした。マシーンも2台、新しいのが入っていた。
トレーナーに、僧坊筋を鍛えるダンベルトレーニングを2種類教わる。肩の筋肉を鍛えて、脳への血流を増強しようというわけだ。今日、わかったのは、睡眠時間が短いと、いくら、運動しても耳鳴りに対する効果は出ないということ。今日は、4時間しか寝ていない。再び寝ようとしても、耳鳴りで眠れず、そのまま、朝の散歩に出たのである。血流(量と質)と睡眠(時間と質)が、耳鳴りと相関関係があるらしい。したがって、ストレス要因を排除した上で、よく寝て、よく運動すれば、効果が出るはずなのだ。まあ、この辺を心療内科の先生と相談しながら、進めたいと思っている。
耳鳴りになって悟ったことが一つある。それは、平均70点でいいのだということ。なんでもかんでも100点取ろうとしすぎた。そんなの無理なのだ。100点取ろうとして0点なんてことも多々あった。強弱を考えるべきだった。
◇
飴山實は、5つの句集を出している。それを逆から読んでいる。最後の『花浴び』を読んで、今『次の花』を読んでいる。句の検討は、『次の花』から初めて、『花浴び』に進み、その後、遡っていくパターンにしたい。
ま空よりこぼれて石へ秋の蜂 『次の花』
■「ま空」という措辞。秋のまったき空、晴れ上がって一点の曇りもない。「こぼれて石へ」という措辞。能動的で意志的な動きではなく、モノがごぼれるような、何か受動的な動き。ふいに空の一点から、この世に現れたような印象がある。そして、その石は秋の日に照らされて暖かい。「秋の蜂」は、「秋の蚊」や「秋の蝶」、「秋の蝿」と違って、まだよく動き回るようだ。そういう動を秘めた静が「石」の質感と響き合っている。
トレーナーに、僧坊筋を鍛えるダンベルトレーニングを2種類教わる。肩の筋肉を鍛えて、脳への血流を増強しようというわけだ。今日、わかったのは、睡眠時間が短いと、いくら、運動しても耳鳴りに対する効果は出ないということ。今日は、4時間しか寝ていない。再び寝ようとしても、耳鳴りで眠れず、そのまま、朝の散歩に出たのである。血流(量と質)と睡眠(時間と質)が、耳鳴りと相関関係があるらしい。したがって、ストレス要因を排除した上で、よく寝て、よく運動すれば、効果が出るはずなのだ。まあ、この辺を心療内科の先生と相談しながら、進めたいと思っている。
耳鳴りになって悟ったことが一つある。それは、平均70点でいいのだということ。なんでもかんでも100点取ろうとしすぎた。そんなの無理なのだ。100点取ろうとして0点なんてことも多々あった。強弱を考えるべきだった。
◇
飴山實は、5つの句集を出している。それを逆から読んでいる。最後の『花浴び』を読んで、今『次の花』を読んでいる。句の検討は、『次の花』から初めて、『花浴び』に進み、その後、遡っていくパターンにしたい。
ま空よりこぼれて石へ秋の蜂 『次の花』
■「ま空」という措辞。秋のまったき空、晴れ上がって一点の曇りもない。「こぼれて石へ」という措辞。能動的で意志的な動きではなく、モノがごぼれるような、何か受動的な動き。ふいに空の一点から、この世に現れたような印象がある。そして、その石は秋の日に照らされて暖かい。「秋の蜂」は、「秋の蚊」や「秋の蝶」、「秋の蝿」と違って、まだよく動き回るようだ。そういう動を秘めた静が「石」の質感と響き合っている。
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RICHARD WRIGHTの俳句(1)
2007-05-28 / 俳句
旧暦4月12日。月曜日、。
昨日運動したせいか、4時半に起きてしまった。目覚めると、その瞬間から、耳鳴りがひどい。ゴッホが耳を切り落とした気持ちがわかるような気がする。ウィダーインゼリーを食して、散歩に出かける。家人がとても心配している。江戸川周辺を一時間半歩く。水門近くに毛布に包まったホームレスの人が二人、離れたところで眠っていた。朝の川面はブルーグレーで美しかった。今日は、風が冷たく、トレーナー一枚では寒い。帰宅後も耳鳴り収まらず。仕方ないので、野鳥のCDをかける。この病気になって、1週間経過した。その間の経験から、脳に供給される血流の量と質が耳鳴りと関係がある、というのが、現時点での、「ぼくの耳鳴り」に関する仮説である。この仮説を柱にして、日常を再編成したいと思っている。午前中は、散歩と雑用、軽い作業、午後は、じっくり運動だけ、夜は軽い作業。複雑なロジックの散文を静かに読むという、たったこれだけのことができなくなった。今のささやかな希望は、回復して、ヴィトゲンシュタインとマルクスをじっくり検討すること。
◇
そういうわけで、この間の作業は、脳の負担にならないことで、しかも、気分を変えたいので、新しいことをしようと思っている。一つは、RICHARD WRIGHTの俳句(というよりも美しい三行詩と言うべきか)を翻訳・検討する。もう一つは、飴山實の俳句を検討する。
◇
I am nobody:
A red sinking autumn sun
Took my name away.
