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芭蕉の俳句(110)

水曜日、のち。旧暦、7月23日。

マッド小泉が靖国に参拝。「英霊」はお盆でみんな故郷に帰ってるぜ、間抜け野郎!

加藤議員の実家が右翼に放火さる。20代、30代の右傾化顕著。日韓・日中の靖国問題を、すべて外交戦略上の問題に還元する前に、日本人としてどう生きるか、という倫理的な問題への対応をきちんと確立すべきじゃないのかね。産経系は、人間が高くも深くもなく、ただただ、薄っぺらい。You are plastic! 



午前中、病院。午後、用事。徹夜で出かけたので、さすがに疲れた。帰りにブックオフで新書を2冊200円で調達。「アメリカの環境保護運動」(岩波新書)、「アメリカのユダヤ人」(同)。今日は、もう読書して寝るだけ。



伊賀の国花垣の庄は、そのかみ奈良の八重桜の料に附けられけると云ひ伝へはんべれば、

一里はみな花守の子孫かや   (猿蓑)

■一里はひとさと=一村。花垣とは「花を保護するための垣」(広辞苑)のこと。平安代以来、奈良は八重桜の名所。花垣の庄は、その昔、八重桜の咲く頃は、花垣を結い、里人が桜を守って花守をしたという話を踏まえている。

「この村は全員がその花守の子孫なのだろうか」村人たちがみな花守だったという美しい言い伝えにも惹かれるが、そういう過去を踏まえて、その俤を今の村人一人一人に探している芭蕉の行為自体が美しく感じられた。この句は、その意味では、「過去を含んだ今」であり、美しい時間が二重に流れている。
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