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いまここに在ることの恥(1)

木曜日、。旧暦、閏7月1日。

辺見庸著『いまここに在ることの恥』(毎日新聞社)を読んだ。この本の感想を何から始めればいいのか。とても、内容をきれいに説明して、それで良しとできる本ではない。この本は色彩で言えば、暗褐色。

時代の危機が一人の個人の危機として現れることはあると思う。この本は、脳溢血・癌という二重の病に見舞われた著者が、自分の極限を見つめることで、時代の極限を見つめた本だと思う。その極限の思索は、ジャーナリストだったときの経験や、同じように極限を見つめた他者の言葉を手がかりにしている。

大きく分けて、この本には、「倫理の麻痺をめぐる問題」と「現代のファシズムをめぐる問題」の二つの中心がある。倫理の問題では、たとえば、カンボジア難民を取材するジャーナリストの資本の論理(ジャーナリストは自分も含めて「糞ハエ」だ!)を批判する中から「恥」という概念が新しく鍛え直されてくる。それは、プリーモ・レーヴィの「人間であることの恥辱」といった考え方・感じ方やジョルジョ・アガンベンの「今きみが語っているその語りかた、それが倫理だ」という言葉と通底している。

この問題を語る辺見さんの逸話の中で、とりわけ強い印象に残ったのは、中国大陸で旧日本軍が人体実験をする話だった。生きた健康な中国人の人体に麻酔をかけて、五臓六腑、手足頭をバラバラに切断していく。この作業をルーティンとして医師や看護婦が淡々と進める。中国人は、自分がどうなるのか、知っているので、手術台に上がろうとしない。そのとき、日本人看護婦が「麻酔をするから痛くありません。寝なさい」と優しくささやき、「患者」はうなずいて手術台にあおむいた。看護婦は医師をふりかえって<どうです、うまいものでしょう>といわんばかりに笑いかけ、ペロリと舌を出してみせた。この「ペロリ」のなんと恐ろしいことだろう。そして、その当時、その場に、日本人として、居合わせたとしたら、自分はどう行動していたか。それを想像することはもっと恐ろしい。

ぼくは、以前、辺見さんの「恥」ではないが、この概念に近いものとして、「原罪」という概念をブログで述べたことがある。宗教的な概念である原罪を社会科学的な概念に作り直せないか考えてみたのだ。

辺見さんの言う「人間の恥」は、人間であるがゆえにアプリオリに存在する恥であり、あるとき、ある場所で、ある行為に、人が恥を感じるというときの恥とは異なる。アプリオリな恥の感覚の鈍磨をするどく告発していて、敬意と共感を覚えた。この鈍磨は、社会全体の近代化と深く関わっているようにぼくは感じた。その意味では、「倫理の麻痺をめぐる問題」は近代批判ともなっている。

辺見さんの本については、他にも述べたいことがあるので、また、稿を改めて論じてみたい。



いまここに在ることの恥 (角川文庫)
クリエーター情報なし
角川書店(角川グループパブリッシング)






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