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死と健康

旧暦4月5日、月曜日。

ここ数日、耳鳴りがひどく、今朝は、起きた瞬間から、ひどくて、部屋にいられず、江戸川に逃げ出した。雲雀や葦切や草をわたる風の音を聞いていると、鎮まるのである。その後、病院に直行。聴力検査をしたが、「とてもいい耳です。聴力的な問題はありません」と医師は言う。「ストレス性ですか」と聞くと、「言い切れませんが、その可能性は否定できません」との答え。これでは、何も言っていないのと同じである。うがった見方をすれば、官僚の答弁と同じで、断定を避けることで責任回避のチャンネルを確保しているとも取れる。まあ、言い切れるだけの検査をしていない、ということではあろうけれど。いずれにしても、こういう状態だと打つ手はないらしい。3割の患者に効くという、脳の血流を良くし、末梢神経傷害を改善するという薬を出してもらう。これが効くかどうか。

常日頃、元気で死にたいと思っている。これが人生の目標の一つ、と言ってもいい。しかしながら、46にして、持病の薬を4種類、今日の分を加えると、6種類、毎日、服用することになる。薬漬けである。元気で死にたいわりには、ほとんど、運動していないのだが。

健康は何ものにも代えがたい。健康とは何か、考えたことがあるだろうか。健康のときには、無論考えない。ぼくの場合には、この15年、病院と縁が切れないので、勢い考えざるを得なかった。ぼくの健康の基準は、いささか、変わっているが、結構気に入っている。

1. 自殺しない:当たり前に思えるが、まともに生きようと思えば思うほど、自殺したくなってくるというのが、現代社会ではないだろうか。

2. 自閉しない:当たり前に思えるが、他者と向き合い、己と向き合うには、いささかの勇気がいる。

3. 根腐れしない:当たり前に思えるが、己がわかってくると、他者を羨望する、他者を妬む、劣等していく。これは、人間の性向ではないだろうか。ないものを望まずに、ひとを愛することがどれだけ難しいか。

無論、ぼくが、この3つの基準をクリアしているわけではない。ぼくのささやかにして大いなる健康の基準なのである。

ぼくは、オーデンのこんな詩句が好きである。

諦めざるをえなかった
可能性のすべてが、
いまのきみの性格の
命と温かみのもとなのだ。


W.H.Auden「誕生日おめでとう」部分

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