俺は何者でもない。
秋の赤い落日が
俺の名前を奪ったのだ。
■出典は『HAIKU This Other World』(ANCHOR BOOKS 1998年)。著者のリチャード・ライトは、1908年ミシシッピ州の地方部に生まれ、1960年パリで死去。1940年発表の『Native Son』(邦題「アメリカの息子」)は、アメリカ文学を代表する作品。他に、『The Outsider』(邦題「アウトサイダー」)、『Black boy』(邦題「ブラックボーイ―ある幼年期の記録」)、『Black Power』、『White Man, Listen! 』(邦題「白人よ聞け」)など。
『HAIKU This Other World』には、ライトの娘、ジュリア・ライトが序文を寄せている。それによると、俳句をライトが書いたのはフランス亡命中で、最晩年の18ヶ月のことらしい。死の数ヶ月前に数千句も作ったという。ライトは、片時も句帖を話さず、カフェ、レストラン、ベッドの中まで、四六時中どこでも俳句を書いていたようだ。
いくつかライトの俳句を読んでみたが、どれも、自然を詠んでいて、興味深い。西欧の文学は、たいていが人間中心で、息が詰まるときがある。掲句を一読したとき、映画パピヨンを思い出した。主人公のマックイーンが、何度目かの脱獄に失敗して、夜、監獄に戻ってきたときに、仲間の囚人に「Who are you? 」と聞かれ、「Nobody」と答えるシーンがある。このとき、ぼくが感じたのは、監獄の中では、「Who are you? 」という問いは、無意味だということだった。そこでは、娑婆の名前も職業も意味がない。ここから言えることは、名前も職業も、その背後には、程度の差はあれ、「人間」がいるということだろう。ライトのこの句に戻ってみる。どうだろう。監獄か収容所にいる人間のつぶやきに聞こえてこないだろうか。
ここまでは、ライトの文学的・社会的背景を考えてみても、妥当な理解だろう。ぼくは、名前が奪われたことのもう一つの面にも注目してみたい。それは、ハイデッガーが人間は石や木とは違って、地上に住まうものだと言った言葉に関連する。ライトの句では、詩的にこう詠われている。
I am nobody:
A red sinking autumn sun
Took my name away.
赤い秋の落日が
俺の名前を奪ったのだ
むろん、「俺の名前を奪った」のは、社会であり歴史である。しかし、名前を奪われたことで、地上に住まう「人間」のあり方を止めて、自然と一体化するのである。このとき、A red sinking autumn sunとライトは一体化している。社会的な疎外が自然同化に向わせたとも、自然と一体化したとき、俳人は何者でもなく、詩になるとも言えようか。
Nobody
― 映画『パピヨン』
あるいは三十年の歳月へのオマージュ
Nobodyと答えたとき
男は神になった
脱獄を繰り返した末の誰何
風のように
Nobodyと答えたのは正しい
紙一重の自由を
椰子の実の小舟に乗せて
男はその日
大西洋の白波に消えた
三十年
男を駆り立てたもの
あるいは狂気
あるいは愛
男はひたすら求めた
己自身からの自由を
Nobody
それは大いなる眠りである
脱獄は夢を見ることに似ている
塀の向こうも
監獄なのかもしれない
塀のこちらはすでに
エデンなのかもしれない
舟はもう見えない
Nobody
男は
米国風の発音だけを残した
Nobody
男でも女でもなく
Nobody
生でも死でもなく
Nobody
ただ
冬の青空がある
昨日運動したせいか、4時半に起きてしまった。目覚めると、その瞬間から、耳鳴りがひどい。ゴッホが耳を切り落とした気持ちがわかるような気がする。ウィダーインゼリーを食して、散歩に出かける。家人がとても心配している。江戸川周辺を一時間半歩く。水門近くに毛布に包まったホームレスの人が二人、離れたところで眠っていた。朝の川面はブルーグレーで美しかった。今日は、風が冷たく、トレーナー一枚では寒い。帰宅後も耳鳴り収まらず。仕方ないので、野鳥のCDをかける。この病気になって、1週間経過した。その間の経験から、脳に供給される血流の量と質が耳鳴りと関係がある、というのが、現時点での、「ぼくの耳鳴り」に関する仮説である。この仮説を柱にして、日常を再編成したいと思っている。午前中は、散歩と雑用、軽い作業、午後は、じっくり運動だけ、夜は軽い作業。複雑なロジックの散文を静かに読むという、たったこれだけのことができなくなった。今のささやかな希望は、回復して、ヴィトゲンシュタインとマルクスをじっくり検討すること。
◇
そういうわけで、この間の作業は、脳の負担にならないことで、しかも、気分を変えたいので、新しいことをしようと思っている。一つは、RICHARD WRIGHTの俳句(というよりも美しい三行詩と言うべきか)を翻訳・検討する。もう一つは、飴山實の俳句を検討する。
◇
I am nobody:
A red sinking autumn sun
Took my name away.
