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俳句に現れた八月十五日(2)

土曜日、。旧暦、7月26日。

なんだか、雑用で終った。仕事、あまり進まず。



敗戦の日のあをぞらを語り継ぐ    野木藤子

近代俳句のもっとも良質な部分が受け継がれた句だと思う。この句には、主体が誓いの形で表現されている。その主体とはとりも直さず、「われわれ」である。このとき、季語は「敗戦の日」が正しく、「終戦の日」では、この句は成り立たない。

では、次の句はどうだろうか。

白雲は天上の花敗戦日   上田五千石

どこか、ちぐはくな感じがしないだろうか。「敗戦日」が浮いている感じがしないだろうか。では、こうだったらどうか。

白雲は天上の花終戦日

しっくりこないだろうか。おそらく五千石氏は、昨日、ぼくが書いた、コンテキストで「敗戦日」を考えていたはずである。氏の思想として、あえて、「終戦日」と言わず「敗戦日」を選んだものと推察する。

もう一つ次の句を見てもらいたい。

終戦日厠の裏に紫蘇ゆたか  飴山實

この句が、逆に

敗戦日厠の裏に紫蘇ゆたか

だったとしたら、落ち着かないばかりか、奇妙な感じさえ受ける。

俳句は、そもそもモノローグなのだろうか。一個の主体が独白するモノローグなのだろうか。おそらく違うだろう。そもそも、共同性が前提の文芸だからだ。連衆や自然との関係性が、作品の基礎にある。連衆への挨拶、自然への挨拶、古人の痕跡を留めたトポスへの挨拶が基礎にある。

さらに言えば、俳句の「己」は限りなく他者あるいは自然と浸透しあっている。別段、この句を詠むのは「己」でなくてもいい。他者や自然、あるいは神であってもいい。万葉集からの「詠み人知らず」の系譜は、俳句にも、ある面、流れ込んでいるとは言えないだろうか。

そんな俳句の体質と責任・主体を強く意識させる「敗戦」は、取り合わせが非常に難しいのではないだろうか。ちぐはぐ、しっくりこない、どうも落ち着かない、といった感じはこの辺から来るように思う。

「敗戦」という言葉を使うとき、自然や社会全体から浮き上がり、自然や社会に対立した国家の姿が現れてくる。戦争は、人間対人間の戦いであるばかりか、自然破壊を伴ない、自然を憎みさえする。人間は、自然あると同時に自然ではなく、いわば、地上に住まうものである。自然に挨拶もすれば自然を壊しもする。

「終戦」という言葉は、人間の側の言葉ではなく、あえて言えば、人間を包み込んだ大いなる地球から発せられた言葉と考えられないだろうか。だから、俳句にはしっくりくるのだ。「終戦」という言葉を俳人が使うとき、戦争責任や戦争主体といった問題を隠蔽してしまうという危険性を自覚しつつも、地球から愚かな人間に発せられたメッセージとして「終戦」という言葉の意味を汲み取ることも大切な気がするのである。

(住むということは痕跡を留めることである。   ベンヤミン)

破壊の痕跡は、今も営々と続いているのであるから。
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