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芭蕉の俳句(107)

水曜日、のち。旧暦、7月16日、長崎忌。

今日は、寝るタイミングを間違えて、一日、ぼーっとしている。仕方がないので、仕事ができるようになるまで、本や新聞を読んでいた。夕方、江戸川を散歩。かっぱえびせんを雀にやっている少年がいた。しきりに鳥に話しかけている。今日は、台風の後のせいか、鳩は来なかった。雲と夕日が美しかった。

夕刊に、芭蕉の閑かさや岩にしみ入る蝉の声の「蝉の声」について、昔の論争が出ていた。茂吉は「群蝉鳴くなかの静寂」ととらえ、油蝉と主張。小宮豊隆は、「岩にしみ入る」の措辞に注目して、「細くて比較的澄んでいて糸筋のように鳴く」ニイニイゼミと主張。

結果は、ニイニイゼミ。芭蕉が山寺を訪ねた新暦7月13日は、油蝉が鳴くにはまだ早いらしい。7月の初めにニイニイゼミ、そして蜩。梅雨明けの頃に、みんみん蝉や油蝉が鳴き出すという。ぼくも茂吉のように、蝉の声の中の静寂にふさわしいのは、油蝉かなと思っていたので、ちょっと意外だった。油蝉の場合には、元気が良く声が大きいので、鳴き声の只中にふいに静寂が現れるような感じがするが、ニイニイゼミが大量に鳴く感じはきっと、鳴き声も含めた世界全体の静寂が際立つのではないだろうか。一度、経験してみたいものである。



何に此の師走の市に行く烏   (花摘)

■可笑しい。落語の一節みたいだ。おーい、鳥公、人間様じゃない、おまえが何で師走の町に用があるんだい! とでも言っているみたいだ。何度か読んでいると、まさに俳諧師の自画像に読めてきて、「烏」のとぼけた味わいが効いてくる。実際、芭蕉も町にでかける用事でもあったのかもしれない。


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芭蕉の俳句(106)

月曜日、。旧暦、7月14日。このところ、クーラーは夜通し弱めにかけて、昼間は扇風機にしている。昼間暑いよりも夜眠れない方が、作業効率が落ちる。

知恵袋データベース計画は、ベンヤミンの「歴史哲学テーゼ」を終了し、「パサージュ論」に入った。ヤフーにも「知恵袋」というのがあるが、ぼくの方が10年以上早い。登記はしていないけれど。ベンヤミンにはまりすぎても現実が見えなくなる危険性があるので、適度に相対化しながら進めたいと思っている。

終日、サイバーを訳す。どうもうまく進まない。英文は難しくないが意味がはっきり取れない。



あられせよ網代の氷魚煮て出さん   (蕉翁句集)

■「あられせよ」は「あられが降って欲しいものだ」。氷魚は鮎の孵化後1、2ヶ月を経た稚魚。半透明白色、体長2、3センチ。琵琶湖産がとくに名高い。このとき、芭蕉は膳所の草庵にいた。

「あられ」と氷魚の取り合わせの妙に惹かれた。パラパラと霰が降る様子と、氷魚の引き締まった感じが響きあっている。また、霰は雪やみぞれに比べて、降る時の様子が明るい。お客を迎えた芭蕉の軽やかな心の感じも伝わってくる。

ちなみに、あられも氷魚も網代も冬の季語。楸邨も言うように「あられ」が強く効いていると思う。
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芭蕉の俳句(105)

日曜日、晴れ。旧暦、7月13日。広島忌。

朝起きて、新聞を読んでいたら、トロツキー記事があった。学生時代によく耳にした、「トロツキスト」という言葉には、いわゆる世界同時革命論者という意味よりも、非現実的な過激派というマイナスのニュアンスと、レーニン=スターリンの社会主義の系譜とは異なる希望のポテンシャルという両義性があったように思う。この頃、ソ連っていったい何だったのか、とても気になる。そう言えば、「マル経」という学問がありましたね。今は、どうしているのだろう、マル経学者たち。