俺は何者でもない。
秋の赤い落日が
俺の名前を奪ったのだ。
■出典は『HAIKU This Other World』(ANCHOR BOOKS 1998年)。著者のリチャード・ライトは、1908年ミシシッピ州の地方部に生まれ、1960年パリで死去。1940年発表の『Native Son』(邦題「アメリカの息子」)は、アメリカ文学を代表する作品。他に、『The Outsider』(邦題「アウトサイダー」)、『Black boy』(邦題「ブラックボーイ―ある幼年期の記録」)、『Black Power』、『White Man, Listen! 』(邦題「白人よ聞け」)など。
『HAIKU This Other World』には、ライトの娘、ジュリア・ライトが序文を寄せている。それによると、俳句をライトが書いたのはフランス亡命中で、最晩年の18ヶ月のことらしい。死の数ヶ月前に数千句も作ったという。ライトは、片時も句帖を話さず、カフェ、レストラン、ベッドの中まで、四六時中どこでも俳句を書いていたようだ。
いくつかライトの俳句を読んでみたが、どれも、自然を詠んでいて、興味深い。西欧の文学は、たいていが人間中心で、息が詰まるときがある。掲句を一読したとき、映画パピヨンを思い出した。主人公のマックイーンが、何度目かの脱獄に失敗して、夜、監獄に戻ってきたときに、仲間の囚人に「Who are you? 」と聞かれ、「Nobody」と答えるシーンがある。このとき、ぼくが感じたのは、監獄の中では、「Who are you? 」という問いは、無意味だということだった。そこでは、娑婆の名前も職業も意味がない。ここから言えることは、名前も職業も、その背後には、程度の差はあれ、「人間」がいるということだろう。ライトのこの句に戻ってみる。どうだろう。監獄か収容所にいる人間のつぶやきに聞こえてこないだろうか。
ここまでは、ライトの文学的・社会的背景を考えてみても、妥当な理解だろう。ぼくは、名前が奪われたことのもう一つの面にも注目してみたい。それは、ハイデッガーが人間は石や木とは違って、地上に住まうものだと言った言葉に関連する。ライトの句では、詩的にこう詠われている。
I am nobody:
A red sinking autumn sun
Took my name away.
赤い秋の落日が
俺の名前を奪ったのだ
むろん、「俺の名前を奪った」のは、社会であり歴史である。しかし、名前を奪われたことで、地上に住まう「人間」のあり方を止めて、自然と一体化するのである。このとき、A red sinking autumn sunとライトは一体化している。社会的な疎外が自然同化に向わせたとも、自然と一体化したとき、俳人は何者でもなく、詩になるとも言えようか。
Nobody
― 映画『パピヨン』
あるいは三十年の歳月へのオマージュ
Nobodyと答えたとき
男は神になった
脱獄を繰り返した末の誰何
風のように
Nobodyと答えたのは正しい
紙一重の自由を
椰子の実の小舟に乗せて
男はその日
大西洋の白波に消えた
三十年
男を駆り立てたもの
あるいは狂気
あるいは愛
男はひたすら求めた
己自身からの自由を
Nobody
それは大いなる眠りである
脱獄は夢を見ることに似ている
塀の向こうも
監獄なのかもしれない
塀のこちらはすでに
エデンなのかもしれない
舟はもう見えない
Nobody
男は
米国風の発音だけを残した
Nobody
男でも女でもなく
Nobody
生でも死でもなく
Nobody
ただ
冬の青空がある
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