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関西での対話(1) 虚子の戦中俳句(二)

木曜日、。朝が涼しくなった。夏特有の朝曇もなくいきなり晴れている。もう秋である。旧暦、閏7月8日。



虚子は、周知のように、愛媛県松山市の出身である。関西人である。当然、関西弁のイントネーションで日常会話をしていたものと思っていた。つまり、関東の言葉とは違う言葉で作句していたのだろう。そう思っていた。今度の旅行で、愛媛出身の友だちに会った。彼に、虚子の句をいくつか示して、実際に松山弁で朗読してくれるように頼んでみた。

驚いたことに、関東のイントネーションと同じなのである。友人の解説によれば、松山弁というのは、語尾に特徴があり、かなり、暖かい響きを持った言葉だという。実際、話してくれたのを聞くと実に素朴で、聞いている方は、リラックスしてくるような響きを持っている。関西弁とは、明らかに異なる言葉だった。

ここで、今回、言葉について感じたことをちょっと述べておくと。関東の言葉は、もともとローカルな言葉の集合体で、江戸下町の言葉や山の手言葉、北関東言葉に横浜系の言葉などが入り混じっている。こうした言葉をベースに「標準語」という人工言語ができている。たとえば、大阪で「標準語」で何か店員の女の子に頼む。あるいは、大阪のホテルで案内してくれた従業員の女の子と「標準語」で少し話す。あるいは、芦屋の谷崎潤一郎記念館の受付で、男性の係りの人と「標準語」で言葉を交わす。こうしたとき、相手は、きれいな「標準語」で返事をしてくれるものの、一瞬ではあるが、話しかけられた方は、「ひるむ」。こういう経験はないだろうか。この一瞬の「ひるみ」は、なんだろう。少なくとも、関東圏では、この一瞬の「ひるみ」はない。これは、「標準語」を話したとたん、関西では、何かが起動するのだと思う。それは、たぶん、「権力の響き」なのだ。「標準語」の裏には、近代化、国家、権力といったものが付着している。「標準語」との差異が大きい言語ほど、「権力の響き」が大きい。ここから、導かれる結論は、関西ではできるだけ関西弁でコミュニケーションすべきだということではないか。もちろん、それができれば、の話であるが。こうした言語の基本的な構図は、英語とその他言語の関係やマジョリティとマイノリティの言葉の関係にも言えるはずである。こんなことを、芦屋の谷崎潤一郎記念館の喫茶室で、昨日の六甲の友人と話しこんだ。彼は、関東弁が関西で嫌われるのは、この「権力の響き」と関係があると同意してくれた。



さて、虚子である。昭和12年(1937年)には、12月10日に南京で大虐殺が始まる。その前後の句を見てみよう。

1月23日 マスクして我と汝でありしかな

4月9日 花の如く月の如くにもてなさん

6月5日 老い人や夏木見上げてやすらかに

7月24日 月あれば夜を遊びける世を思ふ

8月8日 夏山やよく雲かゝりよく晴るゝ

10月15日 老人と子供と多し秋祭

11月8日 秋天に赤き筋ある如くなり

11月14日 静かさに耐へずして降る落葉かな

12月8日 砲火そゝぐ南京城は炉の如し

12月8日 かゝる夜も将士の征衣霜深し

12月9日 東京朝日新聞社より南京陥落の句を徴されて 寒紅梅馥郁として招魂社

12月11日 女を見て連れの男を見て師走

12月24日 冬麗ら花は無けれど枝垂梅

12月25日 行年や歴史の中に今我あり

■今では、しきりに、反戦キャンペーンを展開しているが、昭和12年の段階では、朝日新聞は、完全な好戦新聞だったことがわかる。それに応えて、虚子も戦争協力の俳句を詠んでいる。12月25日の句も、勝者あるいは支配者の歴史の中に自分がいるという句であろう。南京大虐殺の実態がわかるのは、戦後なのだから、情報統制化の昭和12年では、やむを得ないという見方もあるかもしれない。だが、12月8日の句に出てくる「征衣」という言葉や9日の寒紅梅の句に見られるように、中国大陸の征服に、祝賀ムードがあったことは確かだろう。「アジアの解放」というスローガンの実態とは「征服の喜び」に近かったのではあるまいか。こうした戦争協力の句に感じるのは、著しい「他者への想像力の欠如」である。
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