この頃、『ドイツ語語源小事典』(同学社 2001)を暇な時にパラパラ読んでいる。いくつか、面白い発見があった。ドイツ語で夏はSommer、冬はWinterだが、もともと、ゲルマン人には、四季はなく、夏冬2つの季節しか知らなかったという。ローマ人と接触して、四季を知り、春と秋の表現法を考案したらしい。春は「早い季節」を意味するFruehling(15世紀に秋に対応する言葉として作られた)、秋は「遅い季節」を意味するSpaetlingが考案されたらしい(ただ、ゲルマン人とローマ人の接触はこんなに遅いのか、ちょっと疑問が残る。ドイツ史に詳しくないので、見当はずれな疑問かもしれないが)

ゲルマン人が夏冬だけの認識で生活していたというのは面白い。種を春に蒔いて秋に収穫するという農耕が生活に浸透していなかったのだろうか。狩猟生活に近かったのだろうか。ローマでは、都市の背後に穀倉地帯を抱えていたので、春と秋は重要な季節だったはずである。



屏風には山をゑがいて冬籠り   (蕉翁全伝)

■後に芭蕉によって金屏の松の古さよ冬籠りに改案されるが、挨拶した主人の人柄が出ていて惹かれた。なんとも泰然として、しかも風雅な人柄が感じられる。また意匠が斬新で魅力を感じた。一方、楸邨も指摘しているが、「山をゑがいて」の部分は、まだ推敲の余地がありそうにも思える。

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ゲド戦記

金曜日、。旧暦7月11日。

午前中、仕事に専念。午後、家族と待ち合わせて「ゲド戦記」を観る。前評判が悪かったので、あまり期待していなかったのだが、かなりよく出来ていると思う。絵が雑だとか、青空が薄っぺらいだとかという評価もあったが、ぼくの印象は、逆で、背景画を周到に用意している。クロード・ロランやブリューゲルの絵をモデルにしたらしい背景画は実に繊細でニュアンスに富んでいる。とくに空と雲の描写は音楽的で美しく、海に石段が消えていくところなど、見たこともないローマ帝国の都市は、こんな感じだったのではないかとさえ思った。また、アニメーションのダイナミズムは特筆していいと思う。スター・ウォーズの第1作で驚いたダイナミズムと同じ驚きをこの映画でも味わった。静と動が渾然となってアニメとしてはトップレベルの作品だと思う。

作中でテルーがアカペラで歌を歌いアレンが涙を流すシーンがあるのだが、これが非常に良かった。歌の力というものを一瞬感じることができた。吾郎監督の作詞、谷山浩子の作曲だが、詞も印象に残った。ただ、残念だったのは、歌うシーンの草のざわめきなどが、マンガチックな描写であったことだった。背景画が美しいだけに、もっと丁寧にリアルに描きこんで欲しかった。

物語は一見、勧善懲悪の枠組みになっているが、多様な解釈を許すもので、観終わって謎が残される。家族で観たので、後で、いろいろ話してみたのだが、3人が3人ともまったく違う解釈だった。影がキーワードになり、実際に、アレンの「影」も登場して、ユングの考え方が応用されているように感じるが、一方で、調和した世界とその調和の崩壊というモチーフがあり、これは、マルクスの疎外論の機制とも重なる。また、死による生の虚無感といったニヒリズムの問題が、アレンと魔女(男?)クモに共通の問題として提示され、2人はこの問題の解決のために永遠の生を求める。テルーは、アレンに、生命の連鎖に目を向けさせ、アレンは、死で一切が無に帰することを恐れているのではなく、人生を引き受けて生きることを恐れているのだと告げる。

ぼくの意見では、吾郎監督の処女作の方が「ハウル」より良かったし、メッセージも分かりやすかったように思う。「ゲド」と「ハウル」のメッセージには同質のものがあるという意見や「ゲド」には未来を担う子どもに向けたメッセージがなかったという意見も出た。ぼくは、大人にも未来はあると思うし、大人を救うことも大切な仕事だと思うのだが……。いずれにしても、吾郎監督には、今後も期待したいと思う。



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